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「誰のものでもない律」を演じる佐藤健は誰にも似ていない

 朝ドラ『半分、青い。』は、ヒロイン、楡野鈴愛(にれの・すずめ)の物語であると同時に、彼女と同じ日に同じ病院で生まれた幼馴染、萩尾律(はぎお・りつ)の物語でもある。このことは脚本家自身も公式ホームページに掲載されているインタビューの中で述べているし、なにより、ドラマはふとしたはずみで、律のモノローグを挿入したりもしている。

萩尾律の登場は、22年ぶりの衝撃だ

 視聴者であれば、鈴愛が律と結ばれることを予感するだろうし、そうなってほしいと願うのは自然な心情であろう。性格が対称的だからこそ、衝突もするが、真の意味で共に支え合うこともできる鈴愛と律はほんとうにお似合いのカップルだし、その道行きは幼少期からとても丁寧に描かれていたからだ。
 ところが、そう簡単に事態は推移しない。鈴愛は別な男性と結婚し、離婚し、娘を連れて実家に出戻った。律は別の女性と結婚し、息子もいる。律の母が病に伏し、律は実家から勤め先に通うことした。妻子は都会に残している。つまり単身赴任である。
 バツイチの女と、シングルではないがシングルのような状態にある男が、故郷で再会。いま、時間差の恋(のような)物語が始まっているかに思える。

 映画、ドラマと幅広い役柄で活躍している実力派、佐藤健が臆することなく高校時代から律を演じている。理数系で、女心への対応がマイペースな律の言動は「歯がゆい」どころか、「首をかしげる」視聴者も少なくないという。佐藤健ファンの中にも、律のキャラクターには戸惑っている人がいると聞く。ひょっとすると、それは佐藤健がまったく新しい芝居をここで見せているからかもしれない。
 佐藤が『るろうに剣心』三部作で空前絶後のヒーローを快演した実績はいまさら語るまでもない。彼はその後、『何者』で一転、底なしの劣等感を抱える大学生を能面を思わせるアプローチで体現、微細な陰影で凝視に値する表現を提示した。昨年末公開の大ヒット作『8年越しの花嫁 奇跡の実話』では、昏睡中の婚約者をひたすら待ち続ける寡黙な青年の胸の内を、佇まいだけで表した。その姿は、新しいかたちの「市井のヒーロー」であった。
 『半分、青い。』の佐藤健は、これら映画での達成とは別次元の、さらに深い演技を創り上げている。個人的には、律を通して、伝わってくるもののインパクトは、実に22年ぶりに体験するものだった。少し長くなるが、まずは20世紀のドラマについてふれておきたい。

知性があるから、人は謙虚になる

 1996年、『ロングバケーション』の木村拓哉は衝撃だった。オーラが、ルックスが、ではない。演技が凄まじかった。いわゆるニュアンス芝居ではない。よくある「自然体」ともまるで違う。完全に構築されているのだが、キャラクターの肌合いに風が吹いている。台詞の意味にとらわれず、言葉を音として発している。聞き取りにくい発声もところどころにあるが、むしろそれがアクセントになり、稀有なグラデーションが発生している。移ろいゆく空の表情のように、慈しみがいのある表現。演技がサウンドと化すことによって、理屈を超えた領域に感動が運び込まれる。たとえば、歌詞の意味もわからないまま、洋楽を聴いていて、それでも涙を流してしまうような現象がそこでは起きていた。

 奇しくも、そのドラマを執筆している脚本家は同一人物である。彼女はそのキャラクターについて、前述したインタビューの中で、こう語っている。
「これまで私が書いてきたラブストーリーのどの相手役ともきっと違う」
 そう。北川悦吏子脚本『半分、青い。』の萩尾律は、誰にも似ていない。『ロンバケ』の瀬名秀俊ともまったく異なる。
 そして、佐藤健はここで、誰にも似ていない芝居を見せている。

 楡野鈴愛(永野芽郁)よりも、ちょっとだけ早く生まれた萩尾律(佐藤健)は、そのことに運命を感じている。ちょっとだけ早く生まれたのは、鈴愛を守るためなのだと。それは呪縛ではなく、願いである。鈴愛を守れる自分になりたいという祈りのようなものである。運命とはたいてい、祈りによって形成されている。
 左耳の聴覚を失った鈴愛の支えになるべく、彼は彼女の右側に立つ。だが、そのポジションが、鈴愛の身体的な不幸によって「与えられた」ものであることを、律は知っている。彼には知性がある。その知性が、彼を思い上がらせることはない。とりわけ鈴愛に対しては。
 鈴愛は、漫画家という夢に挫折した。一方、律はロボット作りという夢にいまも邁進している。そうした境遇もまた、律を思い上がらせることはない。「だから、俺が鈴愛を守ってやる」だなんて思わない。律なりのデリカシーである。
 知性があるから謙虚にもなるし、消極的にもなる。この真実を、佐藤健は一切の説明芝居を排して、あらわしている。感情があからさまに揺れる芝居ではない。ここでは、ときに硬く、ときに柔らかくもある、フォルムが不安定な男性が、自分でも無意識のまま揺れている。

