アントワイン10月28日 内なる目は魂の存在ーヴィパッサナー

https://recreatingbalance1.blogspot.com/2018/10/the-inner-witness-is-presence-of-soul.html

多くの精神的慣習に欠かせないものが、静寂や沈黙をもたらす内観の場所を創造することです。これは瞑想の基盤であり、物事をありのままに見るという意味のヴィパッサナーとよばれることがよくあります。

ヴィパッサナーの基礎は、内側を見て、そこに内なる存在があるのを見るのですが、その存在は肉体を見ることはできますが、肉体ではありません。この同じ存在は感情や感覚でもないということもわかります。たとえ強烈な感情に圧倒されるような感じがしても、常にプロセス全体を見つめている内なる存在がいるのです。その存在は感情ではありません。そして同じように、内なる存在は思考でもありません。思考はあらゆる方向に広がっていくかもしれませんが、この内なる存在はじっとそこでプロセス全体を見ています。

内なる存在、つまり内なる観察者は私たちの肉体やエネルギー(エーテル)、感情、メンタルの部分よりも高次の意識で、魂の存在です。この内なる魂の存在はあらゆる生命と一つであり、私たちの内側で息づいている一なるもの、ソース、宇宙の海であり、私たち全てを動かし、あらゆる生命を動かしているもので、あらゆる生命なのです。

この一なるもの、宇宙の海は、多くの生きた存在や多くの時空というたくさんの型を取りますが、単に型が変化しているだけで、常に同じ一なるものです。

ですから肉体、感情体、メンタル体もまた一なるもので、一なるものがさしあたりこのような形を取っているのです。一時的な型であり、海の波や流れのようですが、海そのものではありません。海は流れや波にかかわらず、常に同じ海水です。

この惑星に広まっている習慣があります。それは、肉体的、エネルギー的な感覚や、感情や思考がやって来たら、それに執着し、エネルギーを向け、自分と同一視するという習慣です。ですから、何かが内側で起こると、人々は感覚や感情や思考を追い払おうとするか、もしくはその感覚や感情や思考を引き寄せて固執しようとするのです。

内側で追い払ったり引き寄せたりするこの習慣は、感覚や感情や思考との同一視を生み、それにより感覚や感情や思考が流れるのを妨げ、内なる魂の存在の忘却を生みます。そしてこれが痛みや無意識の源です。

皮肉なことに、追い払ったり引き寄せたりというのは、意図しているものとは真逆の結果となります。思考を追い払えば払うほど、思考はくっついて離れなくなりますし、感情をつかもうとすればするほど、感じられなくなるのです。

どなたでも、次の方法で検証することが可能です。無作為にテーマを選び、そのことを考えないように一生懸命努力します。努力すればするほど、その考えは戻り続けるでしょう。あるいは、何かを思い出そうと一生懸命努力します。思い出そうと努力すればするほど、消えて行くでしょう。そして思い出すことを諦めた時、記憶が自ら戻ってくるのです。あるいは、外側の騒音がうるさいならば、それを追いやろうとすればするほど、もっとうるさく感じるでしょうし、その音のことを忘れるだけでもう意識することがなくなるのです。

どうしてなのでしょう?なぜなら、内側で追いやったり引き寄せたりすると、海水そのものではなく、一時的な型や海の流れとの同一視や固執を生みます。言い換えると、意識は、自分が内なる魂の存在、一なるものであると考えるのではなく、分離した自己という幻想であると考えているからなのです。それで感覚や感情、思考が適切に流れることができないのです。それで内なる観察者である魂の存在を忘れ、そして魂の存在はその役割を適切に果たせず、痛みや苦しみが生じるのです。

ですから、瞑想の基盤であるヴィパッサナーは、この同一視と苦しみの悪循環を止めることになるのです。プロセスは非常に単純です。内側で何が起ころうと、肉体の感覚や感情、思考が起ころうと、受動的かつ静かにそれをただ観察し、追いやったり引き寄せたりせず、判断せず、批評せず、中立でいるだけです。まるで遠くから眺めているかのように、ただ受動的に観察するだけです。

別の有名なやり方は、息を吸ったり吐いたりする呼吸を見続けるだけです。呼吸の流れを追うか、あるいは呼吸に伴って腹部が上下するのを見るのです。そしてこうしている間、内側や外側で何が起ころうと、思考や感覚や感じなどはただ流して、受け身の観察者であり続けるのです。

これで行っているのは、エネルギーや意識を内なる魂の存在に戻すことです。これを実行すればするほど、観察者である魂の存在がどんどん強力になり、それ以外にはもはやエネルギーを向けなくなるため、全てが段々と消えて行きます。

内なる観察者である魂の存在は灯りをつけます。暗闇にロウソクを置くようなものです。暗闇を押しやったり、暗闇から離れたりする必要はありません。ただ灯りを灯せば十分で、暗闇は消え去ります。なぜなら、実際に存在しないからです。

光があれば、意識が観察者である魂の存在の中心にあれば、そこに属していないあらゆる感覚や感情や思考はひとりでに消えるでしょう。ちょうど灯りがつけば闇が消えるように。そしてそこにあるべき、魂と繋がっているあらゆる感覚や感情や思考、全ての幸福感やインスピレーション、この全てが自然と増えていくのです。

ですから肉体の感覚や感情や思考(ローワーセルフ)はただの空容器として、静かにじっとしているべきで、そうすると魂の存在を適切に抱くことができるのです。穏やかで静かな湖が月や風景を映し出すことができるようなものです。この湖は何もしません。純粋に受け身です。そうでなければ、風景を映し出すことはできないのです。

意識が観察者である魂の存在の中心にあれば、あらゆるものの識別力がどんどん向上します。なぜなら、ローワーセルフでの同一視から生じる、過剰に独断的で馬鹿げた考えという騒音と同一視することがどんどん減少し、魂や一なる海からのエネルギーの流れとますます調和していくからです。

好きではないことが生じた時、押しやったり乗り越えようと努力をすれば、自動的に抑圧するだけで消え去ることはなく、ただ潜在意識となって、そこから影響を与え続けます。

これはどういうわけか直感に反している可能性があります。なぜなら、例えば自宅に物理的なゴミ袋があると、それを外に押し出さなくてはいけません。なぜなら物質はエネルギーの高密度な型だからです。でも、そのゴミはどこ行くのでしょう?土に埋められると、大地は押しやったりせずに、大地自身に流れ込ませます。ですから、ゴミは大地に変化します。エネルギーが流れることができれば、常にワンネスに戻るのです。

リラックスしようと一生懸命になると、表面上他人にどう見えようと、どんどん緊張していきます。しかしエネルギーを流れさせ、表現させると、リラックスが内側からただ自然に起こるのです。

意識が内なる観察者である魂の存在の中心にあればあるほど、私たちを通って流れる平和や幸福や喜びやインスピレーションというあらゆる善が増加していくでしょう。そうすればこの中心にある気づきをあらゆる行動に持ち続け、その気づきの場から行ういかなるものもさらに調和し、活性化し、消耗させるのではなく成長させていくでしょう。この中心にある気づきを様々な型のエネルギーワークや視覚化瞑想などいかなる種類のライトワークにも持ち続けていけば、私たちが伝えるエネルギーはさらに強力かつクリアになり、私たち自身および他人へさらに喜ばしいエネルギーを伝えることになるでしょう。

☀️あらゆるものに平和が訪れますように☀️

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?