砂の惑星とデブリの海ー初音ミクの行く先など誰にもわからない

はじめに、私はnote初心者である。なのでnoteの機能がよくわかっておらず、読みづらいのは先にお詫びしておく。自分はふだんTumblrでブログを書いている(Tumblrで長文を書く人間は珍しいかもしれない)のだが、とある記事を読んで反論するためにわざわざnoteのアカウントを作った。

はじめに

私たちは初音ミクを愛していたのか?——彼女と私とインターネットについてhttps://note.com/ukiyojingu/n/n49a438b1fc4e

2年ほど前の記事である。言いたいことはわかるものの、内容には同意しかねる部分が多数あり、どう反論するか自分の中で考えていた。気づいたら2年経ってしまっているが、思いついたときが書き時と思っていま書いている。

引用記事の筆者ukiyojingu氏は、自身もボカロPであるという。内容を強引にまとめると、初音ミクは2010年代初頭にはユーザーたちを「接続」していく役割を担っており、それは「Tell Your World」に歌われている。一方で大震災のおりに日本は分断を強いられ、接続は困難になった。以後、「ODDS & ENDS」で新たに再接続しようとする試みもあったものの、やはり分断が進み、もはやユーザー間の接続など不可能になってしまっている。そして2017年に初音ミク10周年記念のマジカルミライテーマソングとして発表された「砂の惑星」は、ボカロシーンを文字通り砂の惑星に例えている。この頃から初音ミク自身とユーザーの二者関係を歌うものが増えており、その代表が「愛されなくても君がいる」である。もはや初音ミクはユーザーの接続を断念したかのように見える。今後ミクが新しい方向性を提示できなければ、そこに残るのは砂の惑星しかない。
かなり雑なまとめで申し訳ないが、概ね主旨は間違っていないということにして反論を試みたい。

震災と社会の分断

まず震災で社会的な分断が進んだのは事実である。たとえば原発をめぐる議論では現在も社会がまっぷたつに割れており、現在は電力不足を景気に再稼働か否かで揉めている状態だ(使用済み核燃料の問題もまったく進んでいない)。震災直後、東浩紀が「震災で僕たちはばらばらになってしまった」と書いているように、震災を契機に社会的分断が進んだのは事実である。現在でもTwitter界隈の意見対立はかなり深刻である。とはいえ、これは日本だけのことではなく、むしろ世界的に起きている分断が、震災を契機に日本でも表面化した言うべきだろう(そしてそれはコロナにより加速した)。
しかし、震災ののちボカロシーンにおいても「接続」が困難になったかというと疑問がある。
確かに現在、ボカロシーンも多様化しており、みんなが同じ曲を聞くという現象は少なくなった。90年代頃までの日本の音楽シーンを基準に考えれば、ゼロ年代以降の国民的ヒット曲が減った状況は音楽の衰退と受け取られるだろうし、ミリオンが減った2014年頃のボカロシーンも同様に衰退したと受け取られるかもしれない。
しかしたとえばアメリカでは、少なくとも80年代あたりには「誰もが聞いているような国民的ヒット曲」というのはなかなか出現しなくなっていた。これは音楽賞を見ればわかりやすいのだが、たとえばアメリカン・ミュージック・アウォードやグラミー賞などを見ると、ポップ、ロック、カントリーなど細分化されたジャンルのそれぞれに対して賞が設定されている。このことは、アメリカの音楽が細分化しており、それぞれの音楽ジャンルが島宇宙化していることを示している。
島宇宙化は宮台真司が90年代の日本を批評する際に使った言葉であるが、大きな物語(リオタール)が消失し価値観が多様化する中で、社会が一つの塊としてではなく、それぞれの人間が自分の価値観と合致するコミュニティに引きこもっている現象を指している。実のところこうした現象は海外で先行して起きていたことであり、日本は遅れて島宇宙化しただけである。そして、日本の音楽界が島宇宙化したのが90年代末~ゼロ年代だったということだろう。
そして、ボカロシーンでも同じことが言える。黎明期にはそもそもボカロシーンが小さく、細分化することが不可能であったが、2011年頃から細分化が始まり、結果としてミリオンが出にくくなったというのが実態だ。さらに言えばこの時期からボカロシーンの中心がニコニコからYoutubeに流れており、ニコニコでミリオンが出にくくなるのは必然だった。しかしYoutubeの再生数は文字通り桁違いで、実際にボカロ曲が聞かれる回数としては基本的に増加傾向である。したがってボカロシーンが衰退したわけではなく、アメリカの音楽業界や日本の音楽業界と同様に、島宇宙化していっているというのが実情である。
では、島宇宙化をもって「分断している」と言えるかというと、状況は若干異なっている。繰り返しになるが、島宇宙化は20世紀後半に起きた価値観の多様化を意味している言葉であって、21世紀に生まれたボカロシーンにも遅れてそれが訪れたと言ったほうが適切である。したがって、震災後の日本社会やTwitter、トランピズム以後のアメリカで起きているような、21世紀的「分断」とは意味合いが異なっている。

