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2010年の戸田恵梨香論。

私たちはいま、『SPEC』の真っ只中で、この女優がはらむ破格の説得力に立ち会っている。しかもその力は、きわめて有機的に、二十一世紀に対応してもいる。

 無粋な比喩をあえて用いるが、戸田恵梨香がここで披露しているのは「地デジ対応」の表現である。現代日本人の合い言葉のように流布された「地デジ対応」なる語句だが、その意味について真剣に考えたことはなかった。『SPEC』の戸田を目撃したとき、初めて感覚的に、この語句を受け取ることができたのである。

 「地デジ」に関しては画質のことが取り沙汰されることが多いが、私たち視聴者にとって重要なのはそこではなく、純粋な視覚上の画面サイズであろう。縦横比率4×3から、16×9へ。そのとき映像が映し出すものは明らかに変わる。いや、変わらなければいけない。変わらなければいけないのは撮影技術だけではない。演じ手の演技が見せる内実も変わらなければいけない。

 16×9の時代において、見る者の感性としての視野もまたワイドにならざるをえない。そのとき「人物」だけを見つめるのではなく、「世界」を見通すことが可能になるのだ。 『SPEC』の当麻紗綾を見るとき、私たちは「世界」を見る。「世界」のなかに「人物」がいるのではない。「人物」のなかに「世界」があるのだ。それは、演出によるものではない。当麻の像は演出家によって変幻する。当麻を通して「世界」を感じ取ることができる理由は、戸田恵梨香がそのように演じているからである。

 第4話で、「右へ」と示された表示を視界におさめながら、当麻は左に突き進む。それが勘違いなのか、本能なのか、当麻自身にもわかっていないが、それを瀬文焚流に馬鹿にされた当麻は泣く。今井夏木ディレクターの証言によれば、台本では「ムッとする」と描かれていたリアクションを戸田が自発的に改良したのだという。「人物」に回収されない、「世界」のありようがここにはある。説明不能な何かに私たちは感動させられる。それは心理や感情ではない。「世界」としか名づけられないものなのである。

 振り返ってみれば『LIAR GAME』の戸田は主人公でありながら、あのなかで最もフラットなキャラクターではなかったか。あるいは映画『大洗にも星はふるなり』の戸田は7人の男たちそれぞれの妄想のなかだけに存在する、彼らの「世界」そのものではなかったか。

 脳をフル回転させるために、鬼のように喰いまくる当麻は能動と受動のあわいに生きている。いや、彼女は能動でも受動でもない領域を生きているのかもしれない。パソコンを睨むまなざし、やおら上空を見つめる祈りのような視線がやけに美しいのは、きっとそのせいだ。そして『うぬぼれ刑事』にゲスト出演した回(演出は土井裕泰)でもそうだったように、ワイルドなのにプリティという特性こそが、すべてが等価に存在する「世界」を明るみにする戸田恵梨香の本領なのではないだろうか。

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