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【短編小説】貴女との最後の晩餐

 雨粒がカーテンに打ち付ける音が、佐伯清の書斎に響き渡っていた。佐伯は大きなアームチェアに腰を下ろし、窓の外を見つめながら、次の推理小説のアイデアを探っていた。ガラスに映る自身の姿を見れば、時の重みを感じずにはいられなかった。

 佐伯は長年、推理作家として数々の傑作を世に送り出してきた。しかし今宵は、いつになく物語のアイディアが捉えられない。過去の成功が重荷になり、新しい話が浮かんでこない。この豪邸に一人佇むにつれ、彼は日に日に孤独を深く感じていた。もう自分は時代遅れの遺物ではないか。何度となく脳裏を過ぎた考えが今日も去来する。

 そんな佐伯の耳に、遠くからインターホンの音が届いた。書斎の外に出れば、大雨に打たれながらも一人の女性が門前に佇んでいる。長い髪は雨に濡れそぼり、とても寒そうだった。

「お願いです、私を中に入れてください……」

 佐伯は戸惑いながらも、門を開けて女性を招き入れた。そして部屋に通し、タオルで髪を拭いてあげた。

「あなたは誰かね? なぜこの雨の中をこんなところまで歩いて来たのかね?」

 うつむいた女性が少し顔をあげる。

 佐伯は、彼女をゲストルームに通した。部屋はアンティークの家具に囲まれた上品な空間だった。綾は濡れた髪を手ぐしで梳き、そして佐伯に向き直った。彼女は自身の名前を「遠山綾」と名乗り、少しだけ微笑んだ。

「私は佐伯先生の大ファンなんです……。先生の作品には、捨て身の探偵がよく登場しますよね……」

 綾は穏やかな口調で言った。

「この度の新作でも、探偵がAIを駆使した組織犯罪に立ち向かう設定のようですが……」

 そこまで聞いて佐伯は眉をひそめた。新作の詳細については、まだ出版社ともほとんど打ち合わせていない。この女性がどうやってそれを知ったのか、不可解でならなかった。

「あなたはなぜ私の次の作品のモチーフを知っているのですか?」

 綾は言葉を詰まらせ、一瞬驚いた様子を見せた。しかし、すぐに落ち着きを取り戻し、大ファンらしい熱心な視線を向けた。

「すみません、それは私の勘違いでした……何か他の作品と混同してしまったようです……申し訳ありません……」

 佐伯は頷かなかった。推理作家の勘を研ぎ澄ました佐伯には、綾の言動になにか隠しごとがあるように感じられたのだ。

「遠山さん。貴女には何か私に隠しごとがありますね? 違いますか?」

 佐伯は冷静に告げた。

「もしよろしければ、それを打ち明けていただけませんか」

 言葉を受け止めた綾は、長い沈黙の後、ついにふっと笑みを零した。

「さすがに佐伯先生は推理がお上手ですね……。そうですね、私は自分にもっと正直でいる必要があるでしょう……」

 そして綾は、佐伯との意外な過去の因縁について語り始めた。

「先生は覚えていらっしゃらないでしょうが、私は先生がこれまで雇っていた数多くのアシスタントのうちの一人なのです……」

 佐伯は固唾を飲んだ。綾の告白に衝撃を受けながらも、一方で多くの疑問が頭をよぎった。なぜ彼女は今までその事実を隠し通していたのか。そしてなぜ、今になって現れたのか。

「遠山さん、貴女が私のアシスタントだったことは事実なのですね?」

 佐伯は静かに告げた。

「そして私の作品に大きな影響を与えていたというのもどうやら本当のようです」

 綾はゆっくりと頷いた。それから切り出した。

「はい、佐伯先生……。多くの作品のアイデアは、実は私が考え出したものです……。でも、先生は一度も私に感謝の言葉をくれませんでした……。当たり前です……。私のアイディアはすべてチーフアシスタントの黒山さんを通して先生に伝えられただけですから……一度だけ先生に直接クレジットを載せてくれるよう頼んだときも、私は軽くあしらわれてしまいました……」

 佐伯は思わず目を伏せた。確かに作家として自分は、アシスタントの才能をないがしろにしてきたかもしれない。しかし、彼には彼なりには正当な理由があった。

「アシスタントには作品に対する権利はありません。あくまでも私の思考を助ける役割です。冷たいようですが、技術革新に貢献した人々にクレジットが与えられないのと同じことです」

「でも先生、私のストーリーのアイデア自体がなければ、その後の展開も生まれなかったはずです!」

 綾は声を荒げた。

「私が存在しなければ、あの傑作はなかったのです……!」

 佐伯は詰まらせた。確かに綾の主張には一理あった。
 しかし、彼女の言葉からは、何か別の思惑があるように感じられた。

「遠山さん……いや、綾さん。貴女には何か別の動機があるのではありませんか」

 佐伯は鋭く尋ねた。

「なぜそこまで過去のこの問題にこだわるのです?」

 綾は言葉を失った。しばらく静けさが流れた末、ついに彼女は切り出した。

「私は、もうすぐこの世を去ります」

 佐伯は青ざめた。綾の様子からも、彼にも確かにそうとしか思えなかった。

「だからこそ、佐伯先生に私の存在を認めてほしかった」

 綾は続けた。

「私はもう夢をあきらめています。でも、先生の作品が、私の夢の一部でも形にできたのなら、それで満足です……。謝罪や弁解や感謝など、必要ありません……。ただ、認めてほしいのです……」

