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退学に寄せて、または空の深さを知る蛙たちへ


 大学を7月末をもって退学する。別に大学を辞めることは珍しいことではないし、私にとってそれは”決められていたこと”のようにすら感じるので、今更もう何も語ることはない。そう思っていたが、いつかの自分のために記録を残しておく。

 この記録は、できれば、今狭い環境――大学とか、会社とか、部署とか、家族とか――そういう環境で、苦しんでいる人にちょっと読んで欲しいと思っている。共感して、なんかちょっと「なんとかなるかも」と思って欲しくて書いている。

大学に入った。挫折した。

「我々は今ここに、世界を良くするために何ができるか見つけるために集まっています。その何かを見つけるためなら、我々は努力を惜しみません。4年後の未来を考えるだけで、本当に、ワクワクします」

 会場が拍手に包まれた。これは私の、入学生総代挨拶の最後の一節。もちろん全て英語だった。純ジャパの私は徹夜してこのスピーチを頭に叩き込んで、おぼつかない発音でやりきった。誇らしかった。最後の一言を言い切る時なんて、私は生まれてから一番のドヤ顔をした。

 テレビの取材が来た。新聞に載った。学報に載った。両親、高校の担任、大学の教授ら、友人たち。みんなが喜んで褒めてくれたのを覚えている。高校まで落ちこぼれで、優秀な大学にラッキーパンチが当たって入った私は嬉しい反面、恐ろしかったんだと思う。自分で自分を不当に良く見せて、周りを欺いているような気すらしはじめていた。――この時はせいぜい”気づきはじめていた”程度で、見て見ぬ振りをしたけれど。こんな感じで私の大学生活は輝かしく、華々しく始まった。

 高校生の頃、友人たちは私のことをこぞって「変わっている」と評した。変な子だと散々いじめられて、笑い者にされたのは忘れない。良くしてくれる一部の友人たちには感謝が絶えないまま、何もできず卒業してしまった。

 大学に入ってからは、誰も私を変わっているとは言わなかった。「あなたほど常識的で、冷静で、しっかりしたひとはいない」と、みんなが言った。頼られて、誇らしかった。嬉しかった。でも一方で、眠れなくなっていった。良く一人で泣いた。課題を全て終わらせるまで机から離れられなくなった。遊ぶことが怖くなった。みんなが楽しそうにしているのが心底羨ましく、でも私はその輪の中に入る勇気がなくて、何度もなんども歯噛みして、それでもとにかく勉強だけには打ち込んだ。いい成績を取ることだけがこの狭い大学の中で唯一自分の価値を担保してくれるものだったから。

 少しずつ違和感は溜まっていって、あるときそれは爆発した。授業中、上級生からの執拗な攻撃(……ではなく真っ当な質問だったのかもしれない。私が精神的に参っていて、それを攻撃と感じてしまった可能性は高い)を受けて、教室に一歩も足が向かなくなる。教室の前で座り込んで吐いた。そこからは下り坂だった。痩せていき、薬がないと眠れなくなり、ついぞカウンセラーと両親から「就学は認められない」と言われ、抵抗しつつも最後は白旗を上げ休学したのが、入学式でドヤ顔をしてちょうど2年後の話。

 何か大きな悲しみや、深い恐怖を味わったわけでないのに、日常の小さな擦れ、かゆみ、そういうものが私を蝕んで、ボロボロになった私は、燃え尽きたマッチみたいに、毎日家の床に寝転んでいた。やせ細った体では肋骨が床に当たって痛く眠れない。でも何もできない。

 挫折、だった。人生のレールから外れた。絶望して、自暴自棄になった。毎日適当な薬をちゃんぽんして飲み、泣いたり怒ったりしていた。

 ずっと考えていたこと――あるいは今も考えていることがある。「私はどこで間違えたのか」と。優しい両親の元生まれ、まあいろいろあったことにはあったが不自由ない暮らしをさせてもらい、いい学校に通わせてもらい、大学に入り、その結果がこれなのかと。

死にかけたので人生やり直します

 自暴自棄生活は年末まで続き、私は原因不明で突然倒れた。GINZA SIXのど真ん中でぶっ倒れ、AEDをかまされ、病院に緊急搬送されて救命救急室の中で目が覚めた。その後も意識は朦朧としていて、入院した。

 なんだかもうだめだなあ、って気分だった。お医者さんからは、「てんかんかもしれないから、しばらくは海外渡航なども控えたほうがいいでしょう」と言われた。また倒れるのが怖くて、大学に戻るなんて想像できなくなってしまった。また一歩、人生のレールから遠のいた。脱線事故で車両大破、もうどうしようもない。

