見出し画像

Nahuel Note #059 "120 battements par minute" 〈Sean〉(2017)Pt.2

映画『BPM ビート・パー・ミニット』
データについては→#058
視聴方法については→#000_04

画像1

哺乳類はおよそ一生の間の心拍の合計が同じなので、定時間あたりの心拍数が少ない(つまり心拍数が遅い)動物の方が長生きするらしい。人間の静常時の脈拍数は1分間に60くらいなので、この映画のタイトル『120 battements par minute』、すなわち1分間に120打は心拍数としては速すぎる。でもこれは踊るための音楽としてはとても心地のよいテンポ。ハウスミュージックのBPMはおよそ120〜130BPMに設定されている。

何か会議の幕裏で息を潜める人々の中から、ACT UP Parisのミーティングの場面へと切り替わる。ドキュメンタリーのように感じられる映像ながら、再度見直せば、非常に親切な「説明」もセリフに仕込まれていることが分かる。時間的に前後するシーンの挿入も非常に巧み。1989年より活動していたACT UP(the AIDS Coalition to Unleash Power) Parisの週一定例ミーティングに加わった新メンバーのナタン(HIV陰性)の視点を借りて物語は1992年〜1994年のパリで進んで行く。

画像12


大島渚『日本の夜と霧』を彷彿とさせるような前半のミーティングの論争シーンの他、アクティビストの本領である直接行動のシーンも多い。冒頭のALFS(フランス対エイズ闘争局)の会議では、血糊を詰めた袋を投げつけ、話者を手錠で柱に繋ぐという「パフォーマンス」も見せる。また、なかなかデータを出さない製薬会社にも血糊袋を持って押しかけたり、高校にエイズ予防方法を書いたパンフレットとコンドームを配りに押しかけたり、まだ決定的な治療方法がない中、感染を広げないために、そして1日でも早く治療法を共有できるように求めて行われる非暴力のアクションは、ラディカルなデモであり、同時に洗練されたパフォーマンスになっており、こう言って良ければ、大変「かっこいい」。


そもそもACT UPは、ビジュアルデザインを重視しており、シンボルとなっているピンクの▲の下に「SILENCE=DEATH」と書かれたデザインは、元々はナチスが強制収容所に入れた男性同性愛者の衣服に付けたピンクの▼を逆さにしたもので、Douglas Crimpらによるアート・グループ、グラン・フューリー(Gran Fury)によるもの。このシンボルはACT UP Parisでも使用されていたが、本作のパリのミーティングシーンではさらに独自のポスターやTシャツのデザインやフォントにこだわったり、スローガンを吟味したりする様子も見られる。映画には出てこなかったが、ピンクのコンドームを被せたオベリスクなどはクリストの作品を思い起こさせ、抗議行動であると同時にアート作品のようでもある。逆に現実にはできなかったという「赤く染められたセーヌ川」の方は、映画で映像化されている。

画像11

それぞれ個性的なキャラクターから成るACT UPメンバーの中、特に華があるのが、小柄なショーン。プライド・パレードでピンクのポンポンを持ってチアリーディングを行う彼は、誰より元気に楽しそうに高くジャンプし続ける。自分の意見ははっきりと述べるけれど、相手の言葉にも耳を傾ける。エイズは当初、ゲイの患者ばかりが報告されたため、世間にとっては他人事、あるいは宗教的理由から「異物」を排除する「天の賜物」とまで見なされていた。ゲイでHIV陽性のショーンは、そんな世間の間違った考えを、軽やかなキスのパフォーマンスで吹き飛ばす。そして受刑者や麻薬常用者、売春婦といった、より困難な立場の人々に特に気を配っていた。麻薬常用者が注射器の使い回しによって感染する例を防ぐため、新しい注射器を配るという彼のアイデアは、突飛に思えるかもしれないけれど、感染者の大きな割合を占めていた薬物中毒者の命を、まずは目の前の危機から守ることを最優先に考えていた。彼には誰もが認める「le courage(勇気)」があった。

画像13

そんなショーンにナタンが恋に落ちた瞬間、Mr Fingersの "What About This Love?"が鳴り響き、我々の胸も高鳴る。ここまではどの人物が主人公なのかはっきりしない群像劇だったのが、ここからショーンとナタンにピントが合っていく。二度のSexシーンはどちらも会話と笑いと共にある。コンドームの使用や定期的投薬による中断など、彼らのSexは相手への思いやりに満ちている。ミーティング合間の二人の会話も同様に穏やかで慈しみに溢れていて、本当に優しい。違う人間同士が相手を理解しようと心を寄り添わせることは、人の為し得る最も美しい行動のように思えてくる。