 律は知っている。彼女に必要とされて初めて、鈴愛の右側という「与えられた」ポジションに立つことができるということを。つまり、能動的に守っているのではなく、受動的に「守る機会を与えられている」。知性があるから、己の受動態を見て見ぬふりはしない。いや、できない。その風情を、佐藤健は理屈を超えた場所でかたちにしている。

 律という人物は、彼がはらむ知性というファクターから覗きこむことで明瞭になる。
 突発的に行動することができて、後悔することもさほどない鈴愛とは対称的な律は、けれども脳だけが肥大しているわけではない。身体だって動く。モテ期もあった。美少女と恋したりもした。
 つまり、知性があるからと言って、変わり者というわけではない。クールに見えるが、実はクールでもない。このあたりのさじ加減は、一歩間違うと、曖昧なキャラになってしまう。
 冷静沈着なヒーローというありきたりの設定からあらかじめ「降りている」律は、カテゴライズに属さない存在だ。
 矛盾した言い回しになるが、「非凡な普通」がここにはある。佐藤健は、律を偏らせることなく、人間誰もが「非凡な普通」(それは多くの場合、「個性」と呼ばれる)を有していることを示しながら、その上で、唯一無二の存在として、律を成立させている。はなれわざ、と呼んでいいと思う。

カムフラージュできない、心の奥底

 わたしたちはなぜ、律に惹きつけられるのか。戸惑うことも、首をかしげることも、それは律という「個性」にふれたから起きる生理的反応だ。
 端的に、写実を述べれば、表情が台詞をさり気なく裏切っている点は大きい。
 佐藤健は、律が発している言葉に「擦り寄せた」顔にはしていない。
 表情が言葉を裏切るとはどういうことか。
 それは、律が己をコントロールできていないということである。
 本人としてはカムフラージュしているつもりかもしれないが、カムフラージュできてない。とりわけ鈴愛を前にしたときの彼の振る舞いにはそれが顕著で、だから見ていて、グッとくるし、きゅんとしてしまう。
 そうだ、そうなのだ、誰もが、渦巻く自分を制御できないのだという、きわめて当たり前の感慨にたどり着く。
 律には知性がある。だから知性を駆使して、急場をしのごうとする。しかし、しのげてはいない。
 なぜなら、人生には、必ず、知性が律することのでない「ほつれ」が存在するから。
 その「ほつれ」に脳が負けること。もっと言えば、脳が心に負けつづけること。その様を、佐藤健は、一切の「含み」を寄せつけない、密やかな潔癖さで体現している。
 律は、鈴愛に思わせぶりな態度をとるような人間ではない。けれども、全部、本音でぶつかり、本音をさらすようなことはできない。
 だから、律は、鈴愛に、あこがれている。

 北川悦吏子は、なぜ「律」と名づけたのだろうか。
 律を見つめていると、律は自分を律することができないから、律という名前なのではないかと思うことがよくある。
 己を律することができない人間は「未熟」と切って捨てられることもある。けれども、自分を完全にコントロールできている人間よりも、あらゆる手を尽くしても結局、コントロールできていない人間のほうが、ずっと愛おしい。
 そして、佐藤健もまた、律を完全にコントロールするのではなく、どこか「手を離して」演じているように感じる。表情が言葉を裏切る様が、魅惑的なズレとなって届くのは、演者が役を支配するのではなく、キャラクターの生命力を信じているからではないだろうか。
 律はかつて、鈴愛に、「おれは誰のものでもないよ」と告げた。
 誰のものでもない律。そして、きっと律は律のものでさえない。
 自分で自分のことをコントロールできないこと。自分が自分の魂を支配できないこと。その不可能性が、こんなふうに、優しく響く表現を、わたしは見たことがない。
 素敵じゃないか、と思う。「できないこと」があるって、素敵なことじゃないか。

 七夕の夜、去りゆく鈴愛の背中に、律がかけた声が忘れられない。
「さよなら、すずめ」
 明るくもない。暗くもない。別れのことば。相手への思いやりであり、自分への問いかけでもある、さざなみ。投げかけでもあるし、ひとりごとでもある、明滅。
 生まれたての言葉は、誰にも支配されない。その言葉を発した人にも支配されない。その光景に、胸打たれた。

 律と鈴愛が最終的にどうなるのかはわからない。でも、どうなってもいいと、いまは思う。

 萩尾律は、北川悦吏子にも、佐藤健にも支配されず、「これからの不可能性」を、たしかに生きている。

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