初音ミクが「接続」したもの

もう一つの論点として、「接続」の解釈の問題がある。ukiyojingu氏が指摘するように、初音ミクは確かにユーザー間を接続する役割を担った。しかしukiyojingu氏は「接続」という言葉を、単にユーザーの一体感として解釈しているように読める。その一体感が失われたという意味であれば確かに、ボカロシーンが「分断」したと言えるのかもしれない。しかし、初音ミクが「接続」していたのは単なる一体感ではない。ukiyojingu氏が参照したTell Your Worldを本稿でも参照する。

たくさんの点は線になって
遠く彼方へと響く
君に伝えたい言葉
君に届けたい音が
いくつもの線は円になって
全て繋げてく どこにだって

ここで歌詞だけを見れば、初音ミクが「繋げ」ているのは、ukiyojingu氏が解釈するようにユーザー間のつながりということになるだろう。しかし注意すべきなのは、GoogleがCMで流した際のPVに登場したのは、MMDで使われていたユーザーモデル「Lat式ミク」であったことだ。
初音ミクが生まれた直後から、ニコニコ動画には初音ミクを3DCGアニメーションで動かそうとする人々が多数現れた。その中で、プログラマーの樋口優氏が比較的容易にミクを踊らせることができるソフトMikuMikuDance(MMD)を開発し、これが爆発的に流行した。人気ボカロPの新曲が投稿されると、これに振り付けをつけた「踊ってみた」系の動画が投稿され(厳密に言えば踊ってみたの起源はハルヒダンスあたりと思われるがここではさておく)、さらにそれをモーショントレースしてMMDのモーションに置き換える投稿者が現れ、MMDのモデルも次々に増加し、ステージやエフェクトも制作された。これらはおおむねクリエイティブ・コモンズ的な感覚に沿って(明確にクリエイティブ・コモンズを理解している人間は少なかったとはいえ)二次利用が許容されていたから、既存のモデル、モーション、ステージ、エフェクトを選んで調整することで、誰でも初音ミク(およびミク以外のボカロ、少数ながらNNI)のミュージックビデオを作れるようになり、のちに有志によりMMD杯というイベントが開催されるに至った。MMD杯そのものは運営が衰えて先細っていったが、別のMMDer有志がMMD杯ZEROを開催している。
このようにボカロシーンでは、「引用を繰り返すことで少しずつ表現が充実していく」という独特の文化圏が誕生した。もちろんその文化圏にはukiyojingu氏も触れている「歌ってみた」や、イラスト投稿サイトで初音ミクを描いている絵師たちも含まれるわけだが、これらの二次創作、三次創作などを総称して「n次創作」と呼ばれる。そして「n次創作」が拡大していく様子は「創作の輪」と呼ばれることになった。
前述のように、Tell Your WorldのMVには、当時MMD界隈で人気絶頂であったLat式ミクが起用された。これはつまり、この楽曲の歌詞に現れる「円」とは、「n次創作がつながった結果としての創作の輪」そのものを歌っていると解釈すべきだろう。初音ミクが繋げていたのは、ボカロPや歌い手だけではなく、ミクの絵を書く絵師、振り付けを作る踊り手や、モーショントレーサー、モデラー、エフェクト製作者その他、そしてそれらを統合して一つの作品をディレクションするMMDerまで含むすべてのクリエイターなのである。
そして現在、「歌ってみた」動画はフィールドを変えていまなお投稿されているし、PixivやTwitterを見ればミクのイラスト投稿数は全く衰えるところがない。MMD動画の投稿は全盛期に比べると減ったものの、現在もプラグインが作られ続けており、高品質なMMD動画が作られている。したがって、総合的に見れば「n次創作」「創作の輪」は普通に継承されている、というよりも一般化してしまったためにことさらに言及されなくなったと言うべきだろう。
よって、初音ミクが「接続」を諦めた、という議論はそもそもの出発点から誤認を含んでいる。