しかし無情に病状が悪化していくにつれ、ショーンは余裕がなくなり、これまでのように他人を尊重できなくなっていく。より苦しい立場の他人のために戦ってきた彼は、自分のためにこそ戦うべき時には、それができなくなる。病室のテレビに映るACT UPの活動の映像は、かつて自分が誰かのために戦っていた「誰か」の側に自分がなってしまったことを突きつけてくる。見舞いに訪れたチボーが、目に入ったベッド脇のGAME BOYをすぐ手に取ることも、かつてなら笑えていたのかもしれないけれど、神経を逆なでするばかり。
そんな死へ向かう恐怖の中、ナタンの優しさがとても大きい。二人で立ち向かうエイズという病。電車で海に行った二人は、少し離れ、同じ方を向き、同じ波を受けた。

画像7


本作で各シーンが時に交差しながらシームレスに繋げられているのには、いろいろな気分から成り立っていて多様な生活をリアルに描きたかったという監督の意図があり、実際、メンバー同士の出会いの場でもあったACT UPには、真摯な社会運動に身を投じながらも、恋愛と青春が存在していた。「多分、僕がショーンに恋をした理由は、彼が死んでしまうからだ」という文章がナタンの心情として用意されていたというように、病が彼らの青春を一層鮮やかに輝かせてしまったのは皮肉なことだけれど、エルヴェ・ギベールはこんな風に書いていた。

「この恐ろしい病気には、なんとなく甘美なもの、魅惑的なものがある。もちろん、いたましい病気ではあるけれど、急死することはないのだ。確実に死に至る途中に踊り場やひどく長い階段があり、階段の一段一段は死への比類のない見習い期間であった。死ぬ時間をあたえてくれ、死人に生きる時間をあたえてくれる病気、時間を発見し、つまり生を発見する時間を与えてくれる病気だった。(…)エイズはぼくたちを生にたいして十分自覚的な人間にし、無知から解きはなってくれるのだ。ワクチンで不治の宣告が見直されれば、ぼくはまた以前の無知の状態に戻るだろう。エイズのせいで、ぼくの人生は大きく飛躍することができたのである。」(『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』エルヴェ・ギベール著、佐宗鈴夫訳、集英社文庫、1998年、193-194頁)

ショーンも仲間と電車に乗っている時、外を見ながら「エイズが自分の人生をどんな風に変えたのか考える時があるんだ。まるで人生が前より激しくなったような、世界の見え方が前とは変わってしまって、よりいっそう色づき、より多くの音が聞こえ、より活気づいたような気がする」と述べていた。すぐにショーンは冗談だと笑い飛ばしたけれど、エイズは多かれ少なかれ、彼らの青春を一層色濃い時間に変えていた。

ただ、ショーンが外部に対してはより一層活き活きと振る舞っていたのは、一種のアピールでもあったのだろう。ACT UPは「怒りによって結びつき、エイズ危機を終わらせるための直接行動に身を捧げる、多様で非パルチザン的なグループ」として、感染拡大が止まらないにも関わらず、まだまだ政府からも世間からも無視されていた1980年代後半に活動を開始した。写真家のNicholas Nixonは、極度に痩せた弱々しい「エイズ患者」の写真を撮影し、病の「実態」を世間にジャーナリスティックに知らせようとし、「ドライでありのままの、そして真摯な描写」と評されたが、ACT UPは当事者として、PWA(Person/People with AIDS)もこの社会の中に生きている(当然、恋もする)ということを示す必要があり、Nixonのような、哀れみと恐怖を引き起こすビジュアル戦略はとらなかった。

PWAとは単にウイルスのみならず政府の無関心、与えられるべきヘルスケアの入手不可能性、異性愛中心主義、人種差別、性差別といった形をとった制度化された怠慢によって健康が衰えていく人間のことである。
 わたしたちは要求する、活気と怒りと愛情に満ち、セクシーで美しく、抗議・抵抗するPWAの可視的な姿を。
(「エイズと共に生きる人々の肖像」ダグラス・クリンプ著、石塚久郎訳、『エイズなんてこわくない〜エイズ/ゲイ・アクティビズム』194頁)

ACT UPに参加していたLola Flashの写真は「必然性によって行動する人々、生きるために戦う人々」の姿を捉え、しばしばネガとポジを反転させる加工を行い、「異化効果」を狙った。ピンクトライアングルを始め、「反転」というアートの手法は、現状に対する大きな価値転換のための抵抗として有効と見なされていた。

ショーンは、16歳での初めてのSexでエイズに感染したという不運を背負いながら、感染させた方も感染した方も、十分な知識がなかったという責任がどちらにも等しくあると考え、自分を犠牲者、被害者とは見なしていなかった。ただし、ナタンに職業などのパーソナルな質問をされて意外そうに驚く様子からは、それまでは一定の距離を置いて恋人と付き合ってきたのかも、と想像させる。仕事に就かず「陽性者」としての活動にのみ生きる自分が誰かと共に歩む「未来」を夢みることには消極的だったのかもしれない。しかしナタンに出会って、自分の抱える不安や寂しさを打ち明けることができるようになり、一緒に住む家を借り…彼には幸せな時間がたくさんあったということが本作では活き活きと描かれている。行動を起こすための原動力は、怒りと同時にやはり「楽しさ」なのだ。

