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いろにはゆるも

 ひとり暮らしをはじめるまで、飯炊きなどしたことがなかった。「飯炊き」と表現したが、炊飯ジャーの使用方法くらいは知っていた。幾らわたしでも、説明書きを読めば家電製品程度のものなら扱える。それに、母親や祖母が流しで釜に入った米をごしゃごしゃ洗っている姿をしょっちゅう目にしていた。
 婆さんと同居していた訳ではなかったが、母の田舎は実に長閑で、なんと謂うか、世俗と隔絶したような処だった。わたしはそこが大好きで、休みとなれば親にせがんで連れて行って貰っていたのだ。十五分も歩けば駅があったし、国道が家の前を走っているのだが、山と川に囲まれた如何にも田舎らしい風景が、無味乾燥な住宅街で暮らしている子供にとっては別天地のように思えたのである。
 少々変わり者だった祖父の話を聞いて、彼が寝てしまうとひとりで河原に降りて行ったり、山の斜面に作られた畑へ祖母と一緒に野菜を取りに行ったりするのが夏休みの楽しみだった。
 蟲を見つけても、ただそれを観察するだけで、捕まえたりしなかった——気持ち悪かったからではない。親しく思う友達を、嫌がるのに捕まえるのは、心苦しかったのだ。地元の子供らとも遊んだりせず(子供なんか居ただろうか)ひたすらひとりで遊んでいた。
 もしかしてわたしは暗い人間なのだろうか。
 ううむ、やっと己れの暗部を見つけ出したぞ。ひとのことを底抜けの馬鹿呼ばわりする阿呆の牧田に毛筆で書き送ってやろう、着払いでな。いや違う、飯炊きの話をしていたのだ。危うく忘れるところだった。
 その母の実家の勝手口の傍に、タイル張りの流しがあった。山からそこら一帯の各家庭に清水が引かれており、季節を問わず蛇口からじゃばじゃば流れていた。天然のものなので、無料である。夏でも冷たい。流しっぱなしなので冬でも凍らない。祖母は、そこで米を洗っていた。
 で、自分で米を炊く段になって、「要するに水を入れて掻き廻しゃあいいんだろ」と安易に考えていた。
 ところがどっこい、この初手の初手から間違っていたのだ。知らないと謂うのは恐ろしい。
 ——米は洗うのではない、「研ぐ」のである。
 それには、釜(ボウルでも洗面器でもいいのだが)に米を投入し、水を入れ、軽く廻し、暫し手を止める。浮いてくる米を落ち着かせる為である。この浮いてくる米は古いからとか、出来が良くないから不味いとか云われているらしいが、わたしは気にしない。どちらにしても、次の段階である程度は流れていってしまう。
 その次の段階とは、釜を傾け、利き手に依って違うだろうが、わたしの場合は左手で笊のように受けながら(指は揃えること)水を切る。そこからおもむろに、がっしゃがっしゃと米を押すようにして掻き廻す。水が糠で白く濁ってくる。で、また水を入れて洗い流す。糠を洗い流さねばならない理由は知らない。そこに栄養があるような気がするのだが、そのまま炊くと臭くて喰えないのだろうか。
 住んでいるアパートの流し台は、古い所為なのかなんなのかよく判らないが、わたしには低い。台所仕事をずっとしていると腰をいわしそうになるので、手の込んだものは作らない。この米を「研ぐ」作業も、文字にすると何やらどえらい手間を掛けているかのような錯覚を起こしそうだが、はっきり云って鼻提灯を膨らませていたって出来る作業である。
 本当は、「飯炊き」などと謂う表現を軽々しくしてはならない。「飯炊き(女)」「飯盛り女」と謂えば、昔は春を鬻ぐ女性を指す言葉だったからである。恐らく、下働きのついでにそういったことをさせられていたのだろう。
 「男子厨房に這入らず」
 この考え方は比較的新しいものらしい。実際、職業的調理人(板前やシェフなど)には男が多い。寿司職人の世界では「女の手は温かいからシャリが不味くなる」などと、云い掛かりに近いことを建前に、女性の進出を阻んで来たらしい。冷たい手の女だって居るだろうし、冷やして握ればいいのではなかろうか。
 ぬくい手の女にばかり握られていた奴が云い出したのだろうか。何処を、とは云わないが。
 飽食の時代に育った反動なのか、わたしは子供の頃から少食だったのだが、背丈はそこそこ伸びてくれた。米を縦に喰ったからではないと思う。閑さえあれば寝っ転がっていたからであろう。寝る子は育つ。
