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痛くない呪文

 光太郎はこの頃外出するようになった。医者にはいいことだと云われたけれども、ぼくとしてはあまりいいことのように思われなかった。公園へ散歩に行くというのなら良かったのだが、行き先は隣に住む女性の同僚である、ちょっと変わった男の家だったからだ。
 なんというか、噺家のような男だった。
 名前は尾長源一郎といった。光太郎は何故かその素っ頓狂な男に懐いてしまったのだ。病院から処方されるものしか受けつけなかったのに、その男がはじめて(強引に)うちへやって来てハンバーグと大根の千六本を出したら、美味しいと云って食べた。何を考えているのか判らなかったが、その男はそれ以来、屡々うちを訪ねてくるようになり、彼の住む狭いアパートへ呼ばれるまでになった。こともあろうに、まだ十七の弟に日本酒を勧めるのだ。呆れてしまったが、まあ、お猪口に二杯程度だったので許した。
 真面目な男のようだから安心してはいたが、必ず弟に同伴して行った。どちらにしても弟はまだひとりで外に出るのが怖いらしく、連れていってくれとぼくにせがんだ。
 赤いものを怖がると云ったら、それは宜しくありませんと、朱の金魚がしこたま染めつけられたてぬぐいを寄越した。弟が「いたい」と云ったら、「これは絵です、痛いことなどありはしません」と説明していた。
「世の中には赤いものなど溢れ返っているのですよ。それをいちいち怖がっていたら、生きるのが困難になってしまいます。怖いものを避けてはなりませんよ、光太郎君」と彼は云った。
 部屋に戻ると光太郎はてぬぐいを眺め、「いたくない、あかいきんぎょ」と呟いていた。そうだよ、と云うと、此方を見上げて「おかーさんもいたくない」と小さな声で云った。ぼくは少し泣きそうになって、もう一度「そうだよ」と答えた。
 彼の母親、ぼくの義理の母は交通事故で死んだ。そこに弟も居た。奇跡的に助かったが、脳に損傷が残ってしまった。だから、こんな喋り方をする。それ以前の記憶も失っていた。ぼくのことも兄だと思っているのかどうか、よく判らない。
 弟が懐いている人間がもうひとり居た。
 隣に住む美野一子という女性である。一度、ぼくが熱を出して寝込んだ時に光太郎の面倒を、なにくれとなく見てくれた。彼女が弟に、母親は午寝をしているから会いに来れないのだと教えてくれた。そのお陰で「おかーさんはおひるねしていて、いたくない」と弟は思っている。下半身が潰れ、血塗れで死んだ母親のことを。
 殺したのは、ぼくの実の母だった。
 美野というひとは、少々男性恐怖症のきらいがあって、おっかな吃驚ぼくに対応する。そこがちょっと可愛らしかった。辞めてしまった大学でつき合っていた森江美佐子という女の子とは、此方から別れた。弟に掛かり切りで、ろくすっぽ相手もしてあげられなくて心苦しかったのだ。自分本位な行動だったと、今にして思う。
「うちの尾長君がなんか、光太郎君にちょっかい出してるらしいんだけど……」
 そう云って美野さんが訪ねてきたことがあった。別に迷惑していませんよ、と答えたら、「 あの子、変だから」と、まだ心配そうにしている。
「あ、変って云っても、変態じゃないから安心して」
 その言葉に思わず笑ってしまった。その時、彼女のTシャツの肩に髪の毛がついていたので、なんの気なしに取ったら、彼女は怯えたように固まってしまった。すみません、とすぐに手を引っ込めると、向こうもすみませんと返した。その時、ああ、このひとは男が苦手なんだな、と思った。
 或る日、彼女がメーカーから従業員に頒布されたというTシャツを持ってきた。
「Mだけどゆったりしてるみたいだから、光太郎君にはちょっと大きいかも知れないけど……」
 と、弟に手渡した。 青い地に白く小さな文字で、メーカー名がバックプリントされている。ありがとうは、と光太郎を軽く突いて促したら、彼は小さな声でありがと、と云った。
「Lサイズは店長と尾長君が持ってっちゃったの」と彼女はくすくす笑った。ぼくまで頂く訳にはいきませんよ、と云ったら、でもタダだから、と彼女は微笑んで答えた。Tシャツは痩せた弟が着るとぶかぶかだった。身長はあるので、丈は合っているのだが、横に取られないのでだらりとした印象になる。もっと太らなきゃな、と云うと、黙って頷いた。
 それでも弟は尾長さんが作る料理以外はやはり病院食しか口にしなくて、あまり体重が増えなかった。そもそも、彼が作るものは純和食で、味噌汁とか焼き魚とか煮物ばかりなので、あまりカロリーが高いとは思えない。
 それなのに、彼は小太りだった。慥かに食べる量は多い。一膳飯は宜しくありませんと、必ずご飯をお代わりしていた。

