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踊り場に暮らす

  喉が渇いたら水を飲むように、尿意を催したらトイレに行くように、朝になったら目を覚ます。近くで小鳥が鳴いている。もう目覚まし時計をかけなくなってどのくらいになるだろう。機械音で睡眠の中から引きずり出されることに耐えられなくなって目覚ましを一切なくしたら、自然と朝の光で目が覚めるようになった。万が一寝坊してもまあそれはそれでいいや、と腹をくくってしまうと意外なほど寝過ごさない。
 とはいえじゃあそこから機嫌よく朝の支度に移れるかと言えば全然そんなことはなく、鬱フェーズに入っている間は毎朝布団の中で小一時間ほど世界を呪い、全人類の終末を祈る。そんなこといつまでやっていても気分が良くないから、大してムラついている訳でもないのに、とりあえず枕元のスマホをいじってエロ動画を検索してはオナニーをするようになった。これは以前サークルの後輩のOくんが「起きるために毎朝機械的にしている」と言っていたのを黙って真似てみた。特段スッキリするというわけではないけれど、とりあえずしてしまえば一区切りにはなるし、ベッドからは出なくてはいけなくなるので、べたついた心と体を流すべくそのまま朝風呂を浴びてようやく一日が始まる。
 
 起きてしまえば感情は凪いだまま、一日はベルトコンベアに乗って進んでいく。出勤の準備をしながらできる家事を片付け、職場では終業まで淡々と手と少しだけ頭を動かす。帰りに食料品や日用品を求め、帰宅後は食事と最低限の家事を済ませて明日に備えて早寝する。立ち仕事ということもあり、毎日思ったよりも疲れていてすぐによく眠れる。
 
 今の職場に転職してもうすぐ丸四年、今付き合っている彼氏とは三年目を迎えた。母と実家で二人暮らしになってからは十余年。うち母が人工透析を導入して以来二年が経過するが、移動に難があるもののまだまだ元気で、何とか見守り程度の介入で一緒に暮らせている。
 
 この生活に辿り着くまでには、悲しいくらいありふれた、言葉にすると安っぽくなる、でも必死な紆余曲折と上り下りがあった。今ここに住む私や母だけでなく、いまはそれぞれの家庭を持つようになった姉と妹、弱いがゆえ暴君であった父。今こうやって私たち一家が一見平穏に見える生活を何とか手に入れているのは、家族の絆とかそんなのでは全然なくて、それぞれが溺れないよう必死になって自らの信じるものにしがみついてきた結果なのだと思う。
 
 普段から浅慮な私だが、この一見凪いだ状態が千代に八千代に続くと信じているわけではない。母がいつまで自立した日常生活を続けていけるかわからないし、その期間がそう長くないことは病状を見れば何となくわかる。姉妹たちも子を設け、それぞれに課題を抱えている。彼氏にはいつか一緒に住んで犬を飼いたいね、だなんて言われて喜んでいたけれど、そんなこと本当にできるだろうか。私自身心からそれを望んでいるのかどうかもよくわからない。
 
 私は地下鉄駅直上、市営住宅や公団がひしめく昔のニュータウン内の複合施設で働いている。普段はタイムカードを切ったら脇目も振らず閉店近い安売りスーパーに寄って帰宅の途に就く。でも今日は珍しく、妹が母を夕飯に誘ってくれたおかげで急いで帰宅する必要がない。だからといって何かしたいことがあるわけでもない私は、モール隅の階段のくすんだベンチで、缶入りのココアを飲みながら自分の夕食をどうしようか思案していた。いつも家で沸かしたお茶を持ち歩いているので、自動販売機でものを買うのは久しぶりだ。定価で買ったココアは品質管理下で丁寧に大量生産された味がして、とてもおいしい。生活するには困らない程度の給料はもらっているくせに、闇雲に将来のことが不安で毎日数十円単位の倹約を漫然と続けている私には、こんな取るに足らないことが贅沢なことのように思えてしまう。
 
 踊り場の上のフロアは廉価な大型衣料品店で占められており、いつも若い人たちや家族連れで活気がある。下のフロアは衣料品や雑貨を中心とした専門店が集まっており、上階ほどの賑わいはないものの、店員さんたちがてきぱきと立ち働いてく姿が見て取れる。
 
 今年私は四十六歳になった。ひと昔は「働き盛り」、今はアラフィフというラベルが貼られる。我慢してずっと下を向いて歩いていたら、いつの間にか折り返し地点はとっくに過ぎていた。
 「♪知らぬうちに、階段上ってしまった。もう今さら、戻れないわ。」ともさかりえのデビュー曲を口ずさむ。当時彼女はまだ十六歳だった。そしてそこから二十六年経った今、私はもう上階にも下階にも行けず、それこそこんな踊り場のような場所に座って、せわしなく立ち働く人たちを眺めるように生きている。このままこうやって生きていくのかな。
 
 そんな答えのない問いを取り留めなく考えていたら、いつの間にかココアは冷めてしまっていた。ぬるくて甘いココアを飲み干す。先のことはとても不安。でも今はひととき、珍しく気持ちが和らいでいる。今こうやって中二階で足を止めて、足りているような心許ないような感情をぶら下げているのはきっと、浅はかな私なりに日々の生活を重ねてきた結果なのだ。
 遠くに聞こえる一昔前のJポップのストリングス曲。こうしてぼんやりしている間、誰もここを通らない。色褪せた鈍色のリノリウムの床、清掃が行き届いていた階段の隅々。もう何年もここで働いているけれど、すぐ近くにこんな安楽な場所のあることを知らなかった。
 このあと夕飯の用意どうしよう。彼氏とはこのままの関係でいいのかな。身体機能が衰え続ける母との適切な距離感って何だろう。安定はしているけど単調な今の仕事、老後のこと考えたらこのまま続けるのが正解なのかな。
 考えなくてはいけないことは両手の隙間からこぼれ落ちていく。それでも私はありふれた町の片隅で偶然静かで穏やかな場所を見つけた。私はひとときここに腰かけて、ひとりの時間をさまようことにした。

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