あなたはどこから来たの?
家族や親友、恋人にいつも聞いてしまう。「あなたはどこから来たの?」「あなたはどこで生まれたの?」「あなたは誰?」
人によって反応は違うけど、よく「禅問答みたいだね」と言われる。
私があまりにもしっこく、何度も聞くから、大抵の人は呆れてしまったりする。
帰省するたびに、歳の離れた妹に「〇〇はどこで生まれたの?」と聞いてしまうのだけれど彼女は決まって「○〇県立医大で生まれたんだよ、何回聞けば分かるの?」と冷たく答える。妹に呆れられているとはわかってはいるのだけど、どうしても聞いてしまう。
「あなたはどこで生まれたの?」
この質問をしてしまうメカニズムを解明たすることを怠ったまま、今の今まで来てしまった。でも、少し考えてみた。
我々はどこから来たか、何者か、どこへ行くのか。
(D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?)
「我々はどこから来たか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」ポール・ゴーギャンの有名な絵画だ。
我々はどこから来たか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか。私違が生きていることの疑問は、ここに尽きる。
私は、気づいたら生まれていた。わたしは「生まれてみたいです!人間にしてください!」と言って生まれてきたわけではない。有名な話で恐縮だが "I was born."なのである。わたしは生まれたくて生まれたわけじゃない。生まれさせられたのだ。
気づいたときには、既に私というものが存在してしまっていた。ここで「わたしはどこから来たの?」と言葉がこぼれる。わたしたちは誰も、自分がどこから来たのか知らない。気がついたときには、既にここにいたのだから。
もちろん、無機質に「私は、お父さんとお母さんがセックスして、それで受精して、その受精卵が大きくなって、○○○○年、○月、○日に生まれたの!」とそう言うこともできるだろう。生物学的な「身体」について語るのであれば、まったく構わない。けど、その説明で、いま、ここに、なぜか生きている不思議が解消されることがない。
いつの間にか、私は存在していた。この私は誰なのだろう。どこから来たか、分からない、何者かも分からない私は、この先どこへ向かうのだろうか。わたしは孤独である。
でも、私だけではない。
どこから来たかも知れない、何者かも分からない私は、どこへ行くべきか、どこへ向かっていっているのかも分からない。人間として生まれ落ちた、そのときから、私は孤独な旅を強いられている。
しかし、それは私だけではない。私以外の全人類が、生まれたときから孤独な旅を強いられている。
そのことに気づいたとき、私達の間にはささやかな同胞意識が芽生える。
隣りにいる家族や、友人も、恋人も、どこから来たか分からない、自分が何何者か分からない、どこへ向かっているのか分からない、その一人なのである。
私達は仲間だ。世界に放り出されてしまった、所在ない存在。そのことを受け入れて生きていかなければならない。
「あなたはどこから来たの?」
わたしがこう聞くとき、なにも明確な返答を望んでいるわけではない。
正直なところ「わからない」と言わせたいのかもしれない。
普通、質問をするときというのは、ある答えを望んでいるはずである。でも「あなたはどこから来たの?」「あなたは誰?」という質問は、そういう類の質間ではないし、それどころか質問でもないのかもしれない。
ただ、どこから来たか分からない同士である、という事実を一緒に噛み締めたいだけなんだ。
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