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 光太郎がよく痣を作るようになった。何かにぶつかったりするほど動き廻ったりしないので、念の為に病院へ連れていったら血小板欠損症と診断された。栄養価のあるものを食べて鉄分を補えば治るそうだが、入院することになった。
 ひとりでアパートに戻ったら、エレベーターで美野さんと一緒になってしまった。光太郎君はどうしたのかと訊かれ、「ちょっと入院……」そう云いかけて、言葉が詰まってしまう。弟を病気にしたのは自分の所為だ、それを思うとやりきれない思いがして、消えてなくなってしまいたくなる。
「入院って、何処か悪いの」と、彼女が心配そうにこちらを覗き込んで訊いてきた。まともに食事をさせなかったぼくが悪いのだと云ったら、
「そんなの仕方ないじゃない。圭一君だってまだ若いのに仕事して、それも忙しくてるんだし……」
 と彼女は呟く。涙が出てきた。こんなみっともない姿を見られたくない。
 彼女はおろおろして、何度も「大丈夫?」と訊いてきた。心細い時にひとりで居たら碌なことないから——と、男嫌いの筈なのに、ぼくらの部屋に上がってきた。何気なく彼女を見ていたら、以前はピアスをしていたのに外していることに気づいた。それを訊ねたら、「光太郎君が怖がるからもうしてないの」と答えた。
 優しいんですね、と云ったら、「優しくなんかないよ。わたし、すごく自分勝手な人間だもん」彼女はそう云いながらコーヒーのカップを寄越した。
「砂糖ないんだね。こういう時は甘いもの摂った方がいいのに。瑛子なんかむかついたり落ち込んだりするとチョコレートとかシュークリームとか、食べまくるよ」
 それを聞いて「あのひとでも落ち込むんですか」と、思わず云ってしまった。美野さんはそりゃそうだよ、と笑って、
「あの娘、あれですごく繊細なんだよ。ああいう言葉遣いするのは鎧みたいなもんかなあ」
「そうなんですか」
「男のひとには判らないのかな」
 そうひとりごとのように呟いた。慥かに申し訳ないが、小杉さんのような女性が繊細だと謂うのは、男には計り知れない。
「光太郎君もチョコレートとか食べれば太るのに」美野さんはそう云って、くすくす笑う。あいつも甘いものあんまり好きじゃないから、と云ったら、兄弟揃って、と彼女は呆れた顔をした。
「光太郎はぼくのこと、兄弟だなんて思っていないですよ、たぶん」
 そんなことを云うつもりなどなかったのに、つい口走ってしまった。なんで、と彼女は吃驚したような顔をした。
「事故に遭うまではぼくのこと、普通に兄さんって呼んでいたから」
「それは……。うーん、最初のうちは判らなかったかも知れないけど、今はちゃんとお兄さんって思ってるよ。他人はこんなに尽くしてくれないことくらい判る筈だもん。けいって呼ぶのが口癖になっちゃっただけで……」
 取り繕うように彼女は云った。そうだろうか、とぼくは思った。
 弟が一ヶ月ほどで退院すると、美野さんはこれならあんまり甘くないから、とチーズケーキを持ってきた。光太郎は少しづつだけれど、全部食べた。病院で普通食を出されていたので、慣れてきたのかも知れない。彼は元通り、尾長さんが休みの日には彼のアパートへ行き、大家さんが世話をしている花壇を眺め、玄関に座り込んで時々隣の女性達とぽつりぽつりと言葉を交わしていた。
 美野さんは、よかったね、とぼくに云った。

