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【連載小説】「青く、きらめく」Vol.7 第一章 風の章

〝今日、会えないかな〟
 マリからそんなメールが入ったのは、日曜日の朝だった。カケルは、バイトの昼休みにそのメールに気づいた。確か、この土日はバイトだから、とマリには言ったはずだ。
 気持ちを抑えた短い文に、今日、どうしても会いたい、という思いが募っているように思えた。ストレートに気持ちだけをつづったメール。マリからの、こういうメールは初めてだった。何かあったんだろうか。少し逡巡してから、〝バイトが六時に上がるから、それからなら〟と、返した。

 本当は、あまり人に会う気がしないんだけど、かといって、誰にも会わずにいて有効な時を過ごせそうな心境でもなかった。

 六時過ぎの春の海岸は、波とたわむれる人々もまばらで、ほとんど人気がなかった。遠くに汽船が浮かんでいるのが見える。カケルは、手持ちぶさたに手もとの石を掌の中でもてあそんだ。
 父と母が別れて間もなく、海岸の近くに住んでいた。こことは違う、もっと西の方の海だ。その頃も、よく海岸に来た。砂浜は少なくって、もっと小石がごろごろしていた。

 母が、新しい男を家に連れてくると、カケルは決まって海へ来た。居心地が悪かったのだ。狭いアパートで、よどんだ生活感の漂う空気の中で見知らぬ男と、デレデレしている母となんて、居られたもんじゃなかった。

  やがて、季節が過ぎその男が来なくなっても、カケルはやっぱり海へ来た。ぽっかりさびしくなった母が、遠い目をして一人煙草を吸っているのを見るのが、いやだったからだ。

 海にこれば、空は明るく、潮の香りもやさしかった。何より、海を見ているだけで、現状を忘れて、何か広々とした気持ちになれた。風に舞うとんびを眺めながら、いいなあ、鳥は、などと思った。

 自分も鳥のように自由に飛んで行ってしまいたい。風に乗って、どこか遠くへ、飛んで行ってしまいたい。

  カケルは、風が自分をさらっていくように、何度も何度もジャンプした。でも、風はちっとも自分をさらっていってくれなかった。

 カケルは、立ち上がって手に握っていた小石を遠くへ投げた。小石は、落ちかけている夕日を追うように、影となって海へ落ちた。
「ごめん、呼び出しておいて」
「ううん」
 遅れてきたマリは、急いでやって来たというより、少し迷いながらここまでやって来た、そんな雰囲気で現れた。
 カケルは、足元のじゃりを靴で踏みつぶした。何か話があるんじゃないか、行きたいところでもあるんじゃないか、と思ったので、マリの言葉を待った。けれど、マリは、特に何か積極的に切り出す風でもない。カケルの方まで歩いてくると、海に目をやった。
「きれい」
 海は、ちょうど日が沈むところだった。
「ね、少し歩かない」
 マリが言うので、後に続いた。砂浜の海岸はとぎれ、岩の出っ張った遊歩道へと続く。二人は、黙って遊歩道を歩いた。白いガードレールに少しもたれかかり、マリが海の向こうを指さした。
「見て、富士山」
 ほとんど日が沈んだ海の向こうに、富士山が薄い紫色の影となって浮かび上がっていた。周りの空が淡い茜色に染まっている。
 マリは、目を輝かせてその風景に見入っていた。
 カケルも同じようにその光景を見つめた。けれど、たぶん、マリほど自分はその光景の美しさに感動していないんだろうな、と感じた。
 紫色の富士山は、その背景の色とあいまって、むしろどこか不気味にさえ思えた。それは、母が昨日男と静岡へ行く、と言った言葉を思い起こさせた。母は、あの富士山の見える場所で見知らぬ男と過ごしているのだ。


 カケルは、ふと、隣のマリを見た。相も変わらず、マリは瞳に茜色を映して、風に吹かれて海を見つめている。
 今、おれとマリは同じものを見ていても、全く違って見えるんだろうな。誰にも分ってもらえない、このこころもとなさ。そう思うと、何とも言えなく淋しくなった。鼻の先も指先も、すうっと魂が抜けるように冷えてくるのを感じた。
 きっと、育ちのいいマリには、おれが感じている鬱屈した思いなんて経験したことがないんだろう。両親に大切に育てられて、愛されて、何もかもそろっていて。そんな彼女にこの気持ちが分かるはずもない。
 そう思うと、今、隣に立っているこの美しい女の子を、めちゃくちゃにしてやりたい衝動にかられた。
 似てるわよ。
 母の声が頭の中に響いた。それは、母と似てる、ということじゃなくて、女をつくって出て行った父と似ている、と言ったのだ。


 おれは、母に憎まれている。


 そんな言葉が、どこかから降って来た。
 次の瞬間、カケルは、半ば強引にマリの肩をこちらへ向け、キスをした。


 おれは母に憎まれている。
 おれは母に憎まれている。


 そんな言葉を打ち消すように、鳥が屍をついばむように、何度も何度も乾いたキスをした。
 ぱっちりと開かれていたマリの目は閉じられて、彼女の背景には薄明の青に沈んだ海が、音もなく繰り返し打ち寄せていた。

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