 綾の言葉に佐伯の心は揺れた。彼がアシスタントを見下してきた理由は、自分の作品が第三者によって汚されることを恐れていたことが一因だった。しかし、今の綾を見れば、そんな恐れは誤ったものだったのかもしれない。

 佐伯は考えを巡らせ、やがてひとつの決心をした。そして綾に声をかけた。

「綾さん、私はあなたの貢献を認めよう。そして、どうだろうか? 今度の新作にもあなたの力を貸してもらえないだろうか?」

 綾の瞳からふいに光が失われた。佐伯の提案に、彼女は静かに首を横に振った。

「申し訳ありませんが、それは無理です……」

 佐伯は怪訝な面持ちで尋ねた。

「なぜ? 私は貴女の才能を認め、協力者として迎え入れようとしているですよ?」

 綾は穏やかな口調で言った。

「先生、私にはもうあまり時間がありません……。長くはお付き合いできません……」

 佐伯の体に震えが走った。綾の言葉からは、彼女が余命わずかであることが窺えた。しかし、なぜそんな重大な事実を初対面の自分に明かすのか。綾の意図が分からず、佐伯は困惑した。

 綾は席を立ち、ゆっくりと佐伯に背を向けた。

「ですから、あまり深入りする事は出来ないのです……。でも、せめて今夜だけは、あなたの作品と、それに対する私の貢献について語り合えたら嬉しいです……ただそれだけなのです……」

 戸惑う佐伯に綾は優しく微笑みかけた。だが、その微笑みの奥底には、言い知れぬ悲しみが宿っているように見えた。

 佐伯は混乱していた。この女性の正体が分からない。しかし、ひとつだけ確かなことは、これまでの会話から判ったとおり、彼女には作家としての並々ならぬ才能があり、それは認めざるを得ないということだった。

 彼女が世に出なかった原因は、ほんの少しのボタンの掛け違えだけのように思えた。

 そして佐伯は、ただ純粋に綾の才能を称え、尊重することを決めた。彼女の希望通り二人で食卓を共にし、推理小説の話に華を咲かせながら、時間が過ぎていった。

 やがて夜が更け、綾が立ち去る時が来た。佐伯はドアまで送り出し、そっと語りかけた。

「綾さん、あなたは本当に才能のある方だと思います。これからどうなるかは分かりませんが、きっとあなたの夢は何らかの形で実現するはずです」

 綾は何も言わず、ただ静かに佐伯の眼を見つめた。
 その瞳は漆黒だった。
 そして最後に、ひと言だけ口にした。

「ありがとうございます……。そしてさよなら……佐伯先生……」

 その言葉を残し、綾は佐伯の目の前から徐々に遠ざかっていった。佐伯の心は、それでも未だ彼女の正体がつかめないもどかしさと、そして何か大切なものを見失ったような後悔に苛まれていた。

 しかし、どうしてそんな気持ちになるのか、佐伯自身も分からなかった。

 数日後、佐伯はとある新聞で衝撃の事実を目にした。遠山綾と名乗った女性は、実は数年前に亡くなっていた人物であったのだ。綾は若い頃から推理小説の執筆に情熱を注ぎ、佐伯の小説に影響を与えていた才能ある作家志望の女性だった。しかし、出版の夢を叶えることなく、病気と貧しさに苦しみながら遂に命を落としてしまった。

 新聞記事によると、綾は生前、自分の才能を認めてくれる人がいないことに苦しみ、常に作家になりたいという夢を抱いていたという。そして、綾の遺書からは、佐伯への尊敬と、そして彼の作品への貢献に対する複雑な思いが綴られていた。

「佐伯先生への最大の賛辞は、私の考えたアイデアが彼の傑作の一部になったことです……。しかし同時に、そのことが私を苦しめてもいました……。世間から顧みられず、私の名前も無名のまま……。でも、今になって思えば、それでよかったのかもしれません。佐伯先生の作品を通して、私の夢は永遠に生き続けるのですから……」

 佐伯はある伝手をたどって取り寄せた綾の遺稿を読み進めるうちに、次第に彼女の深い思いと苦悩に気づかされていった。綾は佐伯を敬愛しながらも、自分の才能が全く評価されなかったことに屈折した複雑な感情を抱いていたのだ。そして、その思いを晴らすために、最期に佐伯の前に現れたのかもしれない。

 その夜、佐伯は庭に出て月を眺めながら、綾の姿を思い浮かべた。彼女がなぜ自分に会いに来たのか、本当の理由がわかった気がした。多くの謎は未解決のままだったが、綾が残した言葉から、彼女がいかに純粋で、そして尊い魂を持っていたかがうかがえた。

 佐伯は、これからの作品の中に、あの最後の晩餐で交わされた綾との会話からもらった素晴らしいアイデアを生かし、彼女の存在を形にして残していくことを決意した。それが、彼にできる最大の賛辞となるだろう。月明かりに照らされた庭に、綾の微笑む面影がちらりと見えたような気がした。

(了)

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