 子供の頃から既に甘いものが苦手で、果物も滅多に食べなかった。ビタミンCは何処から摂取していたのだろう。よく壊血病にならなかったものだ。あと、大きな声では云えないが、幼少の砌りより親の晩酌につき合っていたので、アルコールのカロリーも手助けしていたのかも知れない。小さいコップに一杯程度では役に立たんか——何の役というのだ。
 いいちこの水割り、寒くなったらお湯割り。その肴として食卓に並べられたものをちょこちょこ突ついて喰っていた。
 なんという親なのだろうか。晩酌用のコップを、卓子にきっちり子供の分まで並べていたのは親父だ。その頃、わたしはまだ幼稚園児だった——その頃もこの頃もない、小学校に上がろうが、中学に進学しようが、大学受験を控えていようが、家族で食卓を囲むと三人でいいちこを呑んでいたのだ。現在に至るまで焼酎党である。
 よくアル中にならなかったものだ。
 酒の当てになる類いの料理に、子供が好んで食べるものは多くない。「茎わかめの芥子酢味噌和え」や「葱のぬた」「なめこおろし」などが好物だと云う子供には、あまりお目に掛かったことがない。
 わたしには小さい友達が常に何人か居るのだが、彼らはスナック菓子やハンバーグやカレーライスを好む。彼らに勧められ、スナック菓子とやらを喰わせてもらった——それまでそう謂った類いの菓子は食したことがなかったわたしである。
 すかすかで幾らでも喰えそうだが、塩と油を多用したものが多く、十代にもならないうちから成人病になる者が増えている理由が判った。若者はスナック菓子をばりぼり喰っている。病気にならない方がおかしい。
 わざわざ「常に」と表現したのは、小さい友達はじきに大きくなる。大きくなると、挨拶か、せいぜい立ち話くらいしかしなくなる。そしてもっと大きくなると、
「木下さん(わたしのこと)、お久し振りです」
 などと大人のような口振りで話し掛けてくるのだ。
 わたしはまるで棒杭のようなものである。周囲は変化してゆくが、此方は殆ど変わらない。風化はしてゆくものの、わたしはずっと同じ場所に立っている。


 はじめて小さな友達が出来たのは東地区のアパートに引っ越してからなのだが、こいつらがまた鼻が利くと謂うのかなんと云うのか、わたしを大人に見えるが自分たちと程度が(さほど)変わらないことを敏感に見抜いたらしく、矢鱈と懐いてきたのだ。実家に居る時にそう謂ったことがあまりなかったのは、学校とアルバイトと趣味に忙殺されていたからだろう。
 ちょっと待て、社会人になって閑になったなんて謂うのは変じゃないか。普通、逆だろうが。
 兎に角、わたしがコンビニエンス・ストアー(駅前にあるのだが、わたしが住む五年前にはなかったそうである)やスーパーマーケットへ行こうとすると、お子様方は、必ず階段脇の駐輪場辺りで遊んでいるのだ。
 そして、話し掛けてくるので相手をしてやっていたら、遊びにまで巻き込まれるようになった。小さい子供のやることはわたしが幼かった頃とさして変わらない。世間が広がってくると、家に籠って不健全な遊びに耽るようになるが。
 不健全と謂っても子供のやることなので、コンピューター・ゲームなどである。小学校にも上がらないうちから自慰に耽ったり、不純異性交遊をする訳ではない。
 清世(当時の同居人、現在の妻)とは木曜日に休みが重なっていたのだが、彼女と一緒だと若干おとなしめになるのは何故なのだろうか。 休みが重なっておらず、ライブの予定もない土曜日の二時三時などに出掛けようものなら、買い物先にまでついて来よる。
 いくら子供とは謂っても、遠慮の二文字くらい備わっている。最初のうちはアパートの前で会っても、
「おじさん、何処行くの? 遊ぼうよ」
 当時、わたしは二十二才である。
「煙草となんか喰うもんコンビニで買ってくるから、後でな」
「こんな時間に食べるのー」
「そーなのー」
 と謂う長閑な会話が交わされるだけであった。が、或る日、ひとりの子供が一緒に行ってもいいかと訊ねてきた。深く考えずに承諾したわたしが馬鹿だった。
 それまで五人の子供を連れてコンビニエンス・ストアーへ行ったことなどない。コンビニエンス・ストアー以外の場所でもない。こんな処で買うものの金額などたかが知れているだろうと、好きなものをひとつ選んで来なさいと、余裕ぶっこいてしまった。
