見出し画像

真夏のピークが去った

noteを毎日書いていた去年の夏から1年以上が経とうとしている、あのときと全く違う場所にいると思っているけれど、案外同じような場所でまだ足掻いているのかもしれない。
雨ばかりの6月と7月を終えて、足早に夏が去っていこうとしている。夜の空気はもう秋のそれだ。短いその瞬間を捉えたくて、さみしくなる。

生活の切れ端とか、季節の欠片とか、捕まえて頭の中で言葉にした瞬間に書き留めておかないと、すぐに情報の波に呑まれてしまう。どうでもいいことが私にとっては大切で、誰かにとっての大切が私にはどうでもいいことで。書きたいことが思い浮かばなくなって、生きる解像度が少し下がっている気がする。雨が続いているからか、休日よく寝てしまう。もっと動いていたいのに、体があんまり言うことをきいてくれない。

停滞している、仕事でガシガシ動いたとしても、底の方にあるその気持ちを拭うことが難しくて少し苦しい。共感してほしいって思ったことはない。私の気持ちは私のものだから、誰かから簡単にわかるとも言ってほしくない。

涼しくなった道を浴衣を着て歩いて、リベンジだねって笑う。人の多さに、ネットで調べてくれた場所に行くまでの気力がなくなってしまい、近場の穴場スポットで明るい光と少し遅れて聞こえてくる音を聞いていた。
小さな子供が喜ぶ声や、全く興味がない様子でいる毛並みの良い犬、近所に住んでいるだろう宴会をするご機嫌な大人たち。
花火は、私にとって寂しさの形だ。始まって終わることが明確で、光と音の前に何も通じなくなって、その全部を見つめていると刹那的な気持ちになってしまう。何故なのか分からない、幼い記憶が想起されるからなのかもしれない。

帰ってきて帯を洗濯したら、洗ってはいけなかったらしく、何もかもが真っ赤に染まった。お気に入りだったTシャツがタイダイ柄になってもう笑うしかなかった。彼の帯もだめにしてしまった、すごく怒られるかなと思ったけれど、また着るの1年後だし、とどこか他人事で拍子抜けした。薬局まで走って買った重曹とハイターは、あんまり役に立たなかった。たまに気を抜くとこういうことをやってしまう。

多分、分かりやすい終わりが、苦手なのかもしれない。転校生が再び転校してしまうときも、毎年来る教育実習生が大学に戻るときも、何かの終わりのたびにちゃんと泣いていた。
でも今は、誰かとちゃんと「終わり」ってなる機会がほとんどない。転校生にも実習生にも、望めば自分の力で会いに行くことができるって知っている。だからこそ、ライブや花火、終わりが明確なものがあると、さみしくてどうしようもなくなってしまうのかもなぁ。少し飛躍しすぎかな。

秋と冬と春は気づいたら始まって終わっている、夏の終わりだけ、敏感になってしまうのは何故だろう。
あ、手持ち花火したかったんだよな。線香花火、対決するのが好きで、ただぱちぱち音を聞いているのが好きで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?