リトルマーメイドが黒人だということについて/私の考えるポリコレ論

「黒人が握ってる寿司って、食べたくないなって思いました」

彼は車の運転をしながら言った。
この人は相手が男だろうが女だろうが合意無しで触ってはいけないだとか、親子でもスキンシップには節度を持つべきとか、いろんな感覚がおじさんのわりにはちゃんとしている人だと思っていた。実際、私と21歳の歳の差の中で価値観が大まかに合ったので仲良くして居た。
だが、ふと「リトルマーメイドのアリエル役が黒人なことに賛否両論らしい」と話題を振った時に返ってきた言葉だった。彼は続けた。
「イメージってあるじゃないですか。例えば、京都の寺の中に、あれがあったら(ぎらぎら光る大安売りのスーパーマーケットを指さして)嫌だなって。それと同じで、アリエルは白人のイメージなんですよ」

この後、私があからさまに引いた様子を見せたことで「おじさんの古臭い考えだし、今は誰が握っていても美味しければ食べます。だけど、昔はそう思っていた」と弁解をされて話が終わったのだが、家に返ってきて伝統文化とポリコレについて考えている。

例えば、こちらのツイート。


このように時代によって物語を改変していくということは現代にもあって、少し意図は違うが私が知っているかちかち山はタヌキがおばあさんをぶっ殺してばばあ汁にした挙句ざまあみろ!なんて言うものだから、怒ったうさぎがタヌキの毛をはぎ皮をはぎ、からし味噌をぬりたくって泥船に沈めて復讐をかますという話だったわけだが、現代になってからだと残酷すぎるという理由でばばあは一命をとりとめ、泥船は沈まずたぬきは謝罪して終わる。

というのも、今は昔よりも残酷なことが手軽にできるようになった。
たしかに、昔も罪人を町中引きずりまわしてみたり、木にくくって石をなげてみたりということはあったかもしれないが、昔は石を投げられるのはその場にいた人だけだったし町中引きずり回せたのは権力者だった。
だが今は、インターネット一つで真偽も知らぬ人間が石を投げるのと同等の行為をできるし、ボタン一つで永遠に顔や黒歴史を拡散できるようになった。たった一人の力、たった一つの火種で面白いほど燃え上がる。

だから残酷な精神が育たぬよう改変されたのだろうと思うが、この物語の大筋かつ伝えたいことである「悪いことをしたら自分に返ってくるからやめとけ」という教えは継続されて書かれているので良いのだ。(逆にうさぎやりすぎ感出てきてるけど)

じゃあリトルマーメイドはどうだろう。ディズニーのリトルマーメイドが伝えたいことは「愛の尊さ、勇気、元気」なんじゃないだろうか。
アリエルが黒人になったからといって、元気がもらえないストーリーだろうか。
アリエルが黒人になったからと言って、途端に愛は尊くないものになるだろうか。
アリエルが黒人になったからといって、その勇気は無かったことになるだろうか。
いや、別に黒人になったからといって愛も勇気も元気も希望でさえ消えはしないのである。

伝統文化である京都の寺の中にギラギラ光るスーパーマーケットがあってはならないのは、それは私達の良い歴史や遺産となるものを後世のために守る意図があって、いわばカチカチ山でいう「悪いことをしたら返ってくるよ」という教訓を消してしまっているようなものだからだ。
だがアリエルが黒人ではだめだというのは、悪しき固定概念の継承だと思っている。カチカチ山のたぬきが狐でうさぎが猿だったところで、話の流れが変わらない様に。

黒人が寿司屋をやろうが美味い寿司を握ってくれれば構わんし、桃太郎が茶髪で描かれても悪い鬼を倒してくれれば話は変わらない。要は双方伝統文化の継承とポリコレを守ることが反比例することはないのだ。

特撮は男の子のものだとか、女が家事をするべきだとか、同性婚は生産性がないだとか騒がれる世の中で、まず自分が「これがこれでなければいけないと思っているのはなぜなのか」や「本当にそうか?」と考えてみるのはどうだろうか。
一人一人が考えることで、いまよりももっと沢山の人が幸せになれる世の中が作れるはずだ。