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19. 住みたい街を探す旅、海外へ。大変革期。執着の手放し。運命の出逢い。

Silicon Valley、Burning Man- “May I help you?”が響く優しい空間。

この年が人生において大きな分岐点となったことは、まわりで見守ってくれている人の多くがご存知かもしれない。ある日、元気がなかった私に友人が声をかけてくれた。彼のお誘いに乗り、ずっと行ってみたかったIT企業のメッカ Silicon Valley へ遊びに行くことに。その当時最も仲が良くはじめての異性の親友、超親日家の元起業家であった彼は趣のある entertainer で、San Francisco International Airport(SFO)でおちゃめなボードを手に出迎えてくれたり、本社出張の合間を縫っては彼の地元や出身校を魅せてくれたり、美味しい食を味わわせてくれたり、週末にはワイナリーで有名な Sonoma に連れて行ってくれたりした。本当に愛おしい。この旅がなければ、今の私はないであろうと確信しており、彼には多大な感謝をしている。いつか台湾に行って御礼をしたいな、彼が夢中になっていることに耳を傾けながら、一緒に笑い合いたいな。

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この旅ではいくつか運命的な出逢いに導かれた。ひとつめは、知る人ぞ知る Burning Man への参加。SFO に着いた瞬間、いただいたメッセージに飛び上がってよろこんだことを覚えている。可愛がってくれている友人から「チケットが手に入りそうやけど、どうしたい?」との内容が。実は、日本を発つ数時間前、定期的に参加していた勉強会でご一緒した彼が Burning Man の話をしていた際、「もしチケットが入ったら、行かせてもらいたいです!」と懇願していたのだ。元同僚で伝説の先輩でもあった彼には三年前から依頼していたが、Burning Man は過酷ゆえに「生半可な気持ちだと連れていけない」と何度もお断りをいただいてた。数年越しに導かれたとしか言いようのない機会に、「Yes !!! 今からすべてを揃えるのでご一緒させてください」とお願いし、一週間後に参加することに。(2013年頃、こちらの作品に惹かれ、参加したいとおもいはじめたのであった。)

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実は、西海岸から憧れの New York、その後、日本に帰る航空券を既に取っていてキャンセルもできない状況ではあったが、背に腹は代えられない。キャンプのキの字も知らない私は、現地の友人に手を差し伸べてもらい、テントや服、何から何まで必要なものを見知らぬ地 San Franciscoで用意。新たに航空券を購入したり、様々な調整を経て、現地 Reno, Nevada にて待ち合わせ。そこには、写真家の友人と DJ のお坊さん二人が笑顔で待ってくれていた。なにもない砂漠で十日生き延びるための食料や水を用意し、いざ出発。

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30年間の歴史があり、今では世界中から約70,000人が集うアートイベント Burning Man。ひとりひとり、感じることは異なるであろう。ある人は桃源郷のように感じ日常に戻っても忘れられず、ある人はあまりの異空間に恐れ慄き受け止めきれず車から出てこれないこともあるらしい。Burning Man に参加する人の多くは、毎年のこの日のために“当事者として”準備を重ねているようだ。「Burning Manってどんな場所?」と聞かれることがこれまで何度かあったが、お答えするのは誤解を招いてしまう可能性があることで、むずかしく感じている。何事でもそうだが全体を捉えるのは容易ではなく、捉えているように感じてもそれはあくまでも一部のみを認識しているに過ぎないからである。初心者であった私はなおさらに、体感したことを当時の言葉そのままで述べたいとおもう。

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妖精たちが自分の心を解き放ち、全身から溢れ出る鮮やかな光で、砂漠という白いキャンバスを愛と美で彩る。まるでおとぎ話の国。 “May I help you? ” “My pleasure. ” が自然と口癖になるほど優しい空間。“The World would rather hug you than hurt you. ” 中でも素敵な言葉に出会えた。多くの人を、その人が持つ弱さをhugで包み込みたい。弱くていいんだよ、自分だけは認めてあげて愛せさえすれば。あなたが愛せないならわたしがめいいっぱい愛すよ、って伝えたいな。