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 まぶしい陽ざしのもとは実はきみだったんです
 思わずひるんでしまったぼくです
 心に太陽照るように昼下がりの風に乗って飛んで行きます
 見つめるとまぶしすぎて目をつむってしまうほど
 知っているんだ ずっとぼくが会いたかった少女
 くらくら とろけるようなくちづけ夢見てるぼくです
 めらめら燃えるような恋を夢見ている今日この頃は
 正午過ぎのバスにゆらりゆられてきみに会いに行く
 嬉しくなるような日なんです
 昼下がりの風のように行く先知れず人知れず
 きみへ飛んで行きます


 仕事中に聴いた、サニーデイ・サービスというバンドの曲だった。ぼくは美野さんのことが好きなのだろうか。男が苦手で、ぼくと喋る時はおどおどしている彼女のことが好きなのだろうか。でも、そんなことなど判らなくていい。今のところ、彼女は隣に住んで居る。
 光太郎はぼくのことをけいと呼び、赤いものを見ると自分に云い聞かせるように「いたくない」と呟いていた。彼はもう、大人にはならない。どれだけ年をとっても。それは悲しいことかも知れないが、本人は判っていないのだから気にする必要はないだろう。
 ぼくは光太郎が居る限り、自分の自由には出来ない。だからといって、彼を枷のように思っている訳ではない。彼をあんな風にしてしまったのはぼくの母親だし、母をあんな風にしたのは、ぼくと父だからだ。

