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正信偈の意味を考える

 このお経にどんな意味があるのか知りたくなって、調べてみました。
(偈ge)とは歌の意味だそうです。分からないところも多いのですが、すこしづつ進めて行きたいと思います。
 意味の参照は主に、日本古典文学大系です。
   西本願寺
    https://www.youtube.com/watch?v=bqo87Cn6664

   東本願寺
    https://www.youtube.com/watch?v=jZELkbN7jvk

            ★ ★ ★ 

証信念仏偈

   親鸞 1234年 


帰命無量寿如来
    真如に随って来たり、三世を貫く、限りなき慈悲の主の教命に
     呼び覚まされて、
南無不可思議光
    思議を超えて、一切の衆生を救う、光明たる佛の智慧に帰順した
    てまつる。
法蔵菩薩因位時
    阿弥陀佛が、自ら佛道を求め、衆生を教化して、共に佛の悟りを
    開こうとする菩薩として、世に下られて修行された時に、
在世自在王佛所
    世自在王佛という師佛の所にあって、
覩見諸佛浄土因
    諸佛の浄土に成立した原因と、
国土人天之善悪
    諸佛の国土と、そこに生まれた人民と、諸天の善悪の相を見通
    されて、
建立無上殊勝願
    この上なく優れた本願(四十八願)を起こされて、
超発希有大弘誓
    広く十方衆生を救おうという、比まれな大誓願を他佛を超えてお
    こされた。
五劫思惟之摂受
    五劫の長時にわたり、この無上にして殊勝なる誓願を思惟し、取
    捨選択されて、
重誓名聲聞十方
    重ねて三誓(満願果・大施果・名聞果)を立てられて、三世十方
    の苦悩の衆生に名号を聞信させようと誓われた。
普放無量無邊光
    阿弥陀佛となられたその衆生救済の光明は、普く放たれる。無量
    にして無辺(どこまでも際限がない。)無碍(いかなる障碍にも
    遮られない。)の智慧の光体の三徳と、
無碍無対光炎王
    他の諸佛や菩薩の光に対して比べようの無い光。光が盛んに燃え
    るように尊く輝く光相(すがた)
清浄歓喜智慧光
    清浄無垢の心から現れる光明 瞋(いか)りのない心から現れる
    光明
    痴闇を離れた心から生ずる光明
    の三光用(はたらき)は、貪欲、瞋恚(しんい)(自分の心に
    違うものを怒り、怨むこと)愚痴の三毒を滅する徳である。
不断難思無称光
    これらの智慧の光明は常恒不断であって、人の心では慮ることが
    できず、また、言葉で誉め尽くすことのできない不可思議なもの
    であり、
超日月光照塵刹
    譬えば、世間の日や月の光をも超越して、時間や方処の差別なく
    照らす光明であって、微塵の如く数え切れない多数の世界を照らし
一切群生蒙光照
    一切の衆生、生きとし生けるものは光明の恩恵を蒙っている。
本願名号正定業
    南無阿弥陀佛という、法蔵菩薩因位の本願によって成立した名号、
    即ち大無量寿経の第十七願に「たとえ我佛を得たらむに、十方世
    界の無量の諸佛、悉く_嗟して、我が名号を称せずば正覚を取ら
     じ」と誓われ、名は周囲から呼ばれなければ成立しないと、我が
    名を称揚されることを願われた。
    このことによる名号の成立は弥陀によって選定され、これによっ
    て衆生の阿弥陀佛の浄土への往生が正しく定まった業因である。
至心信楽願為因
    これは真実の心である、至心と、疑いなく信じるという信楽(そ
    して、浄土に生まれたいという心である欲生を加えて、本願の三
    信という---第十八誓願、この信心によって名号は自ずから称え
    られる。)の願を成佛の因とする。
成等覚證大涅槃
    正覚の佛に等しい菩薩の最高の位、等正覚を今生に成し、次生に
    迷いの因果を脱した滅度を證(さと)ることは、