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言葉にするのはとてもむずかしい。言語化するならば、人間(Man)の心にある何かを自分自身で Burn させることができる Tranceformative な空間かな。私の心に既にあったものが溢れる空間だったのでとても居心地が良かった。到着直後からひとりでまわって多くの人と親しくなれたほど心底楽しめた。でも、だれかを誘うことはしないし、もしだれかが行きたいと言っても一緒に行くのはむずかしい。幸せの形は人それぞれ異なるから楽しみ方も異なる。おすすめはしないけど一言添えるとしたら、行きたいと思うなら行ってみるための行動を全力でしてみてほしい。そしたら道は開けるはず。もし開かなければきっと「今」ではないってことなのだとおもう。素敵な人や物語に出会えた旅であった。私を導いてくれた友人や、現地で出逢えた多くの人々、30年間 Burning Man を運営してくださってる方々、笑顔と愛を向けてくれたその心の優しさ美しさにありがとう。またどこかで導かれるように逢えると信じて。

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もう一度行きたいか? と問われれば、今はそうおもわないとお答えする。2016年以降、もう一度行きたい!とおもったことはなかった。四年前に書いている言葉が我ながら本質的で驚いているのだが、そう、私にとってあの空間の特別さは日常にあった。自分の心の蓋を開けた時に出逢える景色であった。だから、その空間に行くことで得ようとするのではなく、自分が常にそう在るよう環境をつくっていこうとおもうのである。また、夜を愉しむ人が多かったが、私は日暮れと共に寝て、まだ暗い時間から美しい朝焼けを眺めることに最大のよろこびを感じていた。人の内にある純粋な美しさに魅せられて、ただ美しい時間を過ごした十日間。一度連れて行ってもらった夜のお出かけ中もすぐに寝て、ひとり眠い中、だだっ広い砂漠の中をとぼとぼと歩き続けているのを覚えている。

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Burning Man には、The 10 Principles があり、その内のいくつかに共鳴し、惹かれている。RADICAL SELF-EXPRESSION(本来のあなたを表現する)、RADICAL INCLUSION(どんな者をも受け入れる共同体である)、GIFTING(与えることを喜びとする)、IMMEDIACY(いまを全力で生きる)、COMMUNAL EFFORT(隣人と協力する)、これらは私がこれまで大切にしてきた鍵でもあるなあと感じながら。

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“無期限”で住みたい街を探す旅“Art of my Heart”をはじめる。

Burning Man を終えて帰国した日、渋谷駅に着くとすぐに違和感を覚えた。あ、ここじゃない感。今すぐに California に戻りたい!と心が叫んだ。実は、山手線で立っていられないほど心身ともにくたびれ、品川駅のサラリーマンスーツの行列を眺めては鬱々としていたときから「東京は私が住みたい場所ではない」と確信していた。そんな折、親友が誘ってくれて、急遽 California へ向かうこととなる。すべてが導かれるように、トントントンと事が進んでいたのだ。「よし!次は、“無期限”で住みたい街を探す旅“Art of my Heart”をする!」と決め、元々予定していた京都での束の間の癒し旅行を終え、成田に帰ってきた四日後には成田から西海岸に飛んでいた。当然ながら、両親は驚き呆れ理解に苦しんでいた。それもそうであろう、本人ですら急展開を認識していたのだから。

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人生二度目となるアジアバックパック旅を春に終えていたこともあり、ざっくりとアジアと表するのは恐縮ではあるが、当時はアジア圏には住みたい街候補が浮かばなかったため、アメリカとヨーロッパを中心に回ることを決めた。大変お恥ずかしいのだが、当時の私は田舎に住むという選択肢がなかった。具体的には、車がないと生活できない地域で生活することは考えていなかった。小学生の頃に母が自動車事故にあってからは、どこへ行くにも家族全員で自転車で動いていたため、車のある生活というのが案に上がらなかったのである。これまで大阪や京都、東京に住み、何度か訪れた名古屋や福岡はピンときていなかったため、日本以外で探すことを決めたという経緯であった。物への執着が既に薄まっていたのあろう。持っているものはなんでもシェアしちゃおう!とおもい、服でも部屋でもお好きにどうぞと公開していた。実際に、旅で不在の間に、Airbnb 気分で何人かが泊まりに来てくれたり、服も貸し出ししていた。

