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平成が終わったからしておきたい話

※4/10に上げようと思っていて、「まぁ平成の終わりに上げよう」と思っていたら寝過ごしてしまってお蔵入りになりかけたものの、せっかく書いたしなれそめをいちいち話すのが面倒なので上げることにしました。
夫と結婚して3年経ったよ、彼はこんな人だよ、という話です。

夫と結婚して、この4月で3年になった。
彼は大学の1つ先輩で(ただし年齢は2つ上である、お察しください)、同じ学部、同じ学科、同じ専攻、同じコース、違うゼミだった。
最初に会ったのは和歌山で行われるシンポジウム合宿で、わたしたちの通っている大学から数名の講師や教授がパネラーとして呼ばれ、また講義で名が上がるような哲学者や論客たちも顔を出し、夜には彼らと直接論をたたかわせることもできるというものだった。
この合宿は学科内で幅をきかせている教授のゼミ生として呼ばれるか、自力でツテを作って参加するタイプのもので、彼はおそらく前者で、わたしは後者だった。彼は幅を利かせている教授のゼミ生だった。親友がその先生のゼミに1年次から振り分けられたことに本気で嫉妬もしたけど、その子の友達としてある程度の恩恵も受けることができ、なんとかその合宿へもぐり込んだ。その教授と近しい関係にあるということは、学科内で一種のステータスだったし、夜に宴会で繰り広げられる文学議論は、二十歳そこそこの小娘にとってとても格好良く映ったし、親も知らない世界をわたしは知っている、という優越感を与えてくれるものでもあった。

初対面のときの彼は金髪で、エクステをつけていて、サッカー好きのにおいがぷんぷんしていて、バンプオブチキンの藤原基央に似ていた。
最初に見たときに「あぁ、タイプだな」と思ったけど、サッカー好きの人とは縁がないし(わたしはスポーツが大嫌いだった)、当時は付き合って2年になろうかという彼氏がいたので、彼のことを「すてきな先輩」としか思っていなかった。

そのあとは一言も会話をすることなく、彼は卒業し、その2年後にわたしも卒業した(お察しください)。
その頃わたしはツイッターを始めた。
数人の同級生とつながる中で、彼はわたしを見つけたらしい。社会に対する文句ばかり言っているわたしを、見つけたのだと。
「今アメリカに留学している」「あれから帰国して東京に住んでいる」「設計の仕事をしている」など、断片的な情報を不定期に受け取りつつ、「また飲みましょう~」と、いつ実現するかもわからないような口約束をしていた。

***

2013年の冬、わたしは当時付き合っていたとんでもないワガママ喫煙者DV野郎と別れて、なぜか振ったはずなのに振られたような気持ちになり、仕方がないのでアニメに傾倒していた。橘真琴には本当にこの暗黒期を救ってもらったと今でも感謝しているし、推している。
ともかく、この冬に同じ学科のメンバーを集めて同窓会を兼ねた小規模な忘年会をするので、藤堂さんも来ないかと言われた。
わたしは二つ返事で「あなたが来るなら行きます」と答え、
それから2週間後に東京-大阪間で交際を始め、約1年後に実家へ招き、その数日後に彼の両親に交際の旨をお伝えする挨拶に行き、それから10か月後に両家の食事会を行い、誕生日に正式なプロポーズを受け、なんと結婚することになった。

結婚するにあたり、婚姻届を書く。
「いつ出そうか」「これが結婚記念日になるのか」「挙式をした日ではないのか」など、議論は紛糾した。
わたしたちは遠距離で交際をしていたので、一緒に提出に行くのならわたしが東京へ行けるタイミングがいいだろうとまず決めた。

・二人とも休日であること、つまり土日祝であること
・わたしが占い好きでこういうことにこだわるため、仏滅は避けること
・誕生日やイベントが秋冬に続くので、春か夏がいい。秋になるとわたしが30歳になるのでできればそれまでに

