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【短縮版】そして誰も正気でなくなった

 かつて、個性と呼ばれたものが、精神医学の進化と共に、様々な略語に姿を変えた。これらの略語はSNSで流行り、昔は個性とされた特性が、病名として扱われるようになった。

 この風潮に乗じ、人々はSNSで自分の精神疾患の診断結果を誇らしげに公表し始めた。『私はCNNだから集中できないのは遺伝子のせい』『BBCのせいで社交場に馴染めない』『NHKだから情緒不安定なのは仕方ない』と、診断結果をステータスとして掲げることが流行りとなった。

 この精神疾患略語ブームを見て取った一部のビジネスマンは、これを金儲けのチャンスと捉え、『精神疾患分析AIアプリ』を市場に投入した。このアプリは、『朝起きるのが苦手ですか?』『人混みが苦手ですか?』といった質問に答えることで、略語の精神疾患を診断するものだった。

 人々は自分を精神疾患の略語で定義することに奇妙な喜びを見出し始めた。これらの略語は新たな個性の証として受け入れられ、社会は略語に支配される時代へと突入した。ところが、この略語ブームの背後には、人々が望んでいないAI機能の影が潜んでいた。街角に設置された監視カメラは、単なる記録装置から、最新の表情認識や感情認識AIを備えた監視者へと変貌していた。これらのAIは、人々の微細な表情や行動を解析し、精神障害の可能性があると判断すると、直ちに警察や医療機関に通報するように設計されていた。

 通勤途中、スマホで見つけたジョークに思わず笑った人は、このAIによって『過剰な幸福感』と解釈され、『幸福過多症候群(OHS)』の疑いで収監されるよう警告された。『スマホに表示されたジョークに笑っただけ』という弁明も虚しく、AIのアルゴリズムは『そのようなつまらないジョークに笑うこと自体がOHSの明らかな証拠』と判断した。公園で悲しい映画の結末を思い出して涙を流していた人は、『公共哀傷症(PSS)』と診断され、社会から隔離され、あらゆる感情の表現が精神異常の兆候とみなされ続けた。

 これらの監視カメラとAIシステムの普及により、人々は『感情の自己管理』を余儀なくされた。喜怒哀楽は適切な場所と時間を選んで表現する必要があり、街中には『⚠️ 感情表現にはご注意ください。あなたは常に監視されています⚠️』と警告する看板が溢れ返った。

 人々はAIに『正常』と認識されるため、公共の場で無感情な顔をすることを余儀なくされた。街角では、まるでロボットのような無表情が新たな社会的規範となり、人間関係は感情を一切排除したものへと変化した。

 自分たちの感情を隠す技術を完璧に習得し、無表情が新たな社会的トレンドとして広く受け入れられるようになった。しかし、AI監視システムはさらに進化し、人々の微細な表情の変化や目の動き、スマートウォッチから得られる心拍数、ストレスレベル、睡眠の質、脳波、さらには血中酸素濃度まで検出し、精神状態の分析をより深化させた。スマートウォッチを忘れた人々は、『精神分析隠匿罪』の疑いで次々と摘発された。

 この完全監視社会では、AIは微妙な感情の波も見逃さず、人々の日常生活を徹底的に観察し分析し続けた。感情の自由が制限され、表情一つひとつまでもが監視される世界で、個人の内面までもが外部からの監視下に置かれた。

 公共の場での微笑みやため息、自宅の窓辺でのぼんやりとした表情さえも監視され、分析されるようになり、人々は精神疾患の烙印を恐れた。精神疾患と診断された者は、治療を受けるか、社会から隔離されるかの選択を迫られた。

 隔離された者たちは、『幸福回復センター』と呼ばれる施設に送られた。この施設は表向きはリゾートのように見せかけられていたが、実際には高い壁と厳重なセキュリティで囲まれた監獄であった。センター内では、笑顔も涙も、『治療』の名の下に厳しく管理され、感情の表出は厳しく制限された。

