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【短編小説】記憶と時間の手帳

第1部

 あの日、私は人生で最も重要な意味を持つ出来事に出くわした。それは電車の中のことだった。

 朝のラッシュ時、私は駅のホームでスマホのニュースを読みながら電車を待っていた。いつものように、たくさんの人々が行き交う中を歩いていた。

 すると足元に何かがあると気づいた。誰かが落としたようだ。拾い上げると、それは赤い手帳だった。表紙にはT.K.の刻印がされていた。

 心当たりはなかったが、手帳には住所とその人物についての詳しい記述があった。おそらく家族か、親しい人に忘れ物されたものだろう。

「迷子の手帳を見つけましたか?」

 私はその声につられ、隣の男性に向き直った。

「はい、落し物のようです。この手帳の持ち主を捜さなくてはいけませんね」

 男性は優しげな表情で頷いた。すると同時に、私の意識は恐ろしい体験に囚われた。

 そのシーンは目の前で繰り返された――。

 電車が来る音、ホームに人々が集まる足音。
 そして次の瞬間、男は突然私に向かって、

「迷子の手帳を見つけましたか?」

 と尋ねたのだ。

 何度もその出来事が繰り返された。すべてが同じように進行する。ホームの光景、男の問いかけ、そして私の返事――。

 この出来事は、一体なんなのか? 夢なのだろうか、それとも現実なのか。
 深く混乱する中で、私の意識は徐々に遠ざかっていった...。

第二部

「大丈夫ですか?」

 男性の声と同時に、私の意識は現実に引き戻された。目の前には真っ赤な手帳が落ちていた。

 私は頭をかきながら、その光景を見渡した。人々は時間に遅れることも気にせず、そのままホームを歩いていた。

「大丈夫です。ただ、ちょっと具合が悪くなったようです」

 男性に答えながら、私は落ち着いて状況を整理しようとした。

 つまり、私はこの手帳を拾おうとした時、奇妙な体験をしてしまったらしい。時が止まり、同じ出来事が何度も繰り返された。

「迷子の手帳ですね。誰かが落としたに違いありません」

 男性は落ち着いた口調で言った。私は頷いて納得した。

「そうですね。落とし主を捜さなければ」

 私はその手帳を持ち上げた。そこには奇妙な記述があった。

「時間逆行現象」

 手帳の表紙にはっきりとそう書かれていた。記憶が蘇る。はっとして私は我に返った。

 これは時間を操る力を持つ不思議な手帳だったのだ。

 このことに今更ながら気づいた私は、ゾッとする思いがした。つまり、私は過去に一度この手帳を手にしたことがあったということなのだろう。そしてその記憶が、いまごろようやく蘇ってきた。

第三部

 男性と言葉を交わした後、私はホームを離れ電車に乗り込んだ。混雑する車内で、深呼吸をして落ち着いた。

 すると、ふと我に返った。これはたしかに現実の出来事なのだ。

 この手帳を持つことで、一体なにが起きたのだろうか?
 そして私は時間をめぐるいったい何を体験したのか?
 以前この手帳を手に入れた時の経緯は……?

 手帳を開くと、中には細かい文字で書かれた記述が並んでいた。

"この手帳は特殊能力を持つ。この力を手に入れた者は、時間を自在に操ることができる。しかし、時間操作には厳しい代償が伴う。制御を誤れば、時間に翻弄されてしまう。この手帳を手に入れたあなたに、運命がかかっている――"

 私は唖然とした。やはりこの手帳は時間を操る力を持つのだ。だがその代償は厳しく、時間の流れを曲げることは容易ではないことが書かれていた。

 そしてあの電車のホームでの出来事。あれは手帳の力で引き起こされた"時間逆行の体験"だったのだろう。
 しかし、なぜ私がその力を手に入れなければならなかったのか...?

