相田 冬二

2010年のSPEC論。

第6回、無人のマンションの部屋に、サイレンの音が重なった瞬間、私はSPECを唯物論的に理解した。

 理解したというのは正確ではない。どうやら実在しているらしい、という気配を、しかし曖昧にではなく明瞭に、淡くではなく濃密に、ただ感じたのである。把握する能力はないし、またその必要もないと思った。物事を手中におさめるのではなく、あるがままのフォルムを漫然と浴びればそれでいいのではないかと、ぼんやり知覚

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2010年の戸田恵梨香論。

私たちはいま、『SPEC』の真っ只中で、この女優がはらむ破格の説得力に立ち会っている。しかもその力は、きわめて有機的に、二十一世紀に対応してもいる。

 無粋な比喩をあえて用いるが、戸田恵梨香がここで披露しているのは「地デジ対応」の表現である。現代日本人の合い言葉のように流布された「地デジ対応」なる語句だが、その意味について真剣に考えたことはなかった。『SPEC』の戸田を目撃したとき、初めて感覚的

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2010年の加瀬亮論。

来年1月28日に全米公開されるガス・ヴァン・サント監督の「RESTLESS」で、加瀬亮は日本軍人の亡霊を演じているという。もちろん、撮影されたのは『SPEC』以前のことだが、このことは大きな示唆を与える。

 加瀬と軍人と言えば、誰もがクリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』を想起するだろう。イーストウッドもまた西部劇であろうと現代劇であろうと、ある種の亡霊を描きつづけている映画作家であ

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生きてるものはいないのか

『生きてるものはいないのか』

 大学のキャンパスのなかで人が死んでいく。ただそれだけの話なのに目が離せない。殺人でも自殺でもなく次々に突然死するだけ。理由は明かされない。今度は誰が死ぬのか。そんなスリルもここには見当たらない。緊張を凌駕する弛緩が全編をおおう本作はパニックものでもホラーでもなく謎解きミステリーや感動の群像劇の類でもない。ここにはもっともらしい顔つきの「社会」などない。わたしたちが

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生きてるものはいないのか

『生きてるものはいないのか』

 轟音のなかに静謐があるのではなく、静謐のなかに轟音がある。永遠のなかに一瞬があるのではなく、一瞬のなかに永遠がある。石井岳龍としてわたしたちの眼前に姿をあらわした作家は転生する以前から、そのような宇宙をかたちづくってきた。しかしながら、彼は本作のこころみによって、ついに限界を突破したといえるだろう。ある境地に達したというよりも、だれも見たことのなかった地平に降り立

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生きてるものはいないのか

『生きてるものはいないのか』

 311以後に名づけられたとしか思えないタイトルだが、そうではない。これは2007年10月から11月にかけて上演され、翌年、第52回岸田國士戯曲賞を受賞した前田司郎作・演出による同名舞台を映画化したものなのである。

 優れた作品には決して朽ちることのない普遍性が宿っていることなら誰でも知っているが、この戯曲の強度はもはやそのような地点には留まってはいない。どこまで

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