 此方は適当に喰うものを選んで、レジの兄ちゃんに煙草の番号を伝えて「カートンで」とつけ加えていた。そこへ五人がわらわらやってきて、レジカウンターによいせよいせと手にしたものを置いた。慥かにひとりひとつづつだった。
「ご一緒で宜しいですか」と、レジの兄ちゃんが微笑ましそうに訊いてきた。
「あ、一緒で」
 そこまでは良かった。
 合計金額を聞いて、わたしの耳か、兄ちゃんか、レジスターが壊れているのだと思った。
 しかし、誰も、何も壊れていなかった。子供たちが持って来た小さな箱が、トミカのミニカーくらいの値段だったのである。実際それらは菓子というよりは玩具で、中に入っていたのはラムネの粒数個と立派なおまけであった。
 大きさで値段を判断してはいけないことを、わたしはこんなところで学習した。
 先にも書いたが、年少の友達は数年で若年の友達となる。そうすると、友達同士で最新の遊びに興じ、襤褸アパートの「おじさん」のことなど忘れがちになる。幸いなことにアパートのある場所は下町で、子供のうちから受験戦争に巻き込もうとする馬鹿親は居なかったし、子供は後から後から生まれて来る。そう謂った訳で、わたしには「常に」小さな友達が居たのだ。
 わたしに寄ってくる子供達の殆どは男の子だったが、その子らの姉や妹や、そのまた友達が居た。いつか、男の子と取っ組み合いの喧嘩をして、「弱い子苛めていきってんじゃねえよ」と、まるでヤクザ映画のような啖呵を切った少女は、他の子らに苛められ、いじけていた女の子の根性を叩き直した。すげえ。
 同性の弱い者に対して、女性が身を以てして守ろうとする姿勢を取るのは、物心ついてからは少ないように思う——自分の子供は別として。
 しかし、子供はすぐ大人になる。自分もそうだったろうかと顧みると、小さい友達が仲間だと思うくらい中身が成長していない。
 子供は好きだが、自分には居ない。子作りをしなかった訳ではないが、出来なかった。まあ、知り合いの子供が居るので、特に淋しく感じたことはない。その成長過程を眺めておればそれなりに愉しかったし、向こうも此方を好いてくれる。やはり同程度の人間だと看做されているのだろうか。
 脳という器官は糖分(ブドウ糖)でしか動かないらしい。しかも、煙草を喫うと血管が収縮して血の巡りが悪くなる。わたしの場合、その両方で負担を与えていたが、煙草は五十を越してからやめた。しかし食は更に細くなった故に、ひとに馬鹿だと云われるのだろうか。
 いや、本物の馬鹿に向かってそんなことをはっきり云う奴もそうそう居ないだろうから、完璧なところまでは到達していないと思われる。
 しかし、確実に呆けるにはまだ早いだろう。わたしとしては一向に構わないのだが——呆けたことは呆けた本人にははっきり判らないものである。 が、周囲の者が迷惑を蒙るだろう。よれよれになってから放り出されないように、飴でもしゃぶって脳を活性化させよう。


 子供の頃に得た調理の知識に、「土の中の野菜は(つまり根菜類)水から、菜っ葉はお湯から」と謂うのがある。野菜を煮る際の心得のようなものだ。芋や大根などを沸騰した湯で煮ると、内側と外側に温度差が生じて煮くずれを起こすそうなのだ。「ひたひたの水」にするのは、大量の水では野菜が踊ってぶつかりあい、やはりくずれてしまうからである。自由に出来る場所が少しでも広ければ、野菜と謂えども踊り出すらしい。
 菜っ葉を茹でる時は、たっぷりの水で沸騰してから塩をひとつまみ入れる。塩を入れるのは葉色が鮮やかにする為だが、鮮やかじゃなくてもいいならば入れなくても構わない。蓮根や長芋を調理する際に酢水に晒したりするのも漂白効果があるからで、黒ずんでいたって構やしないという方はこの行程を端折っても死にはしない。
 筍は糠と一緒に煮て灰汁をとる。
「そうしないとエゴいんだよ」
 祖母の云う「エゴい」の正確な意味は聞かず仕舞いだったが、要するに苦かったり渋かったり変な味がすることなのだろうと思った。春の連休になると母の実家に泊まりがけでゆき、竹藪へじいさんとふたりで麻袋と細鍬を手にしてゆく。
 春休みではまだ早いのだが、五月にもなると既に穴ぼこだらけになっていることが多かった。匂いを嗅ぎつけた猪が、土から顔を出すか出さないかの料亭でしか味わえないようなのをほじくり返して喰ってしまうのだ。