 電車が次の駅に到着すると、駅舎の向こうに見覚えのある景色が広がっていた。私は唖然とした。そこは実家のある町だった。
 だが奇妙なことに、私は最寄り駅を過ぎてしまった記憶がない。手帳のページをめくると、そこには新たな文字が刻まれていた。

"時間は過去へ戻った。運命の始まりだ――"

第四部

 車窓の外は30年以上も前の記憶の中にある光景だった。
 私は戸惑いながらホームへと降りた。

 そこにはなつかしい顔ぶれがいた。
 幼い頃の母親や、もうこの世にいない祖父母。そして私自身が子供時代の姿をしていた。

 私は唖然とその光景を見つめた。時間が過去へ逆行してしまったのだ。この手帳の不思議な力によって、私は過去の世界に連れてこられたのだろう。

 子供時代の私は、駅のベンチに腰掛けていた。
 ちょうど夏休みの時期だったようで、ひまそうにしていた。
 そんな私の前に、祖父が現れた。

「じぃじ、どこ行くの?」

 子供の私が尋ねた。

「ちょっと外を歩いてくるんだ。おじいちゃんも運動しないとね」

 祖父は優しく微笑みながら、駅を出ていった。
 私は過去の自分が祖父に駅のホームで話しかけている光景を、ただ見守るしかなかった。子供時代の私と、大人の意識の私が併存するような不思議な状況だった。

 その時、手帳のページが飛び、中の文字が滲んでいくのが見えた。

”時間が歪み始めている。手帳の影響で過去が書き換わりつつある”

 私は手に汗を握った。この手帳の力が過去に影響を及ぼし始めているのだ。

 ホームにいた子供時代の私は、祖父の姿が見えなくなると、しばらく辺りを見渡した。そして次第に不安げな表情を浮かべ始めた。祖父が戻らないことに気付いたのだろう。

 やがて母親が私のそばに駆け寄り、何事かと問いただした。私は泣きじゃくりながら答えた。祖父がいなくなったことを。

 それから大騒ぎになった。
 近所の人々も巻き込んで、祖父を捜し始めたのだ。しかし、祖父の姿は見つからなかった。

 時間が経過するにつれ、記述が次々と変わっていく。

「祖父は行方不明となった。2週間後、その姿は発見されたが、すでに遺体となっていた」
「事件現場からは何の手がかりも残されず、死因は不明のまま」
「遺族に深い悲しみが残された」

 私は絶句した。
 この手帳の力で、過去の出来事が変わってしまったのだ。本来なら祖父が無事帰宅し、家族と穏やかな日々を過ごすはずだった。しかし手帳の力が過去に影響を及ぼし、祖父が行方不明となり、遺体で発見されるおそろしい結末を導いてしまった。

「これが...この手帳の代償なのか?」

 過去を変えてしまった結果、はかりしれない代価を払わされたのだ。私は途方にくれた。

 そこへきて、記述が更に変わった。

「事件は30年の歳月を経た今なお未解決のまま。しかし真相は闇の中に隠されている」

 一瞬、私には意味が分からなかった。しかしすぐに気づいた。祖父の死から30年が経ち、いまこの時を生きている私こそが、事件の答えを知る鍵を持っているということに。

第五部

 私は動揺を押さえつつ、深呼吸をした。この手帳の驚くべき力の代償として、30年前に起きた出来事を知らされてしまったのだ。

 しかし、記述を見る限り、今なお祖父の死因が闇の中に隠されているという。事件の全貌は不明なままなのだ。私は戸惑いを隠しきれなかった。

 すると、手帳のページが勝手にめくれていき、そこに新しい文字が現れた。

「時間の歪みは修正できる。過去を変えた出来事を正すことができるかもしれない。しかし、その代償は重い」

 なるほど、私には過去を元に戻す術があるのだ。が、同時に新たな代価を払わねばならない。

 この選択は非常につらいものだった。もし過去を元に戻せば、祖父は生きていられたはずだ。しかし、過去を変えた結果、私自身に何が起きるのか分からない。

 いくつかの可能性が考えられた。過去に戻れば、今の私は存在しなくなるのかもしれない。あるいは、他の誰かに代わりの代価が及ぶのかもしれない。いずれにしろ、避けられない重大な結果が生じることは間違いない。