 当時、私はとにかく諸事情あってお金がなかった。働かないと死にそうだった。ご縁があった会社でオフィスワークのアルバイトを始めた。そこが今もお世話になっている会社。――もちろん、会社で自分に自信を持って働き始めるのには時間がかかったけれど、仕事をし始めて、あまつさえそこで正社員として向かいれてもらえるようになって、死の病と思われた私の自暴自棄はみるみるうちに回復していった(無論、人のおかげもある。アルバイトを始めたてで恋人ができて、その人はかなり献身的に私を支え受け入れてくれた。過度な期待もせず、押し付けもせず、ただそこにいる私を認めてくれた。それもとても大きいが、それはまた別の話)。 

 入った会社は、いわゆるITベンチャー。大学に入って、当たり前のように外資コンサルとか広告業界に行くと私自身思っていたので、まさかこんな選択をすると思っていなかった。なぜ選べたか? 死にかけたから。少なくとも最初の頃会社は、大学に戻らなくていい大義名分だった。死ぬかもしれないところまで行った私には後がなく、生きるためにお金を稼がなくてはならず、そうした選択が、のちに私の人生を大きく好転させてくれるようになった。

 本気で人生やり直し。仕事人生のスタートだった。

会社で偉くなったその頃、彼らは

 会社では、ちょっとえらくなったりした。好きなことをいろいろやらせてもらった。飲み会に行くたび私は泣きながら「会社が大好きです!!みなさんが大好きです!!私が死ぬときは!!会社が終わるときです!!」と叫んだ。愛すべき後輩、感謝すべき先輩、尊敬すべき経営陣。毎日囲まれて必死で仕事をして一年がたった頃、それは2019年の3月。

 同期たちが卒業した。

 一週間ほど私は発狂しそうに落ち込んでいた。Facebookには、卒業の写真が縦並びになった。可愛い袴や、かっこいい学士帽をかぶって、にこやかに微笑む友人たちがずらりと顔を並べた。入社先は華々しかった。これからの人生を保証された人々。学歴を捨てた私とは大違い。

 自分の影を省みたとき、叫びそうになった。「どこで間違えたの」「なぜ私はああなれなかったの」「落ちこぼれ!」「彼らが羨ましくないのか」。体をよじりながら恥ずかしさと悔しさに耐えた。叫んだ。ベッドの中でなんども。一緒に暮らす恋人は、なぜか私の頭を撫でて頬をなぞりながら、ひっそりと泣いていた。

 大学には、私より英語ができない人もいた。私より知識がない人もいた。私より臆病な人もいた。それでも彼らは、”私が乗り越えられなかった大学”を乗り越えてその先の栄光を手にした。じゃあ、なんで、私はできなかったんだろう。なんで私は? 未経験でベンチャーで働いて、学歴もない、お金もない。これから私は生きていけるの?

 そのとき、私が受け取った父の言葉を見て欲しい。

 私は泣いた。それはもう、子供みたいにおいおいと泣いた。この時ほど父に感謝したことはない。「僕は旧帝大の出身ということで、不当にいい思いをしてきた。だから大学を卒業することは意義がある」と、昔言われた気がしていたが、働いている私を見てこんなふうに思っていてくれたのかと、本当に、号泣した。

なぜ私は卒業できなかったのか

 「輝かしい人生を歩んでいく同期たち」VS「人生のレールを外れた私」の脳内聖戦は集結し、私はまた、しっかりと自分の道を歩み始めた。

 なんで私は卒業できなかったのか、冷静になって考えてみる。

 大学は、楽しくないわけではなかった。少ないけれど友人はいて、彼ら彼女たちと馬鹿騒ぎをしたり、吐くまでお酒を飲んだり、しっぽりと語り合いながら夜明けを待ったりするのは、有意義な青春だったと思っている。勉強もした。根性は身についたと思う。一昼夜でなんともならない言語の壁を越えるため、人の三倍努力した。努力はできた。でもじゃあ、なぜ私が大学にいられなくなったのか。私が感じていた小さな違和感はなんだったのか。

 結局私は、ひとからのイメージに押しつぶされそうだったんだと思う。しっかりしてるとか、真面目とか、そういう自分に対するイメージは、押し寿司みたいに私の体を圧迫して、寿司箱のなかで私の手足は曲がりくねってぺきょぺきょと折れた。いや、でもそのイメージを持った彼ら彼女たちが悪いということは決してない。「そうありたい」と願った私が私を殺したんだと思う。

