エリートから転落、路上を経験した画家・田中拓馬。イギリス・アルスター博物館作品収蔵記念インタビュー

田中拓馬さんの作品「Blue Rose」が、イギリスのアルスター博物館に収蔵されることになりました。これまでの経緯を教えてください。


田中拓馬:きっかけは2016年にロンドンで開催したグループ展です。このとき、僕らの絵はほとんど売れませんでした。

こうなったら持ってきた作品はいっそう現地のギャラリーなりに寄付しようというぐらいのつもりで、イギリス国内のNPO団体に絵を寄贈したいと申し出ました。

すると、イギリスの国立総合博物館であるアルスター博物館から「ぜひうちにほしい」と声がかかったのです。

アルスター博物館は、北アイルランドのベルファーストというところにあります。1821年に創設された歴史ある博物館で、美術部門、自然科学部門、歴史部門を有しています。

過去には日本人の現代アーティストの作品も収蔵されたようですが、僕のように路上からの叩き上げは、いないのではないでしょうか。

2018年の2月頭から4月末までアルスター博物館で展示会があります。そちらに僕の作品も展示いただいていています。

BBCなどや地元のメディアも取材に来るそうですね。拓馬さんご自身はどういうご経歴なんですか? 埼玉の名門浦和高校から早稲田大学法学部へ進学された、いわゆるエリートですよね。

田中:高校では授業もほとんど聞いていなくて、将棋部の活動ばかりの不真面目な学生でした。大学では一旦千葉大に入ったものの、「将来司法試験を受ける」といって辞めて東大を受け、落ちたところを早稲田に拾われました。

その後、約束通り司法試験を受験されます。就職せずに、わざわざ司法試験に挑戦された理由は?


田中:実は企業の採用試験も受けたのですが、面接で「司法試験も受ける」といったら落とされて。司法試験に挑戦したかったというより、どの企業もおもしろいと思えなかったんです。

司法試験にもし合格したら、超人権派弁護士になりたかったんです。または、超悪徳弁護士に。

どちらにしても極端だったわけですね。


田中:司法試験ではとにかく負けて、散弾銃を打たれまくったような惨憺たる思いでした。

このとき、おいくつですか?


田中:24か25くらいです。精神科の先生に「あなた、司法試験に向いていないからやめたほうがいいです」といわれて、やめました。

5年間勉強したものがゼロになってしまいました。

それは辛いですね。


田中:精神的にかなり凹んで、1年間は療養も兼ねてで引きこもっていました。自殺しようともしたし、日本一周旅に出たものの、旅先で倒れてしまうこともありました。

その頃、作業療法というか、気持ちを和らげるために絵を習ったんです。それで癒されたのが絵を描くきっかけになりました。

そこから本格的にやっていこうと思ったのは?


田中:絵の先生に「巨匠みたいな絵を描くね」と言われたんです。当時は下手くそだったし、おそらくセールストークだったのでしょうが、僕はそれに引っかかって。

そのあと拓馬さんは、路上で絵を売り始めるのですよね?


田中:作品が埼玉県展にたまたま通ったので自信がついて、それで銀座で展覧会をしました。そうしたらお客さんが来ない。来ても画家ばっかりでちっとも買ってくれませんでした。

ある日、数学者であり大道芸人のピーター・フランクルさんが、路上でパフォーマンスをして小物を売っているのに出会ったのです。

「路上で売ってもいいのですか?」と聞くと、売っていいというので、次の日から僕も路上で売り始めました。

8号といって約40×30センチメートルぐらいの紙に描いた油絵を1000円で。今から考えると粗悪品もいいところですが、それがバカ売れしたんです。

画材もはじめは紙だったのを、次第にキャンバスに変えました。それも売れるので、さらにキャンバスを額装して売ったりしました。

月収にすると最高でおいくらぐらい?