 しかし、祖父の命を救うために、私は過去を正さねばならない。事件の全貌を解き明かし、真相を暴くことで、この時間の歪みを正すのだ。

 私はそう決意を新たにした。そのためにはまず、30年前の出来事を徹底的に探らなければならない。

 ホームを見渡すと、当時の出来事が映像のように甦ってくる。母親が祖父を捜し始める様子、近所の人々が手分けて捜索する光景。それらすべての記憶が手に入った。

第六部

 記憶が蘇るにつれ、当時の出来事の詳細が明らかになっていった。祖父が駅から姿を消してしまった経緯、行方を捜す人々の様子、そして遺体となって発見されるまでの顛末が、不思議なことに頭に次々と浮かんでくる。

 中でも重要なのは、遺体が見つかった場所の記憶だった。祖父の無残な姿は、町はずれの小川のそばで発見されたという。捜索には多くの人手が費やされたが、誰一人としてその場所を疑う者はいなかった。

 なぜならそこは、誰もが通らない人里離れた場所だったからだ。しかし、私には祖父が最期にそこで一人倒れていた姿が鮮明に思い出された。

 つまり、誰かが祖父を小川の場所に連れ去り、遺棄したに違いない。当時の捜索では見つけられなかった場所なのだ。

 この重要な気づきを手がかりに、真相は暴かれるはずだ。私は手帳のページをめくった。

 すると、そこには次のような文字が表れていた。

「過去を書き換えた結果、あなた自身の運命にも変化が起きる。新たな試練があなたを待ち受けている」

 一体、私には何が起こるというのだろうか。当時起きた出来事を探ることで、私自身に新たな厄災が待ち受けているというのだろうか。

 不安に駆られる一方で、事件の全貌を解き明かさねば、と私は決意を新たにした。過去を正すため、そしてその代償を乗り越えるために。

第七部

 捜査の手がかりを得て、私は過去の町を歩き回った。30年の時を経て、かつては見覚えのある風景が次々と目に映った。

 しかし、当時の記憶を頼りに歩いていくと、いつの間にか人里離れた小川のあたりまで辿り着けた。祖父の遺体が発見された場所である。

 川のほとりに立ち、辺りを見回す。記憶の中の光景と何も変わっていない。枯れ草が風にそよぎ、小川の水が小さく流れるだけだ。ひっそりとした場所で、人の気配は全くない。

 そこで私は立ち止まった。何か手がかりを見つけられないだろうか。

 川沿いを歩きながら、足場をよく見渡す。するとひと際目立つものが視界に入った。それは大きな岩かけらだった。

 岩を確かめてみると、そこには血しぶきの跡らしきものが付着していた。かすかに残る赤い痕跡に、私は 旋律を禁じ得なかった。

 ここで、祖父は何らかの形で襲われたのだろう。そして死に至ったのか。私は手帳を見返した。

「過去の真実が明らかになるにつれ、それに伴う代償も現れてくる。新たな試練があなたを待ち受けている」

 手帳がそう示唆する。しかし一体どのような試練が待っているというのか。代償とは何なのか、私には見当もつかなかった。

 ただ、過去の事件の謎が少しずつ判明してきたことは確かだ。私はこの血痕の意味を解き明かし、祖父に何が起きたのかを掘り下げていく覚悟を決めた。そうすれば、事件の全貌が見えてくるはずだ。

第八部

 小川の岩場で血痕を見つけたことから、私は新たな手がかりを得た。祖父がこの場所で何らかの身体的被害を受けたことは間違いない。

 しかし、加害者は誰なのか。そして動機は何だったのか。事件の核心に迫るには、さらに調査を進める必要があった。

 私は再び過去の町を歩き回り、当時の光景を思い出そうとした。するとある場所で重要な記憶が蘇ってきた。

 それは駅前の喫茶店だった。私が子供の頃、家族でよく立ち寄っていた店である。安らかな休日の思い出がよみがえってくる。

 そこで私は気づいた。事件当日、喫茶店で祖父と口論になっていた人物がいたことを。

 記憶を頼りに、その男の姿を思い浮かべてみる。すると、はっきりと顔が浮かんだ。それは祖父の古くからの友人だった。

 ふたりは若い頃から深い付き合いだったが、最近になって険悪な関係になっていた。お金の問題で揉め、祖父はその男から金を借りていたらしい。

 そしてあの日の喫茶店。祖父は返済を求められるや、憤慨していた。ひどい言い争いになり、結局男は怒って店を後にした。

それが最後だった。その後、祖父の姿が駅で消えてしまう。つまり、あの男こそが祖父に手を下した犯人では...!?