 一方で、街ではAIを出し抜く新しい手法が密かに流行し始めた。人々は『表情コントロール教室』に通い、AIを欺く微細な表情を作る技術を学んだ。『感情隠しメイクアップ』や『心拍数コントロールデバイス』など、AIの監視を逃れるためのアイテムが市場に出回り、人々は日常生活で感情を隠すことになった。そして、人々は疑問を抱き始めた。『本当に狂っているのは私たちなのか、それともこの社会なのか?』しかし、その問いに答えられる者は最早どこにもいなかった。

 この一連の出来事を通じて『正気』という概念自体が徐々にその意味を失い始めた。社会はこの新しい基準を受け入れ始め、異常と正常の境界線はますます不明瞭になり、かつての『正気』の概念は過去のものとなった。

 そして誰も正気でなくなった。

― 完 ―

自己解説

 本作のテーマである #監視社会 #精神分析 システムは、既に多くの思想、哲学、小説、映画、アニメで掘り下げられており、新鮮味に欠けます。然しながら、本作の執筆動機は、これまでの作品が主に概念的、または未来の出来事として描いてきたのに対し、現在では日本を含む世界各国で実際にこのようなシステムが運用され、日常化しているという現実に対する警鐘です。

 日本の #犯罪予測システム の発展は、かつては特定地域の犯罪発生率を分析し警備を強化する程度でしたが、最近になって行動予測や遺伝子に基づく犯罪傾向の予測など、より進んだ研究が盛んになっています。

 このような研究は一般に公開されることは少なく、警察庁などの研究予算の詳細に目を通さなければその全貌は明らかになりませんが、多くの学術論文がこのテーマで書かれています。

 また、厚生労働省や内閣府が発表するAIの社会実装に関するビジョンでは、老人介護を名目に感情認識や行動予測システムの開発と普及を目指したロードマップや研究予算が計上されています。

思想・哲学
#パノプティコンジェレミ・ベンサムが提唱した理想的な監獄の概念で、監視塔から囚人を一方的に観察することができるが、囚人は監視されているかわからない状態に置かれます。この概念は、現代社会におけるプライバシー侵害や自己監視の増加に関連付けられます。

情報のパノプティコン:デジタル時代の監視をテーマにした概念で、インターネットやデジタルデバイスを通じた絶え間ない監視状態を指します。

映画・テレビシリーズ
ブラック・ミラー:現代社会とその未来におけるテクノロジーの暗い側面を描くアンソロジーシリーズです。

マイノリティ・レポート:フィリップ・K・ディックの短編を基にしたこの映画では、未来の犯罪を予知し防ぐためのシステムとその矛盾が描かれます。予知システムによる監視と、それに伴う個人の自由の侵害がテーマです。

アニメ
#サイコパス (#PSYCHO_PASS):日本のアニメシリーズで、社会が人々の精神状態や性格を数値化し、犯罪係数として管理する未来を描いています。このシステムによって、潜在的犯罪者が事前に特定され、社会から排除さます。

書籍(映画)
ブレイブ・ニュー・ワールド:遺伝子操作、心理操作を通じて『完璧な』社会を描き、個人の自由や個性の喪失を警告しています。

1984:ジョージ・オーウェルが著したこの古典的小説は、全体主義的監視社会を描き、個人の自由や思考が厳しく制限される世界を描いています。"ビッグ・ブラザー"の監視のもとで、人々は常に見られ、コントロールされている。

華氏451度:書籍が禁止され、思考がコントロールされる未来社会を描いています。

 これらの作品群は、テクノロジーが人間の自由や個性にどのように影響を与えるか、そしてそのような社会が個人にどのような影響を及ぼすかを深く探求しています。それぞれが、テクノロジーと倫理、自由と安全、個人と社会の関係について重要な問いを投げ掛けています。

#武智倫太郎

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