 会社に入って私はめざましく回復した。なぜかというと、「知らない、できない、わからない」が当たり前になったからだと思う。ハードルが高い仕事を任されるのは精神的に参ったけれど、でも「できなくて当たり前」な仕事に挑み続ける方が、「120%できて当たり前、119%の出来じゃダサすぎる」仕事をこなしていくよりずっと”楽”だった。

 私にとって、箱の中で暮らすことは、120%をやり続けることだったんだと思う。大学にいた時は勉強だった。高校にいた時は、”変わった人”に徹することだったかもしれない。その狭い狭い中でもがいて120%を出し続けると、酸素がなくなっていつか死ぬ。なんとなくわかるだろうか。

 会社は広い世界だった。世界は広かった。できる人だらけだった。知らないことばかりだった。「知っていてあたり前」のことなんて一つもなかったけれど、それがかえってよかったんだと思う。

 誰も悪くない。私が一人、私を小さな箱の中に押し込め、そして私は静かに窒息死した。だから卒業できなかった。それだけ。卒業できた人たちは、その箱の中でも十分な酸素を得られたか、酸素がなくてもそもそも生きていけるタイプの生き物だったか、別の空気穴を作っていたんだと思う。何がいいとか悪いとかではなく、私は酸素が大量に必要な生き物だっただけだ。

あるいは空の深さを知る蛙たちへ愛を込めて 

 それでも、退学するまでには結構時間がかかった。決心できなかった。生活は別に安定しているけれど、万が一……と思った逃げ道として大学を残しておきたい気持ちもあった。仕事の忙しさを言い訳に、ずっと退学申請を先延ばしにしていた。

 やめると腹を決めて大学を振り返ると、きらきらした思い出が溢れてきた。閉鎖的な空間だからこそ、人間関係は濃密でいとおしい。風景、匂い、食べ物、環境、勉強へ打ち込めたこと、それら全てが価値あるものだった気がする。でもそう思えたのは、私が結局外に出たからだと思う。

 大学に戻ったらどうなっていたか? それはわからない。私はラッキーなことに職と十分な賃金を得られたから、大学に戻る必要は必ずしもなかったけれど、みんながそうとは限らない。だから適当なことは言えない。

 ただ、絶対に言えるのは、今その狭い環境で苦しんでいるのなら、つらかろうと面倒だろうと一回外に出てみることが大事なのである。

「井の中の蛙大海を知らず、されど空の深さを知る」みたいな表現がある。狭い世界の中にいる間は広い世界を知らないよね、でも空の青さは知っていて、もしかすると狭い世界も幸せなのかもよ、とか、そんな感じの文脈で切なく使われることが多いが、私はこれを真っ向から否定したい。

 多分今の環境が狭いと感じるなら、別にそれは”井の中の蛙”みたいな感じではなく、おそらく自分がデカすぎるのだ。その環境では酸素が足りない、それだけ。だから怖いけれど、一回井戸の中を出てみるといい。大海は案外心地いいかもしれない。

 若いうちはまさに”井の中の蛙”、外の広い世界なんてわからないから怖いのは当たり前だ。でも、世の中は入れ子構造になっていて、広いと思った海の先にはもっと広い海があったりする。狭くなったらすぐに引っ越そう。私はこれからはそうやって生きていくつもり。

 人生は思った以上になんとかなる。苦しんでいた自分があほらしく思えることもあれば、愛おしく思えることもある。井戸の中が青々と光り輝いてちょっと羨ましくなったりもする。でもそれは振り返れば、の話だから、今の苦しみは何物にも耐え難いだろう。さぞ息苦しいだろうと思う。涙が出るほど、そう思う。でも別に、そこから出ちゃえばこっちのものだ。

 レールから外れることを恐れなかった人たちの成功を、たくさん見てきた。私は小さい世界の中で窒息死するなら、怖くても大きい世界に行きたい。死ぬのはごめんだ、やっぱり深呼吸していきていきたい。

「我々は今ここに、世界を良くするために何ができるか見つけるために集まっています。その何かを見つけるためなら、我々は努力を惜しみません。4年後の未来を考えるだけで、本当に、ワクワクします」――と、挨拶したのもあながち間違いではなかったかもしれない。四年後の未来は私が思うよりもワクワクできるものになっていたわけだし。

 未来の私、聞いているか。また狭くなったらとっとそこから出ていけよ。世界は広いぞ。大海は心地いいぞ。

 今、狭いところでもがいているあなたにも、深呼吸して欲しいと、切に願って、退学の挨拶にかえさせていただきます。


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