田中:それは波があったから、内緒。でも月収はたいしたことないです。日銭です。日雇いみたいな感じより低いです。

2004年ぐらいから2008年までのあいだ、路上で絵を売って生活していました。路上以外売る場所がなかったのです。iPhoneどころか、今のようにオンラインで売るという手段もなかったですから。

路上生活が5年続いて……。


田中:路上生活といっても家は一応借りていましたよ。狭い部屋ではありましたが。

その頃には銀座でも売れるようになっていたのですが、リーマンショックがあって、路上も規制が厳しくなり、絵が売れなくなってしまいました。それで「やばい」と。困って、もう死ぬか、と。

そのときふと思ったのが「もっと勉強しようということでした。それまで絵に関しては独学だったので、当時近畿大学が運営していた四谷アート・ステュディウム(以下、四谷アート)に入学し、アートの基礎を学びました。

岡崎乾二郎先生の本や授業など、とても勉強になりましたね。

そのあと海外に?


田中:実は四谷アートに入る前に、ニューヨークに売り込みに行ったことがあったのですが、そのときは全然ダメで。

四谷アートを卒業してから行ったのが中国でした。中国の事情に通じたスタッフを雇って、2人でタクシーに乗って上海じゅうのギャラリーを回りました。

はじめは全然うまくいかなくて、最後は中国の電話帳で探したんですけど、たどり着いた先は、ギャラリーではなく、紳士服屋で。

そこのおじさんに「ここにあったギャラリーは新しい住所に転居した。ウチに届いている郵便物を持って行って届けてくれないか」といわれて届けたのが、今のParkview Greenギャラリーです。

オーナーのソンさんが日本に縁のある方だったのと、僕の熱意に打たれてチャンスをくれました。上海で展覧会をやるようになると、いろいろな企業や、上海や日本のお客さんにも買ってもらえるようになりました。

早稲田大学からも絵を寄贈してくれと言われたりmomentous artsというシンガポールのギャラリーも絡んできたり。オークションにも出品されたようです。

2014-2015年の上海バブルがはじける前までは良かったのですが、次第に景気が悪くなりました。

参照:人生設計とは?~司法試験から画家になるまで~

その後、会社を作ったそうですが?


田中:中国での経験を経て、僕なりに思うところがあったんです。路上時代は毎日入ってきた新規のファンが、ギャラリー所属になると自分で新規ファンを管理できない。会社というものは新規のお客さんが入り、買ってもらってファンの人が離れるまで流れが続くわけじゃないですか。

だったら自分で会社を作って新しいサービスをやろうと。もう一回路上から始めればいいとTシャツを売る会社を作ったんです。

その結果が……。


田中:ダメだったんですね。会社がダメになり、苦しい生活をしていた矢先、アルスター博物館の収蔵が決まったんです。

これからのアートに取り組む思いを聞かせてください。


田中:これで終わりではなく、始まりです。始めたばかりだと思っています。

アートは40歳からという話があるのですが、ピカソは初めて結婚したのがほぼ40歳です。マティスも成功し始めたのは35~40歳にかけてです。

アーティストのいいところは、年老いてからもいける職業だっていうところです。これからどんどん成長していくポテンシャルを持っていると僕は思っていますので、そこを伸ばしていきたいです。

2011年頃、海外進出をきっかけに絵画教室をはじめました。絵は収入が多い時期と少ない時期がありますので、少ない時期をどう乗り切るかにありとあらゆる手を使っていました。絵画教室もその一環です。

その生徒の中に今フィリピンで活躍している近藤太一さんがいるわけですね。


田中:そうです。近藤くんはこれからももっといろんなことに挑戦できる可能性のある人材です。彼はまだ30歳ですからね。僕が30歳のときなんて、路上ですから。

参照:フィリピンのアートシーンに変化が起きている!脱サラアーティストの近藤太一さんインタビュー

それは多くの人に勇気を与える話ですね。だいたい30歳って、夢を諦める年ですから。


田中:皆が夢を諦める頃に僕は路上にいたというね。

今は絵画教室だけでなく、アートのついでに勉強の超苦手な子に勉強も教えたりと自分が教える場面も広がっているのですが、僕よりも年下の人たち、中学生なんか皆、夢がないんです。もっと暴れ者が活躍できる社会が理想ですね。

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相宮康人

ライター/編集者。大阪芸大卒、岐阜県の助成金を得て渡米、NYで修行。日中英で活躍すべく瞬発力を鍛える日々です。執筆実績:LIG,グノシー,DRONE MEDIA,Drone Agentなど/
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