 新たな疑惑が浮かび上がった。手帳のページをめくると、次の記述が現れた。

「真実は近づいている。しかし同時に、試練の時も訪れる」

一体どのような試練が待っているというのか。私は身構えざるを得なかった。

第九部

 喫茶店での出来事を思い出したことで、事件の核心に迫れそうな手応えを感じた。しかし同時に、手帳が新たな試練を予告する記述を見て、不安を覚えずにはいられなかった。

 そこで私は、もう一度事件現場である小川を訪れてみることにした。血痕のある岩場を改めて調べ、何か新たな手がかりを探ろうと考えたのだ。

 川のほとりに立つと、再びあの場所の風景が蘇ってきた。枯れ草が揺れ、水が小さく流れる音が聞こえてくる。人気のない場所で、私は取り残されたような気分になった。

 そこで岩場の周辺を改めて見渡してみる。血痕のある岩の周りに、他に何かないか探った。

 するとそこに、一本の折れた太い枝が転がっているのが目に止まった。私は気づいた。あの枝にも血の付着があり、しかも折れた断面は鋭利な形になっていた。

 まさか...と思いつつ、私は枝を手に取ってみた。この枝は凶器となり得る。もしかすると祖父はこの枝で殴打されたのでは?

 それに気づいた時、手帳のページがひらりと動き出した。私は焦ってページを追った。

 すると、そこには次の文字が現れていた。

「過去の真実が明らかになり、あなたの運命も変わる。しかし代償は計り知れない」

 そしてその直後、私は頭に激しい痛みを感じた。
 目の前が暗闇に包まれ、意識は遠のいていった。

 試練とやらがやってきたのだ。手帳の示す代償とは、この身体的な苦痛だったのだろうか...?

 私は正気を保とうと必死に抵抗した。しかし次第に痛みは募り、意識が薄れていく。

 その時、後ろの何者かに気づき、振り返った。
 そこには、祖父に酷似した老人の姿があった。

「忘れるがいい。そうすればお前は助かる。これ以上探ってはならない。違(たが)えば最悪の事態が起きるぞ」

 老人はそう言い残し、姿を消していった。

第十部

 老人の忠告を受け、私は正体不明の痛みに冒されながらも、なんとか意識を保った。老人の姿は祖父に酷似していた。一体あれは何者だったのだろうか。

 苦しみながらも、私は事件の真相に迫るため、この場を離れることができなかった。血の付着した枝を手にしながら、事件の核心に思いを巡らせた。

 すると突如、頭に閃きが走った。事件当日、喫茶店で祖父の友人と口論になった後、あの男が祖父をここに連れ込んだのだろう。そしてこの枝で殴打し、小川に放置したのだ。

 その後、遺体が発見されるまでに日がたっていた。つまりあの男は時間を作って、罪証を隠そうとしたに違いない。そのため遺体の発見が遅れ、事件の謎が深まってしまった。

 こうして謎の核心が明らかになると、手帳のページがまた動き出した。私は必死に文字を追った。

「真実が明らかになった。しかし過去を正すには、重大な代価を払わねばならない」

 そう書かれていた。そしてそのページをめくると、そこには私が心底恐れていた運命があった。

「あなたは過去に存在しない。この世界から消えてなくなる」

 この記述にはさすがに打ちのめされそうになった。過去を正すために、私自身が存在を失うというのか。しかし、そうでなければ祖父の無実の命を救うことはできない。

 私は背水の陣に追い込まれた。だが、祖父を生き返らせるため、私は自らの存在を賭けるしかないのだ。

 そう決意を新たにしたとき、手帳のページが光り輝き始めた。次に見開いたページには、とてつもない文字が躍っていた。

「祖父を生き返らせるか、それとも自らの存在を選ぶのか。時間内に決断をせよ」

 そしてそのページの下に、カウントダウンが始まっていた。残り時間は5分を切っていた。

 私は戸惑いながらも、直ちに決断を下さねばならなかった。祖父のためか、それとも自分の命を選ぶのか。

 人生最大の選択が、目の前に突きつけられていた...。

第十一部

 時間が刻々と経過する中、私は究極の選択を迫られていた。祖父の命を救うべくこの世から消えてなくなるのか。それとも自分の存在を守り、祖父を失うのか。

 手帳のカウントダウンが進み、残り時間はわずかとなった。私は必死に考えを巡らせた。

 祖父のことを思えば、あの温かい笑顔が頭に浮かぶ。幼い頃、いつも私の側にいてくれた祖父の姿が胸を締め付ける。家族にとって大切な存在だった。だからこそ、この機会に命を救いたいという気持ちが湧いてくる。