 秋が深まった頃、光太郎の手を引いて美野さんが働くジーンズショップがあるスーパーマーケットへ行った。彼の為に何か上に羽織るものを、と思ったのだ。専門店街は女物の店が多く、結局彼女の居る店へ行くことにした。そのジーンズショップは二階にある。ぼくらに気づいて声を掛けてきたのは、尾長さんだった。
「おや、お珍しい。光太郎君もご一緒ですか。本日はナニですか、ジーパンでもご覧になりにいらっしゃったので?」
「いえ、弟の服を……」と云っているところへ美野さんがやって来た。
「あれ、圭一君、珍しいね。なに買いにきたの」
 ぼくはまた、弟の服を買いに、と答えた。どんなものがいいのかと訊ねられ、「涼しくなったんで何か羽織るものを……」と云うぼくに、「ご予算はいかほどで」と尾長さんが訊いてきた。
「誕生日なんで、そこそこのものを買ってやりたいのですが」
 そう云うと、「誕生日なんだ。幾つになったの」と彼女は訊ねてきた。十八です、とぼくは答えた。圭一君は幾つなの、と重ねて訊ねられ、先月二十二になりました、と云った。
「二十二……。わたしたちとあまり変わらないのですね。因にわたしは二十六です」尾長さんは訊いてもいないのに口を挟んだ。
「美野さんも?」何気ないふうに訊ねたら、わたしはまだ二十五、と笑った。ぼくは頭の中で、二十五、二十五、と阿呆のように繰り返していた。
 内心浮かれているぼくを無視するかのように、美野さんは弟の服を見繕っている。これだと丈が短いかな、と呟きながら美野さんは青灰色のパーカーを取り出した。
「光太郎君の年頃だったら、こういうのでいいんじゃないかなあ。もっとも、この店にはこういったカジュアルで安いものしか置いてないんだけど」
 彼女はパーカを弟に羽織らせた。少し大きかったが、ぶかぶかというほどでもない。彼はきょとんとした顔をしていた。
「これから寒くなるからね、お兄さんが買ってくれるんだって」彼女の言葉を聞くと、光太郎はぼくの方を見上げた。気に入ったか、と訊ねたら、黙って頷いた。
「Tシャツなんかもあった方がいいかな」
 ぼくの顔を見上げてそう云った彼女に、曖昧に頷いた。あんまり濃い色だとよけい痩せて見えちゃうからと彼女が選んだのは、ブルーグレーのボーダーの長袖Tシャツだった。
 尾長さんに包装とレジを任せて、彼女は棚の方へ戻った。店を出ようとすると、彼女が近づいてきてぼくに店の袋を差し出し、「これ、遅くなったけど圭一君に誕生日プレゼント」と云い残し、ぼくが何か言葉を口に出す前に、水の中の小魚の如く、ひらりと反転して店の中に戻って行った。
 食材を買って部屋に戻り、買った服を弟に着せてみた。サイズは恰度いいようだった。パーカというものはそんなに体にぴったりさせて着るものではないのだから、これでいいだろう。
 服屋の販売員が選んだだけあって色がよく合っていた。冷蔵庫に食材を仕舞っていたら、光太郎が「けい、おねーさんくれたの」と、彼女が渡した袋をぼくに差し出した。
 袋の中には、グレーに細いダークブルーの縞のTシャツが入っていた。縞の幅が違うのは、弟とお揃いになってしまわない為だろう。慌てて袋に入れたのか、値札がついたままだった。彼女に何かしてあげたことなどないのに、こんなものを貰ってしまっていいのだろうか。迂闊なことに、こちらの誕生日を訊かれて、彼女の誕生日がいつなのか訊かなかった。
 次に弟とスーパーマーケットに行った時、各階の専門店街を覗いてみた。彼女はジーパン屋に務めているだけあってスカートを穿いているところを見たことがない。同居人の小杉瑛子もそうだった。光太郎は女物の服が珍しいのか、ひと差し指でひらひらと動かしている。
 翌日、美野さんの仕事が休みだったので、弟が午飯を食べて眠った後、部屋を訪ねた。この間はどうもありがとうございましたと、取り敢えず服のお礼をした。彼女は「安物だから気にしないでよ」と笑った。これも安物ですけど、そう云って袋を渡すと、何かな、と小声で云いながら中身を取り出した。
「スカート? 何年振りだろう」彼女は目の前に翳すように、スカートを広げた。
「サイズが判らなかったので店員さんに選んで貰って、ウエストがゴムのものにしてもらったんですけど……」
 ぼくはしどろもどろになって答えた。彼女は嬉しそうに微笑んで、これならTシャツにも合わせられるね、と台所の方へ這入っていった。ぼくに上がってよ、と云い残して。
 ちょっと待ってて、と美野さんは隣の部屋に消えた。戻ってくると、ぼくが買ったスカートを穿いていた。なんか足がすかすかする、と笑っていた。似合ってますよ、と云ったら、スカートなんて学生の時以来だから、と苦笑いしている。ぼくは彼女にゆっくり近づいて、肩を抱いた。そしてもう一度、似合ってますよ、と云った。彼女は厭がらなかった。そうかな、と呟くだけである。
 それは、薄藤色に白い小花の刺繍が散らされたスカートだった。
 彼女を抱きしめたまま、誕生日はいつなんですか、と訊ねた。七月七日、と彼女は囁くように云う。「七夕ですね」と、なんとか言葉にしたら、それで男のひとに縁がないのかなあ、と彼女はくすくす笑った。
「ぼくじゃ駄目ですか」
 そう云うと、駄目じゃないよ、と彼女は小さい声で応えた。


 部屋に戻ると光太郎は起きており、尾長さんに貰ったてぬぐいを眺めていた。誕生日に買った服を着ている。
 彼女はぼくと話しても、そんなにびくびくしなくなった。休みになると必ずあのスカートを穿いている。冬になるとセーターを合わせて。抱きしめても、キスをしても厭がることはなかった。それでも、彼女がぼくのものになるとは思えない。
 何もかもが閉じられた輪の中にある。そこから抜け出すことは出来ないのだ。ぼくは弟の面倒を見続け、彼は赤いものを見ては「いたくない」と自分を安心させるのだろう。
 そこには恐らく、他人の入る余地はない。それを不幸だと思ってはいけないのだ。ぼくにも光太郎のような呪文が必要だった。

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 愉快な話どこかにないかい?
 そんなふうなこと口にしてみれば
 街を歩く足取りも軽くなるから不思議さ
 そっちはどうだい うまくやってるかい
 こっちはこうさ どうにもならんよ
 今んとこはまあ そんな感じなんだ
 きみに逢ったらどんなふうな話をしよう
 そんなことを考えると楽しくなるんです
 そっちはどうだい うまくやってるかい
 こっちはこうさ どうにもならんよ
 今んとこはまあ そんな感じなんだ


 どうにもならないよ、と呟いてみた。
 ぼくは自分に云う。
 「何もかも、どうにもならないよ」

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