 何という贅沢な獣だろうか——彼らにとっては単なる植物の芽でしかないのだが。私有地とはいえ、猪にそんなことを云っても仕方がない。爺さんが云うには、此処の筍はスーパーマーケットなどで売られているものより軟らかくて味も良いので、人間も盗ってゆくのだそうだ。よく見ると、猪がほじくった跡と人間が掘った跡の違いは歴然としていた。猪は軟らかいところだけ喰い散らかして、当然のことながら片づけていったりしない。
 穫った筍の小振りなものは、アルミホイルに包んで焚き火の中に突っ込んでおく。焼き芋と同じ要領だ。ほかほかの焼きたてに醤油をつけて食べる。こんな単純な調理法で、どうしてこんなに旨いのだろうか、と驚いてしまうくらいである。野外で何かすることにあまり関心はないのだが、この晩春の焼き筍は大好きだった。
 祖父が死に、祖母も亡くなり、そこへ行く当てがなくなった。車でゆくと三時間以上かかる処である。用もないのに遠出はしない。誰も居なくなった母の実家は、近所のひとに頼んで管理してもらっていたそうだ。
 定年する頃まで建っていたなら移り住もうか、と思っていたら、両親がさっさとそこへ隠居してしまった。そして、ぼやぼやしているうちに、今やそこへ移り住むことは出来ない身の上となった。
 黒板塀で黒板壁の、実に古くさい建物で、蔵まであった。
 記憶にある田舎の風景は、妙に色鮮やかで、寝床の中で聞いた夜の川のせせらぎまで鮮明に蘇ってくる。日が暮れてから見る山は漆黒に沈み、踞る大きな獣のようであった。まだ目が良かったので、小さな星までくっきり見えた。ざらめを撒いたようにたくさん瞬いていた。
 祖父の話を聞いた縁側は、今ではもう朽ちてしまったのだろう。そこへ行くことは、もうない。行ったところで、何かを見ることも出来ない。


 さて、わたしもそうなのだが、貧血気味の方、或いは鉄分を必要とされる方にうってつけの料理を紹介しよう。簡単なのでご安心を。
 材料は牛レバー、ベーコンの薄切り(1、2枚)、タマネギ、セロリ(臭みを消す為)、人参、マッシュルーム、既成のコンソメ、バター、小麦粉、赤ワイン(なければ普段飲んでいる酒で良し)、月桂樹の葉(なければ入れなくても良い)。調味料として塩、胡椒少々。
 レバーは牛乳につけ置くと臭みも取れるし、血抜きも出来る。これは基本なので覚えておくように——レバーが食べられないひとは忘れても構わない。と謂うか、そうしたひとは、これを作る気にすらならないであろう。
 ベーコンは1センチ幅に切る。玉葱と人参は皮を剥いて薄切り、セロリも筋を取り除き、マッシュルームも石突きを取って同じく薄切り。
 コンソメを水で溶く——量と味については人数、個人によって違うと思うので適当にやって頂きたい。レバーは水洗いし、一口程度の薄切りにして、塩、胡椒を振り小麦粉をつける。
 フライパンにバターを入れ、ベーコンを炒め、脂が出たら一旦取り出す。同じフライパンにレバーを入れ、ちゃっちゃと両面を炒め、これも別容器に移す。
 フライパンの脂を拭き取り、バターを適量入れて溶かし、野菜を投入。じっくり炒める。そこへ小麦粉をひと匙半くらい振り入れ更に炒める。粉っぽさがなくなったら溶かした即席スープを半分程少しづつ加えのばしてゆく。
 そろそろいいんじゃないかと思ったら、厚手の鍋に移し、レバーとベーコンを加え、マッシュルーム、月桂樹の葉を加え、何か足りないと思ったら更に何か加え、赤ワインと先程の残りの即席スープを注ぎ、強火で煮る。
 沸騰したら中火にして、灰汁を取りつつ三十分ほど煮込む。
 ——以上。
 使用するのはフライパンひとつと鍋ひとつ。切ったり炒めたりする手間を除けばただ煮るだけの簡単調理で、健康美容に大変宜しい(らしい)。
 わたしの経験上、煮物が一番技術を要さない。具材を一口大に切って鍋に放り込んで適当に味つけをして、後は中火か弱火でことこと煮込めばいいだけなのだ。料理が出来ない、苦手だという女性は、地味臭いと思うかも知れないが、煮物からはじめると簡単に、しかも煮詰めない限りそこそこ旨く出来るので自信がつくのではなかろうか。本職の料理人じゃないのだから、見映えなど気にせんで宜しい。
 喰って旨ければそれでいいのだ。

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