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【ショートストーリー】エスプレッソと左利きの哲学

 それは穏やかな放課後の教室。窓からの暖かい日差し。


 彼女はしばらくの沈黙の後、口をひらいた。


「ねえ、あなたはなんでそんな『死』のことばっかり考えてるの?」


 彼は、彼女の質問に大げさに肩をすくめて応えた。


「そんなの当たり前だよ。だって考えてもみなよ。生きてる時間より死んでる時間のほうがずっと長いんだぜ? 考えないほうがおかしいだろ」


「そんなの死んでからゆっくり考えてみたら?」


「んー、でもさ、死んでからだとちょっと遅いかもしれない。だって、死んだら自分が考えてることを誰かに話せるか分からないし」


 彼は一瞬真剣な表情を浮かべた後、ちらりと笑みを見せた。


「それに、あの世にWi-Fiがある保証もないしね」


「確かに、あの世でインターネットが使えないとなると、生前にやっておくべきことリストに『死後の世界の調査』なんてアイテムが追加されるわね。想像してみて、地獄でも天国でも、ずっとオフライン……ああ、恐ろしいわ!」


「確かにね。しかも、もしあちらの世界がとんでもなく退屈だったらどうする? せめて地獄ならエキサイティングかもしれないけど、天国がただの長い休日みたいなものだったら……。僕は生前に所々でリスクを冒しておかないと」


「そうね、あなたの言うとおり、天国で永遠に休日だなんて考えただけで頭痛がしてくるわ。でも、リスクを冒すって何? スカイダイビングでもする気?」


「いやいや、もっとささやかな冒険だよ。たとえば……」


 彼はちょっと考えてから言葉をつづけた。


「一日に3杯以上エスプレッソを飲むことだったり、『左利きの日』を自分だけで祝ってみたり。小さなことだけど、人生を豊かにする不条理なリスクを楽しむんだ」


「あら、意外とチャーミングな冒険家ね。でも、左利きの日っていつだっけ?」


「8月13日だよ。まあ、本当は僕、右利きなんだけどね。でもその日だけは、何をするにも左手を使ってみる。字を書くのも一苦労で、いつもより時間がかかるんだけど、それがまた新鮮で面白いんだ」


「あなたのその、生と死へのアプローチ……確かにユニークよね。でも、死を考えることが、結局は生きることをもっと楽しむための方法なのかもしれないわね」


「そうだね、生きている間に可能な限り多くのエスプレッソを飲み、時には左利きになってみる。そして、あの世がどうであれ、この世でのちょっとした冒険を思い出として持っていけたら、それでいいんじゃないかな」


「ふふ、なんか笑えて来るわ。でも、ある意味、とても意味深いわね。ところで、次の『左利きの日』、あなたの冒険に、私も参加してもいいかしら?」


「もちろんだよ、二人なら、もっと面白くなるさ。もしかしたら、あの世でのウェブサーフィンよりもずっと素晴らしい冒険が待っているかもしれないからね」


 それは穏やかな放課後の教室。橙色の美しい夕焼け。


(了)

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