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【小話】徒然なるままに、5月31日

越境しない

昨日、ジェーン・スーさんの本を読んでいて、体を貫かれる思いをした。図星だったし、冷や汗だった。

私も昔は、気がつくところすべてに手を出していた。それこそ職域なんてお構いなしで。恋愛もそう。親子関係だってそう。すべてにおいて「越境」が私の十八番だった。(中略)
存在するだけ、やるべきことだけやっている自分では、受け入れてもらえないのではないかという不安があった。そして、誰かの役に立つ人間でありたい、ほかの人よりも優れた人物であると認めさせたいエゴもあった。どちらも、健やかな自尊感情からはかけ離れていた。

おつかれ、今日の私。(ジェーン・スー)

昨日の朝、超タイムリーに、それこそ「越境」しそうになった自分がいた。そこを越えずにいるのが正解なのか、無理やり越えていくべきか。判断を迷ったけど、結局「越境」はせずに相手の判断に委ねた。でもそれは正解だった。

先読みが得意な人がいる。私もその類。
気がついてしまうから、良かれと思ってアレコレやってしまうことがある。でもそれは良し悪しだったりする。場の役に立つこと、人の役に立つことはとても嬉しいけれど、時々「なんか疲れた」と疲労感いっぱいになっている自分もいる。そんな時は、上記スーさんが指摘していることに他ならない。自分の存在を証明しようと躍起になっている時だ。

活躍の場を奪わない

「人にあなたを愛させてあげましょう」心理学の師匠に言われたことがある。
愛するという言葉を使うとどうも胡散臭くなってしまうけれど、要は「相手の活躍の場を奪うな」ということだ。

与えることに躍起になる人は、受け取ることを疎かにしてしまいがちだ。だから相手が与えようとする時も、先回りして自分が与える側にまわってしまう。そこに悪気はない。

例えばAさんがBさんに「これをしてあげたい」という時に、Bさんが先回りしてやってしまったら、Aさんは果たして嬉しいだろうか。
人は誰かの役に立てたら嬉しい生き物。自分のしたことで誰かが喜んでくれると、私たちは嬉しい。だから役に立てる機会を失ったら、私ならちょっと悲しい。

信頼すること

お節介の発動はバランスが大事だと、この歳になって一層感じる。
確かに自分がやった方が手っ取り早い場面もあるし、私だってシンプルに誰かの役に立てたら嬉しいと思うから、やってしまいたくなる時もある。

だけど、だ。

例えば相手が若い世代の場合。彼らの活躍する場を、私が食い潰してはいけない。
人は頼られることで、初めてのことや慣れないことにチャレンジできる。
であるなら私がやるべきことは、先回りしてなんでもやってあげることではなく、お節介でもなく、信頼することなのだ。

昨日の朝は、私は越境ギリギリのラインでお節介ではなく信頼を選んだ。結果、見事にやり切った仲間の姿を見て、心から拍手した。やるべきことは「信頼」なのだと思い知った。

受け取ることも与えることだから

中年になり、体がままならない。春に作った傷跡がまだ治らない。新陳代謝の低下だろうか。体が動かないから思うように踊れない。体がすっかり硬くなってしまっている。
こういった現実に悲しくなるけれど、これからきっと「ままならない」現実がどんどん押し寄せてくるのだろう。

だからこの先、自分がやりたくてもできないことが増える。与えたくても与えられない場面も多分に出てくる。
私は今まで与えることで、感謝や信頼を受け取ってきたのだと思う。だけどこれからは、誰かから与えられたことを受け取ることで、感謝や信頼を与える方にシフトしていくのだろう。そうあるべきだとも思う。それは人間の摂理だとも。

もうきっと、躍起になって越境することはないのだろう。
それよりも、相手を信頼して応援して、感謝を伝えられる自分でありたい。

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