 しかし一方で、自分の存在を捨てることの重みにも怖れを覚えずにはいられない。この世界から消え去るということは、今の全ての人生が無に帰することを意味する。自分が積み重ねてきた全てを失うのだ。

 それでも、家族のためなら...。
 私はそう決意を新たにした。だが叶わぬ望みかもしれない。手帳のカウントダウンは残り1分を切っていた。

 この瞬間、老人の忠告が蘇った。

「忘れるがいい。これ以上探ってはならない。違えば最悪の事態が起きるぞ」

 最悪の事態とは、私自身が消えてなくなることだったのだろうか。しかし祖父の身に起きた出来事を放っておくわけにはいかない。

 私の存在と引き換えに祖父の命を取り戻す。

 そう決めたとき、手帳のページがパラパラと動き出し、カウントダウンが止まった。そして新たな文字が浮かび上がった。

「祖父を生き返らせることは可能だ。しかし、それと引き換えに、おまえは過去に存在せず、全てを失う運命にある」

「それでも構わないというのであれば、次のページをめくるがいい」

 これが最後のチャンスだ。もし次のページをめくれば、過去は書き換えられ、祖父は生き返る。しかし私自身は存在しなくなってしまう。

 一瞬、私は怖気づいた。しかしすぐに決意を新たにした。あの日の出来事を正すため、そして祖父の無実の命を救うために、この選択をせねばならない。

 そう心に決め、私は手をのばし、次のページをめくった。

 すると手帳が強い光を放ち、私は気を失った。

 目が覚めると、私はそこに立っていた。駅のホームに。遠くから、ひとりの老人が私に手を振っていた。

 それは、生き返った祖父の姿だった...。

 あれから30年経ったはずだが祖父はあの頃からあまり老いてないように見えた。

 私は安堵した。胸に暖かいものがひろがった。

エピローグ

 時が経ち、駅のホームで私が目を覚ましたとき、私の存在はこの世界から消え去っていた。祖父を生き返らせる代償として、私自身が存在しなくなったのである。

 遠くで手を振る祖父の姿を見つめながら、私は徐々に自分の記憶が薄れていくのを感じた。祖父には私が見えているのだろうか? それとも誰か別の人に手を降っているのだろうか? これまでの人生が次第に霞んでいく。大切に積み重ねてきた想い出が、すべて風化しつつあったいった。

 しかし祖父を助けることができたことに、私は満足感を覚えた。無実の罪から解放され、温かい笑顔を取り戻した祖父の姿を見れば、この選択に間違いはなかったと思う。

 私の存在は失われたが、それでも祖父の命が救われたことに意味があった。いつか、祖父は私のことを忘れていくかもしれない。しかし、それでもいい。最期に、私は大切な人のために全てを賭した。それだけで充分なのだ。

 徐々に視界が霞んでいく中、私は最後に手を振り返した。

「さようなら、じぃじ」

 記憶が遠のき、意識も失われていく。そして、やがてすべてが白い光に包まれた。

 時は過去に戻り、歴史は書き換えられた。祖父の命は救われた。しかし、その代償として、私はこの世界に存在しなくなってしまった。だが、それでいい。私はそう心から思った。もしかして私は祖父を助けるためだけに生まれたのかもしれない。

 最期の時を感じながら、私は静かに旅立った。波風立たぬ、穏やかな流れの中で。この選択の先に、何が待っているのかは分からない。しかし、今はただ安らかな気持ちでいっぱいだった。

 祖父を救えた。

 それだけでもう充分だ。

 それ以上何を望むことがあろう。

(了)

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