必至滅度願成就
    第十一願にある「たとひ我佛を得たらむに、国中の人天、定聚
    (等覚)に往し、必ず滅度に至らずば正覚を取らじ」という誓願
    が成就するからである。
如来所以興出世
    釈尊をはじめ、三世十方の真如から来られた諸佛がこの世に出ら
    れた所以は、
唯説弥陀本願海
    唯、弥陀の海のように深広な本願を説くためであった。
五濁悪時群生海
    五濁(にごり)劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁のいやます悪
    時の衆生は、
応信如来如実言
    諸佛如来の本意である真実の言葉を信ぜよ。
能発一念喜愛心
    以上のような、如来の願いの力によって、よく信心し、法を喜び
    好む心を発するならば、
不断煩悩得涅槃
    心身を悩まし乱す煩悩を絶ち得なくとも、迷いの因果を脱した涅
    槃の証(さとり)を得るのである。
凡聖逆謗斎回入
    凡夫と聖者、また、五逆(父を殺し、母を殺し、阿羅漢を殺し、
    佛身より血を流し、僧の和合を破る)謗法(正法をそしる事)の
    者ですら、同じように自らの力を回心し、本願海に帰入すれば、
如衆水入海一味
    萬川が海に入って一味になるように、一味の信心となるのである。
摂取心光常照護
    信心の行人を摂め取る大悲から放たれる光明は、常に信心の行者
    を照らして守られる。
已能難破無明闇
    已(すで)に、能(よ)く、佛智を悟らない疑惑は断たれたと言
    っても、
貪愛瞋憎之雲霧
    貪欲と瞋恚(しんい)の煩悩の雲霧は、
常覆真実信心天
    日夜絶えず、真実の天を覆って、迷いが生ずるけれども、
譬如日光覆雲霧
    たとえば、日光が雲霧に覆われていても、
雲霧之下明無闇
    雲霧の下は明るくて、闇ではないように、信心は煩悩に妨げられ
    ずに続くのである。
獲信見敬大慶喜
    信心を獲て、本願の力を見て、浄土の往生が定まった救いを大い
    に喜べば、
即横超載五悪趣
    即時に、五悪趣(地獄、餓鬼、畜生、人間、天上)を次元を異に
    して超絶し悪趣の絆を断ち切らさせていただくのである。
   (横超の勝益)
一切善悪凡夫人
    すべての善悪の凡夫も、
聞信如来弘誓願
    如来の本願即ち、名号の所以謂れを疑いなく聞き信ずれば、
佛言広大勝解者
    釈尊は、広大なる殊勝の了解者、他力信心の行者と言われるので
    ある。
是人名分陀利華
    この人を人の中の白蓮華(分陀利華=梵語)と名づけて称賛され
    るのである。
弥陀佛本願念佛
    弥陀佛の本願に選び取られた念佛、即ち本願名号は、善悪を選ば
    れないけれど、
邪見驕慢悪衆生
    因果の道理を否定するような偏った思想や、自らを誇り他を侮る
    驕慢の悪衆生は、本願を信ぜず、謙下できないので信を妨げ、
信楽受持甚以難
    疑いなく信じ、是を受け持って忘れぬ異が甚だ難しく、
難中之難無過斯
    悪衆生の信を受けるのは、難中の難信であり、これに過ぎるもの
    は無いのである。
印度西天之論家
    インド、中国の論を作る人=菩薩、龍樹・天親菩薩、
中夏日域之高僧
    中国や日本の高僧、曇鸞、道綽、善導、源信、源空は、
顕大聖興世正意
    大聖釈尊がこの世に現れた本意を表し、
明如来本誓応機
    弥陀の本誓願が機に応じた法である事を明らかにせられたのであ
    る。
釈迦如来楞伽山
   楞伽経によれば、釈迦如来は楞伽山にあって、
為衆告命南天竺
   民衆のために言われた事には、我が滅度の後、南インドに、
龍樹大士出於世
   龍樹菩薩が世に出て、
悉能摧破有無見
   中道の意義を顕了ならしめ、悉く有無の見を破り、
宣説大乗無上法
   大乗中の無上の法である本願称名念佛を宣説し、
證歓喜地生安楽
   歓喜地という、必ず成佛する事を信じて歓喜出きる地を証し得て
   安楽国に生じ、
顕示難行陸路苦
