見出し画像

2010年の加瀬亮論。

来年1月28日に全米公開されるガス・ヴァン・サント監督の「RESTLESS」で、加瀬亮は日本軍人の亡霊を演じているという。もちろん、撮影されたのは『SPEC』以前のことだが、このことは大きな示唆を与える。

 加瀬と軍人と言えば、誰もがクリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』を想起するだろう。イーストウッドもまた西部劇であろうと現代劇であろうと、ある種の亡霊を描きつづけている映画作家である。

 『SPEC』の撮影が始まって間もない頃、加瀬に話を聞いたとき、彼は自身のパブリックイメージの温床であるところの「繊細」という表現にやや苛立っているように見えた。確かに俳優、加瀬亮の魔力を多くのひとびとは「繊細」(その意味に反して何と乱暴な言葉だろう!)の一語で片付けてしまいがちだ。間違いではない。しかし、それ以上に重要なことがある。加瀬は「オフ」を生きている役者なのである。

 たとえば『スクラップ・ヘブン』や『重力ピエロ』を観ればわかるように、「オン」を生きるオダギリジョーや岡田将生に対して加瀬は「オフ」の時間と空間にその身を置いている。では、「オフ」の時空とは何か。抽象的な物言いになるが、それは亡霊として存在しつづけることに他ならない。

 『SPEC』で瀬文焚流が「命かけます!」と叫ぶとき、それが彼のよりどころであった「軍」的な組織における了解事項としての忠義や精神性であることは明白だが、「かけられた命」が常に宙づりの状態であることを見逃すべきではない。瀬文は自分が何者であるかわかっていない人物に映る。しかし彼は昨今の若者たちのように自分探しをしたりはしない。いや、自分を探すことを放棄するために「軍」的な環境に身を置いていたように感じられる。

 加瀬ならではの夢遊病的な歩行がそのことを後押しする。物語の後半で瀬文は組織から離脱し、文字通り浮遊することになるが、そこでもアイデンティティが模索されることはない。彼は不明のアイデンティティを傍らに置きながら、闘うのである。瀬文がいつも手にしている紙袋はおそらくその証明だ。彼はそこに、彼自身見たこともない「魂」を隠し持ちつづけているのだ。

 便宜上定義されているキャラクターではなく、所作や表情から類推される人間の根源的テクスチュアに「触れたくなる」演技を、常に加瀬は見せる。たとえばその姿は、もう「命」のない者が「命」をかけているようにも思える。

 自分ではどうすることもできない感情を突発的、偶発的に爆発させた役どころとして忘れられないのが、伊勢谷友介監督の『カクト』である。伊勢谷は加瀬が演じた存在を「天使」と呼んでいた。

 浮遊する「魂」は、「オフ」の時空を生きるしかない。だから、せつないのだ。

 軍人にせよ、亡霊にせよ、彼らに求められるのは「無私」のたたずまいである。加瀬亮は自己主張から遠く離れて、「無私」のありようを決然と表出させている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?