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私たちは九月の庭で

ゲイのカップルに育てられた少女と、少女を育て男たちの物語。キーワードは孤独、罪、秘密、喪失、愛。
いつか完成させたい……という願いを込めて、冒頭のみ公開。



 私には父親がふたりいるんです。
 そう言うと大抵の人は怪訝な顔をする。中には自分で答えを見つけ出して、「本当のお父さんと再婚でできたお父さんがいるの?」と聞く人もいる。
 それだったらどんなにいいだろうと思う。世間では実父と継父がいる子供を、複雑な家庭環境で育ったと形容することもあるようだが、私から見れば羨ましいくらいに単純な話だ。
 いえ、そうじゃないんです、と私は説明を開始しなければならない。
 私の父はゲイなんですが、若い頃から男のパートナーがおりまして、私は彼らに育てられたんです。そういう意味で父親がふたりいるんです。
 そうした私の説明を聞いて、返ってくる反応は三パターンに大別される。
 あからさまな同情の眼差しを浮かべる人。
 触れてはいけない問題だ判断し、無関心を装って受け流す人。
 目を輝かせて根掘り葉掘り聞いてくる人。
 最後の浅ましい好奇心を隠さず、興味津々の態度を示す人たちが一番対応しやすい。好悪の感情は別にして、一番わかりやすい人種だからだ。
 父は作家でずっと家にいるのに、小説を書くこと以外はまったく何もしない人なんです。だから私は父の恋人である、もうひとりのお父さんに育てられたようなものなんですよ。この人がまた家事のできる人で、料理も上手なんです。ある意味、お父さんっていうよりお母さんみたいな人で。あ、と言ってもオネエじゃないんですよ。身長なんて百八十五センチもあって、無精髭も生えてる渋いおじさんで。
 聞かれもしないのに、そんなことを明るい口調で言うのは自分なりの防衛術だ。最初から笑い話のようにさらけ出しておくことで、暴かれる不快な痛みを回避できる。
 もう慣れたけど、それでも幾度となく思ってしまう。
 ゲイのカップルの育てられた私に対して、世間というものはわりかし厄介だ。
 

 慎一郎がいなくなったのは、まだ冬の寒さがわずかに残る四月の朝だった。
 バイトに行くため、私は七時に起きて一階へと降りていった。普段ならエプロンをつけた慎一郎が台所にいて、ふたりで朝食を取るのが日課だ。なのにその朝に限って、慎一郎はいなかった。
 古いがきちんと手入れされたガスコンロの上には、ほんのり湯気を立てた味噌汁の鍋があり、ダイニングテーブルの上には卵焼き、こんがり焼いたウインナー、ブロッコリーとプチトマトなどのおかずの皿が、ラップをかけた状態で置かれている。食事の準備はできているのに、つくった本人がいない。
 なぜかメアリー・セレスト号を思い出した。その昔、ポルトガル沖で無人のまま漂流していた船。発見されたとき、食べかけの食事やまだ温かいコーヒーが残されていたとかいう話は有名だけど、実際はそういった部分は脚色されたものらしいと最近知ってがっかりした。
 柚彦が居間のソファーで眠っていた。夜型の柚彦は、大抵昼すぎまで寝ている。私はそばまで行って「ねえ」と声をかけた。
「慎一郎がいないんだけど。出かけた?」
 頭まですっぽり毛布にくるまった柚彦は、「うー」とも「あー」ともつかない声で犬のように唸った。起こすなと発音するのも面倒らしい。
 蓑虫のような父親の姿を見下ろしながら、私は溜め息をついた。テーブルには飲み散らかしたビールの空き缶が転がっている。執筆に行き詰まって飲んだくれるのは柚彦の勝手だが、片づけるのはこっちだからうんざりする。
「起きてよ。慎一郎はどこ?」
 毛布を掴んで引きはがした。どこか爬虫類を思わせるつるりとした顔に不機嫌を張りつかせ柚彦は、眩しそうに顔をしかめて「うるせぇな」と毒づいた。寝癖のついた前髪が鼻先まで垂れて鬱陶しい。
「俺はさっき寝たところなんだ。邪魔すんな。寒いから毛布を返せ」
「慎一郎がどこにいるのか教えてくれたら、いくらでも寝かせてあげる」
 私が毛布を奪ったままにらんでいるので、柚彦は渋々という態度で起き上がった。まだ三十代なのに不摂生が祟って不健康そうに見える。目の下の濃い隈なんて、もはや顔の一部だ。
「……あいつはこの家から出ていった。」
 私が眉根を寄せて黙っていると、「嘘じゃねぇ。本当のことだ」と柚彦は言い足した。信じられない。柚彦は大嘘つきだ。子供の頃から何度騙されたかしれない。
「疑うならあいつの部屋を見てこい。すっからかんだ」
 いつもは人の目を見て話さない柚彦が、私の顔を真っ直ぐ見据えてくる。私は毛布を床に落とし、階段を駆け上がり、二階の慎一郎の部屋に入った。
 柚彦の言葉は本当だった。服はあらかたなくなり、机の引き出しもほとんど空になっている。呆然としながらリビングに戻ってみると、柚彦はまた毛布にくるまって寝ていた。
「慎一郎はどこに行ったの? 旅行? すぐ帰ってくるよね?」
「もう戻ってこない。俺とあいつは別れたんだ」
「大袈裟なこと言わないでよ。どうせまたくだらないことで喧嘩したんでしょ? いつだって柚彦が悪いんだから、さっさと慎一郎に謝って──」
「お前に手紙を置いてった。そこにあるだろ」
 ソファテーブルの上に折りたたんだ紙が載っていた。白い便せんだった。開くと見慣れた慎一郎のきれいな文字が綴られていた。

紬(つむぎ)へ

 突然のことで驚かせてすまないが、俺と柚彦は別々の道を歩くことになった。ここは柚彦の家だから俺が出ていくのが道理だ。お前の顔を見ると辛くなるから何も言わずに出ていく。黙っていなくなることを、どうか許してほしい。
 お前はしっかり者だからあまり心配はしていないけど、困ったことがあれば雅人に相談するといい。きっと力になってくれる。
 柚彦は駄目なところもたくさあるが、お前のたったひとりの父親だ。できるだけ優しくしてやってくれ。
 

 三回読んで、慎一郎は本当に出ていってしまったと理解した。こんな紙切れ一枚残されたって、と途方に暮れながら私はキッチンに行き、ダイニングテーブルの朝食を見つめた。
 これは慎一郎が私のためにつくってくれた、最後の朝ご飯。
 にわかには信じられない状況に感情が麻痺している。ただ温かいうちに食べなくちゃと思った。
 慎一郎はいつも言ってくれた。料理は温かいうちに食べなさい、そうすれば心まで温かくなるから、と。
 私は椅子に座って箸を持った。食欲なんてまったくないけれど、味なんてまったくしないけれど、黙々とご飯を口に運ぶ。
 柚彦が脇腹をぼりぼりと掻きながらやってきて、気持ち悪そうな目で私を見た。
「食うのか泣くのかどっちかにしろ」
 そう言われて自分が泣いていることに気づいた。



 

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