   佛教の難行の実践は、自力の行であり、陸路を歩行する苦しさに
   たとえられる事をあきらかにし、
信楽易行水道楽
   易行、念佛の道は水道に乗船するように楽しいと示し、
   本願を信ぜよと勧めた。
憶念弥陀佛本願
   ひとえに阿弥陀佛の本願を信ずれば、
自然即時入必定
   その時、同時に本願力により、自ら、そして必ず佛となる身に定
   まる位に入るのである。
唯能常称如来号
   常に、よく、唯、如来号の称名念佛をしなさい。
応報大悲弘誓思
   大悲弘誓の恩に報いなさい。
天親菩薩造論説
    佛滅900年ごろ、北インドに生まれた婆羅門の出である、天親
    菩薩は、浄土論往生論を造って説かれたことは、
帰命無碍光如来
    十方世界を悉く照らして、煩悩罪業に妨げられない光明の如来
    阿弥陀佛に帰依すること、
依修多羅顕真実
    修多羅(即ち経であり、経とは真理の常なることを言う)により、
    如来の真実の功徳、即ち本願名号をあらわし、
光闡横超大誓願
    生死をも超越した大誓願を光闡(広く説く)された。
広由本願力回向
    広く本願力により、施し与えられた力によって、
為度群生彰一心
    群生を済度するために、弥陀の一心(十八誓願の三心のこと)を
    明らかにしたのである。
帰入功徳大宝海
    名号の功徳は、すべての善根に満ちており、それはあたかも宝
    の海のようであるが、その海に帰り従えば、
必獲入大会衆数
    必ずや浄土の聖衆の数に入る。即ち、正定を得るのである。
得至蓮華蔵世界
    蓮華が濁りに染まらないように、煩悩の泥土に汚されない、無量
     の徳を蔵する、荘厳な世界に入る事を得るに至れば、
即證真如法性身
    即ち、真如法性(涅槃)の身を証(さとり)得して、
遊煩悩林現神通
    煩悩の奥深く数の知れないほど多い林に遊んで何事も自由に成し、
入生死園示応化
    煩悩の果報を受ける迷界である生死園に入って、衆生のために身
    を種々に化現するのである。
本師曇鸞梁天子
    本師曇鸞は、梁の武帝が、
常向鸞処菩薩礼
    曇鸞のおられたところに向かって常に、菩薩として礼拝された方
    である。
三蔵流支授浄教
    竜樹の教系に属する流支(経、律、論の三蔵に通じた人)は、曇
    鸞に浄土経を授けると、
焚焼仙経帰楽邦
    道教の経典で不老長寿の法を書いた仙経を焼き捨てて、浄土に帰
    されたのである。
天親菩薩論注解
    天親菩薩が浄土論を造って注釈を加えられたことには、
報土因果顕誓願
    弥陀の本願に報いて成立した浄土、この浄土に衆生が往生する因
    果はいづれも如来の誓願であることを明らかにされた。
往還回向由他力
    浄土に生まれ、この世に還り来る、往還は回向であり佛から与え
    られたものであり、凡夫の力に依るものではない。如来の力即ち
    他力によるものである。
正定之因唯信心
    正定をもたらされて佛となる原因は、一信心によるのである。
惑染凡夫信心発
    惑(煩悩)に汚染した凡夫が信心を発起すれば、
證知生死即涅槃
    生死はそのまま涅槃であるという、平等一如の覚りを得させられ
    るのである。
必至無量光明土
    無量、即ち阿弥陀の浄土に至れば必ず、
諸有衆生皆普化
    あらゆる迷界の衆生を普く化益することができると、天鸞菩薩は
    言われたのである。
道綽決聖道難證
    道綽(中国隋唐の人、曇鸞をしたって石壁の玄中寺に入り、専ら
    念佛を修した。)は、聖道を證すことが難しいことを決定せられ、
唯明浄土可通入
    唯、浄土往生を期する一門だけが浄土に入ることができることを
    あかしされた。
萬善自力貶勤修
    念佛以外の萬行、諸善の自力聖道を勤め修めることを貶(おとし)
    められ、
円満徳号勧専称
    功徳善根を備えて円満な徳のある名号を専ら称えることをすすめ
    た。
三不三信誨慇懃
    余念なく持続する心の三信(淳心=純朴な心、一心=弥陀一佛を