じんという異物

もちろん、ユーザー生成型コンテンツや「n次創作」や「創作の輪」というクリエイターの楽園は、この16年間にわたって順風満帆だったわけではない。その中で最も大きな危機をもたらしたのは、他ならぬカゲロウプロジェクト(カゲプロ)であったと私は考えている。
カゲプロは初出時からハイクオリティなイラストやアニメーションをつけて投稿されることが多かった。カゲプロを始めたじん(自然の敵P)は、以後も続々とヒット作を生み出し、週刊VOCALOIDランキング(現在は週刊VOCAL Characer & UTAUランキング)の上位を長年にわたって独占しつづけた。極端な時は、じんの曲が全てぼからんにランクインし続けた時期もある。じん以前のぼからんの時点で、いわゆる「門番」と呼ばれる曲が存在していたことは確かだが、ひとりのボカロPの曲がすべてランクインというのは前代未聞だ。そしてプロジェクトの終了から1,2ヶ月後、じんの曲は風のようにランキングから消えた。
当時の私はうまく言語化できなかったものの、かなり違和感を持って見ていた。ぼからんの中でもかなりネガティブなコメントが出ていたので、同じような違和感を感じていた人は多かったのだろう。しかしデビューまでの流れを見てみると、その違和感の正体が明らかになった。
参考(リンク切れ):1st PLACEの村山久美子社長と平行四界の李迪克CEOにインタビュー
http://www.vocaloidnews.net/ja/1st-place%e3%81%ae%e6%9d%91%e5%b1%b1%e4%b9%85%e7%be%8e%e5%ad%90%e7%a4%be%e9%95%b7%e3%81%a8%e5%b9%b3%e8%a1%8c%e5%9b%9b%e7%95%8c%e3%81%ae/
そもそもじんは、当初は初音ミク等で曲を作っていたが、ある時1st placeが新たに作ったVOCALOIDライブラリであるIAのモニターを依頼された。以後、じんはアマチュアという体裁でIAを中心としたボカロ曲を発表し、その後メジャーデビューする。この過程について詳しくは語られていないが、上の記事によれば、1st placeの村山社長はじんに対して、プロのミュージシャンによる指導を入れたし、マーケティングやプロモーションも「当然」やった、とのことである(リンク切れなのが残念だが1st placeの社長が明言していた)。したがって1st placeは、途中までは「じんはアマチュアである」という体裁をとりつつも、実質的にはメジャーデビューを既定路線として、ボカロシーンの中でじんを育てていたというべきだろう。さらにアニメ化書籍化という定番のメディアミックスを行い、プロジェクトが終わったあと、じんはボカロシーンから離脱した。
こうした流れは、2007年からボカロシーンを見てきた私のような人間にとっては異質であった。そもそもボカロ黎明期のボカロP(たとえばOster ProjectやワンカップP)やMMDer(たとえばアイマスMAD出身のわかむらP)たちは、新作を投稿したところで一銭にもならないし、それがプロデビューのための踏み台になるとも思っていなかった。何しろボカロPからプロになるという道がまだなかった時代である。それゆえ、当時投稿されていた音楽は、経済利益ではなく「表現」そのものを目的とした純粋な表現活動であったと言って良い(承認欲求を得られたとしても、現在とは意味も規模も違う)。その後、ryoや黒うさがメジャーデビューし、そこにボカロ踏み台論や嫌儲が絡んでたびたび炎上したものの、以前からのファンは、ボカロPとファンがゼロから作ってきたボカロシーンの中から、ボカロPがメジャーデビューしていくことを基本的に祝福していた。そもそもボカロシーンはプロお断りではなく、「プロもアマも関係なく平場で勝負する」という世界だった。このことは、菊田裕樹(もとスクウェアの作曲家)や小室哲哉が初音ミクに歌わせてもさほど評価されなかったことから明らかだろう(個人的には二人の才能が完全に枯れたことを実感して衝撃を受けた)。一方で、以前からプロミュージシャンだったがあえて名を出さず、あくまで一ボカロPとして活動し人気を得ていたシグナルPは、本人が重度のリン廃であることが広く知られており、ボカロシーンを利用するどころか、むしろ手弁当で初期ボカロシーンの形成に貢献したことになる。
しかしじんと1st placeは、ボカロPからメジャーデビューという流れが見えてから動いている。1st placeには、初めからボカロシーンをじんのプロモーションの場として利用する意図があったと考えるべきだろう。