何かにあやかるのも好きで、わたしは「だれかの誕生日や記念日と同じ日にしてはどうか」と提案した。彼はそれを承諾した。
11月4日は両親の結婚記念日だけど、彼らの結婚はわたしが生まれたこと以外はほぼ残念な結果に終わったので却下だ。
彼は自分の両親の結婚記念日を知らなかった。
好きな哲学者や建築家の誕生日なども調べたが、いまいちピンとこなかった。

何かこう、絶対に別れそうにない夫婦の結婚記念日がいいね。
そう考えたときに、マイルドウヨクなわたしの頭に「天皇夫妻はどうだろうか」というアホな考えがよぎった。
「いいじゃん、絶対別れなさそう」
さっそく調べてみると、両陛下(今は上皇様と上皇后様だ)の成婚は4月10日だった。春だ。しかもその日は日曜だ。赤口だから、お昼に出しに行こう。(あとで調べたら、中段と二十八宿は最悪だった)

証人欄を埋めてくれたのは彼のお父さんと私の母だった。
夫の故郷と私の家、そして東京へと旅をしてきた婚姻届は少しよれていて、管理の雑さを悔いた。
新居も決まっていないので、新しい本籍地はひとまず彼が住んでいるアパートの住所にした。

わたしが緊張しながらもらってきたのは、わたしの出身である吹田市のものなので「吹田市長」宛てになっていた。
が、出すのは豊島区役所にだった。
豊島区役所は上層階がマンションになっていて、とても新しくてきれいな建物で、建築好きな彼も満足なようだった。
なんだか申し訳なかったけど、休日のひっそりとした区役所のなかで休日窓口は多くの人でにぎわっていて、なんだかすぐにその空気に飲み込まれた。
受付の女性が「これは今日お預かりして、それぞれの自治体へ内容の確認をとって、不備がなければ受理となります」と説明してくれて、
「問題なく受理となった場合は、今日が婚姻成立日になりますよ」と付け加えてくれて、「だから安心せい」と言われたような気がした。

彼は少しテンションが高く、わたしが当時SNSとかでよく見かけていいなぁ…と思っていた「日付表示のある場所で“婚姻届だしてきました☆”という写真を撮るアレ」をやってくれようと「フォトスポットとかはありますか?」とその女性に訊いてくれたが、豊島区役所にはそのためのスポットというものはないようで、それでもなんだかそれっぽいところへ案内してくれて(役所内の案内板の前だったけど)、業務中で忙しかっただろうに、そこでシャッターまで押してくれた。

済んでみればあっという間で、いろいろと用意してきた書類のぶんだけ軽くなった鞄を抱えて、区役所の1Fにあるカフェのテラス席でお昼ごはんを食べた。
薄曇りだけど暖かく、冬が終わって緑が出始めた木々を見ながら「まったく実感がないなぁ」と思ったが、婚姻届は無事に受理されて、私には新姓宛で郵便物が届くようになった。

その年の11月5日に結婚式をした。その年末に、私は腰近くまで伸ばしていた髪を耳下のあたりまで切って赤く染めた。

毎年4月10日には二人で食事に行くようにしていて、今年もおいしいご飯を食べてきた。
両陛下は今年、成婚60周年を迎えたそうだ。
結婚60周年の頃、夫は90歳を超えている。たぶん、この世にはいないだろう。わたしもあやしい。
結婚3周年は「革婚式」というらしい。60年は「ダイヤモンド婚」。
ダイヤモンドは砕けないというし、革がダイヤモンドになるまでにはとんでもない苦労や忍耐やあれやこれやが待っているんだろう。

気がつけば3年経った。
もう3年。まだ3年。
喧嘩もめちゃくちゃする。たぶん一般的な夫婦より喧嘩するし、わたしも夫も折れないところが多いので、これからもそれは続いていく。

けれど、家の玄関に飾った写真やしょうもないカプセルトイ(少しずつ増えている)のを見ていると、その毎日も「まぁいっか」と笑えてしまうことがある。

結婚なんてこんなものよ、なんてまだわたしには言えないけど。

ちなみに彼はファーストコンタクトとなった合宿のあと、大学で1回だけわたしと会話したという。
「何読んでるの?」
「ボードリヤールの『象徴交換と死』です」
誰にでもイキがる私のよくないところは、早めに忘れてほしかった。


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