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Maybe 手法

例えば誰かと<不確か>なことについて議論したら、「わからないけど、たぶんそうかもしれないね」ってことにすれば喧嘩にならないよと小さいころ誰かに教えてもらった。

それから結構長い間、いや今の今まで「たぶん」「わからないけどそうかも」とかっていろんな場面で使ってきた私。

何事も白か黒かなんてはっきりわからないわけだから、「曖昧」であることが平和への一番の手段ではないかと思って生きてきた。


前々回の投稿「アフリカのマサイ族」につながる話。
彼らは、割礼(男性器も、女性器も、どちらに関してもある一定の年齢になると受ける儀式)を実施している数少ない部族であり、歓迎の儀式にはヤギの屠殺も行う。
実際、私が訪れたマサイの村でヤギの屠殺を見せてもらい、その場で肉を焼いていただくという経験をした。ヤギの首を絞め、息が絶えると首のあたりに穴を開けコップに生き血を入れる。
その血は、長老しか飲めない神聖なものだ。その工程が終わると、毛皮を綺麗に剥ぎ取り、丸焼きにする。途中、眺めながら気持ち悪くなって吐いてしまう友人もいたが、私はその光景に釘付けになった。
本当に美しい、命の扱い方だった。

全ての部位を無駄なく、捨てることなく使うが、目ん玉だけは処分する。
ついさっき恐怖に怯えているように見えた目ん玉。手のひらに乗せてみるとひんやりと安らかだった。
今も忘れぬ感覚。
そしてヤギの目ん玉はかなり大きい。

一夫多妻制、割礼、動物の屠殺など、私たちが一般的に接する文化では[Taboo]とされる行為。
国も、動物愛護団体等も、マサイ族の「悪しき習慣」をやめさせようとしているらしい。
「悪しき習慣?」それを「悪しき」と決めつけるのは勝手だが、マサイ族にとってはとても大事に継承してきた文化であるのに・・・
逆はどうか?マサイ族は、その他の民族がやっていること、生き方がどんなに自分たちのそれと違っても否定しない。

「こっちが正しい」と、何かを主張するためには、その他を「違う」とするのが一番やりやすい手法だと思う。白色の◯を見せるために回りの部分を黒く塗ってしまうのが「主張」という行為なんだとその時おもった。
でも、いやいやそれは違うだろう、やっぱりお互いを否定しあわず存在するためには、「Maybe手法」が一番正しいんじゃないか。。。堂々めぐりをくりかえし、当時の私はこの違和感に悶々としたまま、心の隅に保管した。
今は、「否定をすること」と「何かを主張すること」の違いくらいはわかってきたと思う。

去年、オリジナルアルバムの制作に入った頃から気づいたのは、Maybe手法のネガティブネス。自分の主張をハッキリさせないことには、何も作り出せない。あたりまえだ。
なぜそんなことを、それまで気づかずアーティストだ、音楽家だ、表現者だと語ろうとしていたのか。現実に、アルバム制作がスムーズに進まない時があったのは、今考えると私の意思表明があまりに曖昧だったからだ。私のMaybe手法は、アーティストとして致命的であることに気づいた一年前。

「YesとNo」
「白と黒」
「あり、なし」の練習が始まった。

Photos in 西表島。

今までもこれからも皆さまからのサポートは有難く頂きます。てゆうか双子グッズ買います。笑