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前日か二日前に航空券を購入しあまりにも高かったためか、Seattle でトランジットになる飛行機に。今おもえば当然なのだが、入国管理のカウンターで捕まった。「あなた、四日前にアメリカを出て、なぜまた来たの?」と。そりゃそうだ、冷静に考えると非常に怪しい。その上、無知で阿呆で native speaker が話す英語の聞き取りがむずしい私は、最も不適切な回答をする。「アメリカが気に入ったから。え、だめなの? 何を聞かれているかがわからないよお、怖いよお。」という感じで半泣き状態。別室に連れて行かれ、持ち物から服から確認を受ける。私が嘘をついているようにおもえなかったからか、見るからに怪しくなくただ単にアメリカに夢中になっただけだと捉えてくれたのか、日本好きの管理官が現れて助けてくれた。San Francisco 行きの便に危うく乗り遅れそうになっていたが、私を止めざるを得なかった女性も含め、がんばれと言わんばかりにみなが拍手で送り出してくれたのを覚えている。アメリカとイギリスにおける入国審査は非常に厳しいので、しっかりとご準備されることをおすすめします。

最愛のパートナーである“SOUL MATE”との出逢い。

実は、先の Silicon Valley での滞在では、もうひとつ、というよりは人生最大級の出逢いがあった。San Francisco から南に車で約30分に位置する Palo Alto は、Google や Apple、Stanford University など、世界の智が集う地。当時ミーハーであった私が興奮気味に世界一の検索企業を訪問後、友人を待っている間、近くにある Blue Bottle Coffee でひとりのんびりしていた。私を知っている人がだれもいないオープンな空間は居心地が良く、ありがたかった。そのとき、隣りに座っていい? と尋ねてきた男性がいた。後に彼が伝えてくれたのだが、要はナンパで、入り口で私を見つけて隣に座ろうとおもって話しかけたとのことであった。今となっては、見つけてくれてありがとうと彼に深く感謝している。

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笑顔で話しかけてくれ、来日時にたのしんだお好み焼きやメロンソーダの写真をうれしそうに見せてくれる彼。親日家であるようだ。英語を話さない期間が二年ほど続いたことで英語力がまた落ちていた中、native speaker の話す英語はあまりにも難易度が高く、戸惑う私。警戒心が強い上に、アメリカならではの Super Friendly Communication に全くついていけず、かつ関心もなかったため、適当に相槌を打っていた。日本に行った時に逢おう、連絡先を教えてほしい的な流れになり、え、と再びためらう。誰かわからない人に連絡先を教えられないよとおもい、、とりあえず Facebook で調べさせてもらうことに。まさかのまさかで、私がとても敬っていた西海岸在住のスタートアップ投資家が共通の友人に出てきたので、なぜ? と問うと、僕の会社に出資してくれているんだ、僕は起業家なんだ、とのこと。危ない人ではないんだと一安心。当時の私は、本当に小さき器であったなとおもう。日本人相手であれば五分も話していればわかることが多いが、対日本人以外の場合は人となりを認識することがてんでわからなかった。とりあえず Facebook でつながったものの、どうしていいかわからず私はその場を離れた。そして、まさかで再び California に戻ってきた私は、彼からの熱烈なアプローチを受け、再会することとなった。

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(彼との出逢いからの直近四年間は、海外での暮らしが八割ほどを占め、非常に変化に富む濃厚な日々に。引き続き、“Art of my Heart” を、トランプ政権誕生頃から U.S. と Japan を行き来しながら、日本ではサイハテ村や鎌倉、因島、岐阜など各地を訪れたり、災害ボランティア活動をさせてもらったり、Schumacher College in the U.K. にて Economy Science を学びに行ったり、Earthbag House Building Project に参加したり、Vipassana Meditation に出逢ったり、友に逢いに+Yoga を極めに India に二年連続計四ヶ月滞在したり、China で彼と現地集合現地解散旅行したり、 Germany に友に逢いに行ったり、一ヶ月半山籠りしたり、、まだ記しはじめてもいないが、いつかまたみなさんにお伝えできればと願って。)

お気持ちを添えていただけたこと心よりうれしく想います。あなたの胸に想いが響いていたら幸いです。