    深く信ずる心、相続心=余念なく持続する心)と、これに反する
    誨(おしえ)を丁寧に説き、
像末法滅同悲引
    像法(釈尊滅後、正法の500年を経た次の1000年間)
    末法(像法後の万年)法滅の時代の者まで、同じように、悲引        (慈悲を持って引導)されるのである。
一生造悪値弘誓
    一生涯悪を造ったものでも、阿弥陀佛の弘誓いの救いに値して、
至安養界證妙果
    安養界(心安らかに身を養う浄土界)に至って、妙界(涅槃)を
    證すと道綽は言った。
善導独明佛正意
    道綽に就いた善導は(観経の解釈をして)諸佛の中で独り、釈尊
    の正意である本願念佛を明らかにされた。
矜哀定散興逆悪
    定散の善人(定善=雑念を潜めて観念をこらす。散善=悪事を配
    して善行を修める。)と、五逆十悪の悪人をともに大きく哀れみ
光明名号顕因縁
    光明を受ける縁と、往生の因たる名号を顕してのである。(光明
    と名号はともに他力をあらわす。)
開入本願大智海
    善人悪人を問わず、ともに救う本願の大智を善導が開き入らせる
    と、
行者正受金剛心
    行者に、正しく堅固な信心を受けさせられるのである。
慶喜一念相応後
    この信心により、受け救われた喜びの信心の一念が、佛の本願と
    相応した時、
与韋提等獲三忍
    韋提(インド、摩羯陀国の王妃、阿闍世に禁固され、観経の説法
    を聴いて救われた。)と等しい三忍(喜忍、悟忍、信忍)の不退
    の位を獲るのであり、
即證法性之常楽
    即ち、法性の常楽(往生と同時に涅槃を悟る)を得ると言われた。
源信広開一代教
    源信は釈尊一代の経典を幾度もみて、
偏帰安養勧一切
    ひとえに、安養(浄土念佛)に帰して、僧俗すべての人々に念佛
    を勧められた。
専雑執心判浅深
    専修念佛の信心と雑修(余善を交えて修すること)の信心との浅
    深(浅=自力の信、深=他力の信)を判別され、
報化二土正弁立
    信心の浅深によって、報土(大悲に報いて成立した浄土)と
    化土(衆生のために変現する浄土)の別があることを弁ぜられた。
極重悪人唯称佛
    五逆十悪の人は、ただ称名せよ。
我亦在彼摂取中
   (源信は)私もまた、専修念佛の徒として、摂取(阿弥陀佛の救
    い)の中にある者であるが、
煩悩障眼雖不見
    煩悩は、眼をさえぎって光明を拝み見る事ができなくとも、
大悲無倦常照我
    佛の大悲は倦むことなく、常に私を照らして下さるのであると
    言われた。
本師源空明佛教
     本師源空(号は法然。親鸞29歳で彼に就く。主著選択本願念佛       集)は、佛教全般を明らかにされ、
憐愍善悪凡夫人
     善悪の凡夫を憐れまれた。
真宗教證興片州
     真実の宗教の教行証、即ち、念佛往生の道を日本に起こし、
選釈本願弘悪世
     本願に選択された念佛を、この悪世に弘められた。
還来生死輪転家
     生死の迷界に輪廻転生して舞い戻るのは、
決以疑情為所止
     決まって疑惑の心情をもって、止るところを因とする。
速入寂静無為楽
     速やかに、寂静無為(涅槃)の楽に入るには、
必以信心為能入
     信心を以ってすれば、必ず入ることができると言われたので
     ある。
弘経大士宗師等
     佛の教説に弘く通じた大士(菩薩、龍樹、天親や宗師=真宗の祖
     師である、曇鸞、道綽、善導、源信、源空)たちは、
拯済無辺極濁悪
     極めのない濁悪の衆生を救済されるのである。
道俗時衆共同心
     今、時を同じく生きる僧俗は共に心を合わせて、
唯可信斯高僧説
     唯、これらの高僧の説かれたことを信じるべきである。

※ヘッダーに、konohana_kaoruさんの作品を使わせていただきました。
ありがとうございました。

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