このあたりはryoや黒うさ、あるいはシグナルPとはスタンスが異なる。彼らは自身がボカロシーンを作り上げてきた立場であるが、じんは後からそれを利用したように見える。それにもかかわらず1st placeの社長は前述のインタビュー内で、「調教の技術など含め、プロが介入しなければUGCが廃れてしまう」という内容(リンク切れのため記憶に頼っている)を語っており、私は当時このインタビューを読んで「人が作った道に後から参入しといて何を偉そうに」と激怒したことをよく覚えている(本当にブチギレていた)。この感慨は、おそらくじんからボカロに入ったボカロファンには理解しにくいだろう。現実問題として、じんのファンは当時の小中学生程度の年齢層であり、それまでボカロを聞いていた層(大学生~かつてDTM小僧だった大人)たちとは明らかにリスナー層が違っていた。その意味でじんは新規ボカロリスナーを開拓したという功績もあるのだが、彼らはじんのデビューと同時にボカロを聞かなくなった(ぼからんのランクイン閾値が露骨に下がったことから)から、本当の意味でボカロシーンを拡大したと言っていいのかは疑問が残る。
そもそも、2007年当初のボカロ界隈は、メジャーの音楽シーンに飽き飽きしている人間たちが多く集(つど)っていた。当時のメジャーシーンでは、レコード会社のプロデューサーが、売り出すと決めたミュージシャンのプロモーションを広告代理店に依頼すると、テレビや雑誌やラジオその他のメディアで露出を増やし、売れていなくても「売れている」と喧伝し、それを刷り込まれた大衆が実際に買って本当に売れてしまうーーそういう「ブームの捏造」が当たり前になっていた。最近でもタピオカミルクティーやマリトッツォで同じようなことが行われている。その究極系が奇しくもミクと同時期にデビューしたAKBファミリーである言えよう。しかし、そういった音楽に対して反発するマニアックな層が飛びついたのが初音ミクであった。
初音ミクを開発したクリプトンの社長である伊藤は、若い頃バンドをやっていたが、自分の才能に見切りをつけて大学事務をやっていたという経歴をもつ(「音の同人だった」――「初音ミク」生んだクリプトンの軌跡https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0802/21/news015.html)。伊藤はインタビューの中で、才能のある人間が北海道から上京し、夢破れて戻ってくる姿を見て、当時の音楽業界に疑問を持っていたという。同時に、音楽をやるために人生を賭けなければならないという風潮や、失敗したら仕事の吸収率の高い20代を棒に振るためその後の人生がかなり厳しくなることを問題視し、それよりも仕事をしながらアマチュアとして活動し、人気が出たらデビューするような仕組みのほうがいいのではないかと語っている。このため、クリプトンはアマチュアクリエイターの支援のためにピアプロという共有サイトを持ち出しで立ち上げた。これこそがまさに「接続」であった。クリプトンの姿勢はあくまで無名のクリエイターを支援するためにある。そうした無名のクリエイターたちもまた、自らの持ち出しでボカロシーンを作ってきたのだ。
それに対し、1st placeはマーケティングやプロモーションといった、既存の音楽業界の手法と論理、そして資本を全面に出して参入してきた。つまり、音楽事務所やレコード会社と同じ「投資したぶんを回収しようとするのは当たり前」という資本の論理である。言い換えれば、事務所の金を使ったマーケティングやプロモーションを施し、「プロもアマも平場で勝負する」というボカロシーンの不文律を破った。そういう経緯から見ると、すでに出来上がったボカロシーンに後から入ってきてプロモーションに利用し、「投資を回収」し、それが終わるとさっさと姿を消した1st placeに対し、古参が反感を感じたのも理解いただけるだろうか(補足しておくと、IAのエンジンはCeVIO AI版が出るまでVOCALOID3のまま更新されなかった)。
もう一つのカゲプロの悪影響として、はじめから高品質なPVをつけなければそもそも再生数を稼げないという現象が発生した。PVつき作品はそれ以前にもあったが、まだ少数であった。しかしカゲプロの流行あたりからシンプルな一枚絵の動画は再生数を稼げなくなった。要するに、PVなし(楽曲そのものの力だけ)ではランキング上位に食い込めない状況が生まれたのだ。はじめからアニメーションPVがついていた動画に対しては、当然ながら踊ってみた動画やMMD動画が作られにくく、「n次創作」界隈は落ち込むことになる。同時に、ぼからんの上位には企業案件とおぼしき動画が多数出現した。つまり前述したようなマーケティングやプロモーションがなければ再生数を稼げないようになった。すなわち、「n次創作」や「創作の輪」を弱体化させるきっかけは、じんや1st placeであったと私は考えている。
誤解のないように付け加えておくと、じんの音楽的才能が卓越しているということについては特に異論はない。問題は1st placeのビジネスモデルが、じん以前のボカロシーンのあり方から見て異質だったということである。

