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なんとか、

 生きています。
 亮二の「猫日誌」をアップしようにも、前のブログから続きが探し出せない。自分でも不思議で仕方がない。順番に、事細かに探ってゆけば見出せる筈なのに。
 それが出来ないのがポンコツである証なのですね。因みに『猫日誌』は12まであります。
 何も記すことがないので随分ご無沙汰しましたが、そう謂うひとは多いのではなかろうか。わたしは特にそうでありますけど、何方でもそうなのではないのでしょうか。
 取り立てて他人に報告することなど、毎日の日常でそんなにありますか?
 わたしはないです。
 まあ、わたくしは一般的なひとより非活発的な日常を送っているので、そりゃあもう、何もありません。
 目を覚ました。怠い。起きたくない。猫が鳴く。ベッドに乗ってくる。顔にふんすかする。(わたしは)布団を被る。猫はうろうろしている。
 申し訳ないと思う。ぐだぐだした気持ちを振り払い、布団を足でひっくり返し、ベッドから飛び起きる。そこまでの行動をするのは、猫のご飯の為である。
 どう謂った順番が正しいのか知らないけれど、わたしは兎に角、便所を片附ける。猫は当然、不満げである。しかし、わたしとしては不浄なものから片附けたいのだ。
 しかしまあ、飯を喰う前に糞や小便をごしゃごしゃされるのは、例え猫であっても嬉しからぬことであろう。でも、わたしはそれを先にやりたいのだ。我慢してくれ。
 こう考えてみると、わたしがまともに生きていられるのは猫が居るお陰なのではないか。猫が居なければだらだらと眠り続け、飯も喰わずに屁もひらず、常に便秘なので糞もせぬ。
 猫が居るからこそ目を覚まし、怠くとも起き、彼女の飯の用意をし、彼女の便所の始末をする。そこから先は、怠惰な日常の続きである。
 何故ならわたしの部屋にはテレビがない。モニターはあるけれども、所謂テレビ放送は見られない。何方にしても、まったく使用していない。わたしが動画を視聴するのは、専らノートパソコンのみである。
 わたしが幼い頃から楽しみにするのは本のみで、要するに読書である。旧弊な人間であるが故に、紙の媒体でなければそれを楽しめない。捲りたいのだ、紙を。変態なのかも知れない。否、ただの旧弊な老人なのであろう。
 紙の本がなくなることはないと思う。どれだけデジタルな技術が発達しようとも、アナログな手段が排斥されることはないだろう。ないと思いたい。
 わたしは何かを作り上げることは出来ないが、素晴らしいものをひと知れずこつこつと作るひとが居る。そんなひとたちが表に出て、評価されることを願う。それこそが表現と謂うものだから。



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