画像15

監督はこの映画では、「集団」の力を描くことに重点を置いていたけれど、同時に、この病気のもつ「孤独」について語ろうと思ったとインタビューで述べている。グループが中心の前半と個人に焦点が絞られていく後半の明暗の差には胸を締め付けられる。戦士の休息時間とでも言うような美しいクラブシーンは、映画中何度も挿入されるので、ショーンの表情の変化から病状の悪化が見て取れて、辛い。そして生命の鼓動が鳴り響いていた本作は、沈黙で終わる。二人が肝心の計画について語り合うシーンも、また、別れを惜しむようなシーンもない。センチメンタルな場面を排したことで、逆に映画としての強度は圧倒的で、見る者の心を打ちのめす。


いま、パンデミック最中に本作を見直すと、また新たな発見がある。示唆に富んだ日本公開当時の石丸氏のブログでは「〈世間〉はいちども、当事者だった例しがありません」と書かれていたけれど、いま、我々はみな当事者になっている。エイズが非常に限定的なことでしか感染せず、コンドームなど、予防方法が目に見えてあるウイルスであるのに対し、我々がいま対峙している変異し続ける感染症の厄介さはまだまだ底が知れない。しかし感傷的な隠喩かもしれないが、「病いは文明の内なる鏡」(中村佑、137頁)であり、エイズという病はゲイ運動を加速させて世間の意識変革を進め、マイノリティの人権を大きく認めさせた。その政治アクティビズムは具体的に誰かの命を救い、誰かの意識を変え、我々の今を築いている。パンデミックを世界をよりよくするチャンスにしていけるかどうかは、我々にかかっている。


____________
余談「私とBPM」
2017年にカンヌで公開された本作は、2018年の春に日本でも公開。
その頃はなんとなく『EDEN/エデン』(2016)のようなハウスミュージックの映画なんだろうな、と想像しながら、忙しくて見に行けなかった。その後、2019年5月にWOWOWでの放映時にようやく見て、完全に打ちのめされました。その後、本作を見返すうちに、日本語字幕がしっくりこないところが気になり、他言語の字幕を参照するために各国版DVDを買い集めたり、音楽集めたり、Tシャツ買ったりしているうちにこんなことに……

画像6

ナウエルさんの演じるSeanのことは好き過ぎて、すぐ泣けるくらいだけれど、ナウエルさんだけでなく、Campillo監督の前作『Eastern Boys』(←これもとても面白い!)でも音楽を担当していたArnaud Rebotiniもとても好きになったし、今のフランス語映画全体への興味が一層高まって、おかげで素晴らしい映画にたくさん出会えた。「もっと分かりたい」と、アンスティチュ・フランセへ通い出し、早2年…。その間、ナウエルさんの舞台を見に行くはずだったのはダメになったけれど、この映画は私を大きく動かしました。
ナウエルさんフィルモグラフィーを日本語で書いてもさしたる受容はなさそうだけれど、日本語のこの映画の感想を見ていると、「行動が過激すぎて賛同できない」、「男性同士のセックスシーンが受け入れられない」というものがちらほらあるのがずっと気になっていた。前者に関してはその背景を知れば全然見方が変わると思うので、このテキストが少しでも役に立てば嬉しい。後者に関しては、公の人の目に触れるところにそういうことを書くのは完全にアウトだということを自覚して欲しい。
そして何より、もっとたくさんの人がこの映画を見ることを願って…。


【参 照】

「アートを通じたメモリーワーク―忘れないこと、〈語りなおす〉こと、新たな〈共〉を生み出すこと ―忘れないこと、〈語りなおす〉こと、新たな〈共〉を生み出すこと」中村美亜
「黙示録を生きる私たち〜癌・エイズからコロナまで」中村佑子、『すばる』2020年9月号
エイズなんてこわくない〜エイズ/ゲイ・アクティビズム』田崎英明編、河出書房新社、1993年
『新版 隠喩としての病 エイズとその隠喩』スーザン・ソンタグ著、富山太佳夫役、みすず書房、1992年
『LGBTヒストリーブック 絶対に諦めなかった人々の100年の闘い』ジェローム・ポーレン著、北丸雄二訳、サウザンブックス社、2019年
『セックスとナチズムの記憶〜20世紀ドイツにおける性の政治化』ダグマー・ヘルツォーク著、川越 修/田野大輔/荻野美穂訳、岩波書店、2012年
『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』エルヴェ・ギベール著、佐宗鈴夫訳、集英社文庫、1998年