「創作の輪」はなお続く

とはいえ、初音ミクが一度火をつけた在野のクリエイターたちの創作意欲は滅びたわけでもなく、以後もくすぶり続けた。ボカロ曲の再生数は減少していたが2014年頃には底を打っており、動画投稿数そのものは2017年に底を打って回復していったことがニコニコの統計(ニコニコ動画的ボーカロイドの歴史を“970,686本の投稿動画”とともに振り返ってみたhttps://news.nicovideo.jp/watch/nw8598369、およびshibacowのブログhttps://shibacow.hatenablog.com/entry/2019/08/25/204656)で明らかになっている。また前述のようにMMD動画や歌ってみた動画も投稿され続けた。
ミク10周年の2017年は凄まじい盛り上がりを見せ、ミクの完全復活を印象付けた。同年のマジカルミライのテーマソングは、ukiyojingu氏が言及したようにハチ(米津玄師)の砂の惑星であった。有名Pたちがデビューしたあと、閉塞感が漂っていたボカロ界隈を痛烈に批判したこの曲は大いに話題になった。しかし、ボカロシーンを見てきた人間からすれば、砂の惑星の歌詞には全く説得力がない。これに関してはくらげPのインタビューが最も正鵠を射ている。一部だけでも長いが引用する。

以下引用
──話は少し戻りますが、「ボカロシーンは衰退しているとは思わない」と言う和田さんから見て、最近のシーンはどんな面が面白いと思いますか?

昔と比べて特別何かが変わったというのは特にないです。今も昔と変わらず、新しい人たちが次々に出てきて面白い作品を作り続けている。僕はハチさんが投稿した「砂の惑星」を聴いて、彼が音楽ナタリーでryoさんと対談したのを読んで(参照:初音ミクの10年~彼女が見せた新しい景色~| 第1回:ハチ(米津玄師)×ryo(supercell)対談 2人の目に映るボカロシーンの過去と未来)、そこで話していることに正直めちゃくちゃ怒ってたんです。

──ニコニコ動画を「すでに廃れた砂漠」と例えた歌詞のことですね。

はい。「ここ最近シーンにいなかった人が急に戻ってきて、なんで知ってるふうなことを言うんだろう?」「僕のことは置いておいて、ナユタン星人、バルーン、n-buna、Orangestarみたいなこの数年のシーンを支えた人たちも“砂”だって言うのか?」って、ものすごく頭にきちゃって。それにあの曲が発表されたことによって、2014年頃に内輪で言われていただけのボカロ衰退論を外側の人に知らせることになって、「ボカロは時代遅れ」という呪いのようなイメージをたくさんの人に植え付けるんじゃないかって心配になったりもして。

──なるほど。

でも自分の中でよく整理してみて、「別にあの曲で変わることなんてなんもねーな」って結論になりました。さっき「ボカロシーンは今まで何も変わらなかった」って話をしましたけど、ソフトを買えば誰でも始められるボカロは来るものをまったく拒まない懐の深さがあるし、衰退していると言われていた時期もすばらしい曲はどんどん作られてきたので、今後も面白い人が登場してシーンはなんの問題もなく続いていくと思う。ボカロは10年前からずっと、苦手な人はまったく受け入れられないものだったし、今更外部の人から「オワコンだ」って言われるようになっても作品の質に影響が出るとは思えないです。まあ、外からのイメージが悪くなったらメジャーデビューする人は減るでしょうけどね。

