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【連載小説】「青く、きらめく」Vol.1 第一章 風の章

   一、風の章

 どこか遠くへ行きたい。できれば、北がいい。子どもの頃からずっとそう思っていた。
忘れていたこの言葉が、ふとよみがえったのは外の風のせいだろうか。夜半から急に風が強くなった。木造のアパートの窓枠は、夢の中でガタガタ鳴って時折カケルの意識をゆり動かした。
 青い風が吹いているのだろう。
 ぼんやりと夢の中で、そう思ったような気がする。それは、子どもの頃海辺の町でたびたび目にした風の色だ。
 意識がはっきりしたころには、もう風は止んでいた。頭がぼんやりしたまま歯を磨く。何か大切な夢を見たような気がする。中身は忘れた。切ないような、哀しいような感触だけが残っている。こういう時は、いつもより念入りに歯を磨く。
 留守電を再生すると、メッセージが入っていた。
―――新入生の工藤美晴です。一度、練習を見に伺いたいのですが……
 ためらいがちの声は、途中で切れた。
 そうだった。同じような内容の留守電が、三日前にも一度入っていた。バイトが忙しくて、そのことはすっかり頭から抜けていた。気になりつつも、こちらから何もしようがない。カケルはバイトに向かうため、アパートのドアを開けた。
 街もキャンパスも緑が青々とそよいで美しい。そんな中を、カケルは颯爽と自転車をこぐ。バイト先はキャンパス内を通り抜けた方が近道だ。
「カケルー、今からバイトぉ?」
 明るい声が投げかけられる。同じ学部の沙耶だ。裕介と周も一緒だ。沙耶の白く短いスカートが光を反射してまぶしい。見知らぬ誰かの茶色い髪が木の葉のようにきらめいている。日差しが強いな、カケルは目を細める。色とりどりの風景が、カケルの意識を現実の世界に呼び覚ましていく。
 バイト先のカフェに着く頃には、今朝の夢のことも、遠慮がちな声の留守電のことも、頭からすっかり抜け落ちていた。
 海岸沿いのカフェは、いつも若い女の子やカップルでにぎわっている。BLTサンドと、シュリンプ・バーガーのランチセットを持って行くと、窓際の女子二人は歓声を上げた。
「キャー、おいしそう」
 一瞬だけチラリとランチを横目で見、その視線は再びテーブルに広げられた雑誌におとされる。プレートを置こうとしてもスペースがない。
「で、次の女子会はこの店がいいと思うんだよねー」
 で、その雑誌、じゃまなんだけど。心の中で毒づく。
「あ、ごめんなさい」
 向かいに座っていたもう一人の女子が、雑誌をよけて、ようやくプレートが置けた。
「でもさぁ、こっちのイタリアンもひかれる~」
 女子たちの甲高い声を後に、厨房に戻る。ため息交じりに一瞬だけ振り向くと、背景の海が光彩を放っている。春の海の細やかな光が、粒になってきらめいていた。

 バイトから上がって稽古場に着いた途端、声が飛んできた。
「おかえりー、カケル。で、進んでるの? ホンは」
 由莉奈のやたらテンションの高い声。発声や動きの練習も済んで、何となく次は何をしたらよいのか分からない、あいまいな空気が漂っている。副部長の由莉奈が投げやりに足を組んで脚本集に目を落としている。
「決まんないとイマイチ練習にも身が入んないんだよねー」
「ガタガタ言うなよ。その脚本集から練習入って」
「何よ。自分が書けないくせに」
「うるせーなー」
「八つ当たり」
 由莉奈は小さな声で言い捨ててから、声のトーンを高めた。
「分かったわよ。ここの第一場面からやろ」
「でも、女の子が一人足りませんよ」
 脚本集をチラリと覗き込んだ二年生の徹がぼそぼそと口をはさむ。由莉奈は徹の言うことなど、全く耳に入らない様子だ。
「あの……」
 消え入りそうな、でも澄んだきれいな声に、その場が一瞬波打ったように静かになった。稽古場の隅の方に、まるで植物のようにすっと立っている影がある。
「ああ、ごめんね。カケル、新入生の子よ。名前は、何だっけ?」
「工藤美晴です」
 ああ。カケルは、やっとここで留守電のことを思い出す。
「そう、工藤さん。うちの劇団に興味あるんだって。何だか、最初からカッコ悪いとこ見せちゃったね。工藤さん、こっちが一応部長の草間カケル」
「一応は余分だろ」
 カケルは、ちらっと工藤美晴に目をやった。一見、演劇とは無縁そうな大人しそうな女の子だった。背がとても低くて、顔立ちもどちらかというと童顔だ。美晴は、紹介されて、一瞬、視線を真っすぐカケルに向けた。不思議な印象の目だな、と思った。少し茶色がかっていて、透明で、何というんだろう。そう思っているうちに、その目の色はみるみるうちにくもってふせられてしまった。いかにも新入生らしく、おどおどして大きく何度もまばたきしている。
「きみ、何回か留守電くれたね」
「なぁんだ、そうだったの。やだ、カケル、ひと言もそんなこと言わなかったじゃない」
 由莉奈が脚本集を手に立ち上がる。
「じゃあ、工藤さん、この少女Bをやってみて」
「え、」
 とまどう美晴に、由莉奈は脚本集を握らせた。
「大丈夫。フツーに読むだけでいいからさ」
 そこへ、コツコツとヒールの音がひびいて、ドアがすっと音もなく開いた。二年生のマリだ。いつもどおり、不機嫌そうな顔をしている。みんなが振り向くほどの美人なのに、その不機嫌そうな顔が、とっつきにくい雰囲気をかもし出している。マリは、つかつかと部屋の隅のテーブルに向かうと、新作と思われるブランドのバッグを丁寧に置く。そして、長くてさらさらの髪に軽く手ぐしを通す。
「あれ、マリちゃん、今日家庭教師のバイトじゃなかった?」
「相手が具合悪いみたいで、急にキャンセルになっちゃったんです」
「ちょうどよかった。今、一人足りなくて……」
 そこまで言いかけて、由莉奈は、はっとしたように今日来たばかりの美晴を振り返った。
「あ、私はいいです」
 場を察して、美晴は台本を由莉奈に返そうと、歩み寄った。
「だれ?」
 マリが率直にたずねる。
「新入生よ。工藤美晴ちゃん」
「よろしく」
 マリは、白い手をすっと上げる。美晴はおずおずとその手をとった。

                       (Vol.2へつづく

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