──そうでしょうね。

でもそれも、2012年みたいな“レコード会社による乱獲”が起こらなくなるだけのことで。僕からしたら2012年の状態が異常だったと思うんです。あの頃は「本当に面白い人が世に出ていく」という当たり前の流れにとどまらず、よくわかってない大人たちが「今ボカロがすごいらしいぜ」みたいな感じで余っているボカロPをとにかく拾いまくる、みたいな事態が起こってたので。ボカロシーンは特殊な界隈だから、正しく理解できてない人には得体の知れないものにしか見えないんです。だから世間から「今ボカロがすごいらしいぜ」っていうイメージがなくなると、ブームに乗ろうとしていただけの人は去って、理解できる大人たちだけが残って本物の才能を拾ってくれるようになるので、僕はそっちのほうが健全だと思います。

──そう言われるとなんだか1980年代末のバンドブームみたいですね。数百組の玉石混交なバンドがデビューして、そのほとんどが消えていった。

そうかもしれないです。「ボカロが盛り上がってるらしいから」って言って、よくわかってない大人が面白くない企画をガンガンやって、それが売れなかったから手を引いたってだけ。それが衰退だとは僕はまったく思ってないです。乱獲してすごく雑に扱ったものが売れなかったからって「衰退した」って言うのは、あまりにも身勝手だし浅はかなんですよ。

──ハチさんはおそらく「自分が育ったシーンが再び活性化するためのカンフル剤になってほしい」という願いを込めて「砂の惑星」を作ったんだろうと思います。この曲に刺激を受けて名曲を作る人々が現れるのに期待したんだろうなと。それについてはどう思いますか?

別にどうにもならないんじゃないですかね。僕は最初に聴いたとき「チクショー!」ってめっちゃ怒ってましたけど、なんだかんだ反応を見ると、彼のひさしぶりの投稿をただただ喜んでる人ばっかりなので。さっきも言ったように僕はカウンターが好きなので、「マジカルミライ」の10周年テーマソングにあんな曲をぶつける姿勢はすごく面白いなとは思うし、音はめちゃくちゃカッコいいと思ってます。でもあの歌詞は2013年の状況の認識だけで書かれているので、ここ4年間のお話がまったく入っていないんです。歌詞でいろんなボカロ曲のフレーズを引用していますけど、それも2013年くらいまでの曲だけで、ここ最近のものは1つもないんですよね。共通の知り合いから聞く限り、ハチくんは最近のボカロPの曲もよく知っているようなので、あえて無視したんだろうという気もします。でも「廃れた砂漠」に説得力を持たせるためにここ4年間をわざと見ないふりするっていうのは、「その間にがんばってた人に対してどうなの?」って思いますね。

──うーむ。

最近の状況に触れたうえで「廃れた砂漠」って歌うんだったら、きっと僕は納得してたんですよ。「そうか、彼にはそう見えたんだ」ってだけのことだから。
引用ここまで
https://natalie.mu/music/pp/wadatakeaki

くらげPが指摘したように、「砂の惑星」はナユタン星人、バルーン、n-buna、Orangestarなどの2014年以降のボカロシーンを完全に無視していて、2017年時点でのボカロシーンを正確に描いていない。したがって「砂の惑星」は完全に周回遅れであり、2017年当時のボカロシーンを語る上で全く参考にならないし、これを引用するのは不適切である。2013年頃、一見して砂漠になったボカロシーンの足元には新たなUGCが芽が出し、それは2017年には再び豊穣な大地となっていた。そこには商業も紛れ込んでいるが、同時に新しい在野のボカロPも生まれていた。資本に依存しないUGCは、商業に押されることなく強固な根を張るようになった。
また「歌ってみた」やMMDなどの「n次創作」や「創作の輪」も健在で、2020~2021に開催されたMMD杯ZERO3には1000を超える動画が投稿された。つまり初音ミクはずっと世界を「接続」し続けているのだ。

「初音ミクと俺」の系譜

またukiyojingu氏は「愛されなくても君がいる」などの楽曲を挙げ、ミクが接続を諦めてミクとマスターの二者関係を歌うようになったと論じている。しかし、そもそもミクとマスターの二者関係を歌う楽曲はボカロ黎明期からずっと続いている。具体的には、「あなたの歌姫」「Packaged」「melody...」「恋スルVOC@LOID」「ハジメテノオト」「えれくとりっく・えんじぇう」「システマティック・ラヴ」「エレクトリック・ラブ」「愛言葉」シリーズ「Convenient Singer」「ヒビカセ」などが挙げられる(リンクは面倒なので各自検索してください。実際はもっとあるが私が力尽きた)。このように「俺と初音ミク」あるいは「初音ミクと俺」をテーマとした楽曲は、もはや定番と言って良いだろう(別に「俺とIA」でも「俺とゆかり」でも構わない)。なぜこういう歌が作られ続けるのかというと、ボカロP(やMMDer)は長時間にわたりPCの前でマウスをポチポチしているため、相当に忍耐力を要求される。「俺がミクが好きだからそれが可能になるのだ」と言うPもいれば、逆に「ミクが俺を愛してくれているという設定にしよう」と考えるPもいる。あるいはPCに貼り付いている自分を俯瞰的に見て、ミクと自分の関係を恋人同士の密会に喩えるPもいる。結果として「俺と初音ミク」の関係を歌う歌が生まれるわけである。「愛されなくても君がいる」もその文脈を踏まえて作られた歌であり、基本的には昔からある「俺と初音ミク」の歌である。より正確に言うと、ここでの「俺」=歌詞中の「君」にはリスナー自身が自己投影できてしまうように書かれているため、ほぼ全てのリスナーがミクとの関係を強く感じるように仕向けられ、ボカロPでなくともリスナーとミクの二者関係を強化する作用も持っている。さらに歌詞を詳しく見ると、

惑星ですらないデブリの海で
それぞれ都合のいい夢を見ていた

というくだりがある。ここでの「惑星」は「砂の惑星」に対するアンサーと考えて間違いない。そして、「都合のいい夢」はかつてのボカロシーンの一体感がそもそも幻想であったことを示唆している。今後千年草も生えない砂の惑星どころかデブリの海であったとしても、「俺と初音ミク」の関係があればミクとUGCは不滅である、というのがピノキオピーの主張である。同時に、この歌自体が「歌ってみた」で歌われていることを考えれば、「n次創作」「創作の輪」はやはり広がっており、結局のところミクによる「接続」は続いているというのが実情なのだ。
初音ミクがリスナーたちの一体感を歌うという意味では、「Tell Your World」以降にはukiyojingu氏が指摘するとおりグリーンライツ・セレナーデがあるが、他にも「Hand in Hand」や「39みゅーじっく!」もそこに含めることができるだろう。ただしこういった趣向の作品は数が少ない。これも当然といえば当然のことで、ボカロPとしてはPCを前にミクを歌わせているのだから、「俺と初音ミク」の関係を常に意識させられており、その二者関係を歌う歌が増えるのは必然である。これに対し、ボカロPが第三者(他のユーザー)とのつながりを意識して作曲するのは何らかのイベント(アニバーサリーにおけるファンの自発的祭りや、Googleのような大企業からの依頼、あるいはマジカルミライのようなコンサート委嘱曲)のときに限られている。「Tell Your World」はまさにその典型だが、これはGoogleからの依頼でインターネットのアンセムを作ろうというコンセプト(柴那典著 初音ミクはなぜ世界を変えたのか?https://www.amazon.co.jp/%E5%88%9D%E9%9F%B3%E3%83%9F%E3%82%AF%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%92%E5%A4%89%E3%81%88%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E6%9F%B4%E9%82%A3%E5%85%B8/dp/4778313968)であったために、「ユーザー生成型コンテンツ」「n次創作」「創作の輪」を俯瞰的に見つつ、その発展を寿ぐ内容になったのである。逆に「祭り」もないのにそんな曲を作るのは興醒めであるから、ボカロPとしてはそんなことより「俺と初音ミク」の関係を歌にすることが多くなる。だから「Tell Your World」のような楽曲が減ったことを根拠に「ミクが接続を諦めた」と論じるのはやはり無理がある。

結語

以上をまとめれば、ボカロシーンは細分化・多様化したことで一体感は失われたものの、初音ミクは今なお「n次創作」によってユーザー間を接続し続けており、「創作の輪」も広がり続けている。その点でミクの役割は2007年の時点から全く変わっておらず、今後もユーザーがいる限り(そしてクリプトンの方針が変わらない限り)続くであろう。したがって「私たち」が初音ミクを弔う必要はないし、砂の惑星も訪れないだろう。

※誤字脱字はちょこちょこ修正しています

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