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50|パニック障害と共に生きる②

病院に通い始めて、早3年。
当時は高校2年生だった。

時はいつの間にか過ぎ去り、私は春から大学3年生になる。

長い、3年間だった。いや、まだ何も終わってなんかいない。私は今もこの病気に苦しめられている。

あれから、高校3年生に上がった私は、高校最後の一年を満喫している、はずだった。
しかし病気に蝕まれた私の現実はそんな上手くいくわけもなく、正直言って、記憶がない。


記憶が無い高校3年生

もちろん楽しいこともたくさんした。
大好きな友だちと出掛けたり美味しいものを食べたり、自分からプロジェクトに参加してデザインを担当したりと、それなりに充実していた。

一方で、学校に辿り着くことで精一杯の毎日が続いていた。
電車に乗れない。乗れても降りてしまう。やっと駅に着いたのに学校まで歩く体力がない。学校に着いたのに教室に入れない。
結局保健室に入り浸る毎日だった。

テストは愚か、授業の単位さえ怪しかった私は、受験を諦めた。成績が悪すぎて『卒業見込み』にならなかったからだ。

ずっと行きたかった大学があった。
私の憧れる先生たちがみんな行っていた大学。
そこで、障害児教育について学びたかった。

でも、できなかった。

甘えだと思った。親にも呆れられた。
どうしてがんばれないんだ。
どうして踏ん張れないんだ。
辛い時こそがんばらなきゃいけないんだよ。
ほんと、情けない娘だ。そう言われ続けた。

昔から学校を休みたいという私の要求が許されたことは一度もない。熱があれば休ませてくれる。逆に熱がなければ、絶対に休ませてくれない。理由も聞かずに否定された。そんなの気持ちの問題だ。あんたが弱いからだと。

そうして毎朝意地でも家を出た。
こんなところにいたくなかった。
でも私の体は外に出かけること、がんばること、楽しむこと、そんな当たり前を、許してくれなかった。

それでも支えてくれた友だちがいた。
その子のおかげもあって、私はなんとか進学先を決めた。

いろんな薬を試して少しずつ少しずつ安定していったところと、進路先が決まり、精神的負担が無くなったこともあって、大学に入る頃にはだいぶ回復もしていたように思う。


通学片道2時間の大学1年生

大学までは片道2時間の日々だった。
朝6:30に家を出て、帰ってくるのは夜。
ラッシュに揉まれながらの通学は本当に苦痛だった。

それでも新しいことを学ぶのは面白かった。
自分のやりたいことを諦めたくなかった。

そして少しずつ、自分の扱い方というのも分かってきたところがあった。
私はこういう人間です。こんな風に困ることがあります。だからこうさせてください。そうやって各所で説明できるようになり、自分から配慮を求められるようになった。

これが、「共に生きる」を覚悟した時だった。
完全に治ることはない。あっても遠い未来だと悟った時だった。

そのおかげで、自分はこういう人間なんだと思えるようになった。できないことがあってもしょうがないと思えるようになった。もちろんできる限りはがんばる。それでもできないことはできませんと言う。そうやって言える理由ができたから。

パニック障害を持っているということが、一種の免罪符であった。

ありがたいことに優しい人たちに恵まれ、その免罪符を使いながら、授業も部活もバイトも、自分なりにがんばっていた。

とても楽しかった。
苦しかったけど、とてもとても充実していた。


自分と向き合う大学2年生

大学2年の夏、一人暮らしをはじめた。

まあそこの経緯もいろいろあるのだが、とりあえず置いておくとして、ひとつ大きく変わった点があった。

電車に乗らなくていい、ということだ。

私は逃げたのだ。
電車を使わない日々を選択した。
それは、向き合わずに、逃げること。
私は今も弱くて、弱い選択をしてしまったのに、日々のハッピー度が40%くらい上がった。病院の先生に「逃げても別にいいんじゃない?」と言われた。肩の荷が降りた。
もうこれはいいや、と切り捨てることも時には大事なのかもしれないと学んだ。

その代わり、たまにの外出のハードルはさらに高くなった。
はじめに比べれば薬も使いながらだいぶどうにかできるようになってきた。でも、行っても帰って来れないとか、あるある。

それでも本当に少しずつ、少しずつ、できることが増えてきた。

近場なら友だちと泊まれるようになった。
映画館で映画が観れるようになった。
一人でふらっと好きなところに行けるようになった。

それがどれだけ嬉しいことか、分かるだろうか。

毎日起こしていた発作も、頻度が減った。
今は週に1回あるかないか。
できることが増えたのはとても嬉しかった。

なのにどこかで不安な私もいた。

免罪符がなくなってしまう。
また私は、ただの弱いやつになってしまうのだろうかと。
できないのは全部努力が足りないからと、また言われてしまうかもしれない。
都合のいい時だけ発作を使ってると思われるかもしれない。

そんなことを考えたら、このままでもいいかも、そんな最低なことを思ってしまう私がいて、イライラした。


最近

そんな調子が良い日々が続いていた時、最悪な2日間が私を襲った。

慣れない場所での演奏。
そこに着くまでには長い電車での道のり、苦手な早起き、緊張、人混み。
時間が経つにつれ、徐々に硬直していく全身。

だいじょうぶ。だいじょうぶ。
私はだいじょうぶ。

そう呪文のように唱えているのに、ほんの少しの心の隙間に恐怖と不安が入り込んでくる。

気持ち悪くなったらどうしよう。この場で吐いてしまったら?お腹痛くなったら?ああどうしよう、どうしたらいいの、うるさいうるさいうるさい、眩しい、もうやめて、必死に抑えているのに

悲しくないのに涙が溢れてきた。
せっかく耐えていたものが決壊したようだった。

私の頭の中は大混乱。まさに“パニック”。

この病気の症状は人それぞれだが、苦しむその様子は、「陸で溺れているようだ」と言われることがある。

苦しくて苦しくて息ができない。心臓がバクバクして冷や汗が止まらなくて、動いていないとおかしくなりそう。過度の緊張状態から声は出ないし、手足はすごい力でガチガチに固まっている。苦しい。助けて。どうしようどうしよう。死んじゃう。

ねぇ、たすけて。私を救って。
誰かに触れていたい。誰かの手を握っていたい。どうか私のことを繋ぎ止めて、この海から引き上げて欲しい。そんな思いで縋りついてしまう。

傍から見たら、ほんと、おかしな人だと思う。
3年かけて積み上げてきた経験という安心が崩れていく瞬間。

それでも隣にいてくれた君。

ごめんねがたくさん出てくる。迷惑かけてごめんね。時間奪ってごめんね。嫌な姿見せてごめんね。
でも、言うべきはごめんねじゃないと私はもう学んだんだ。
ありがとう。一緒にいてくれてありがとう。君のおかげで戻ってこれた。救われた。ありがとう。


思い出す、彼女のこと。

高校時代、とても仲が良かった子がいた。
行きも帰りも学校でも休みの日も、ずーっと一緒にいた。私たちは気があった。

徐々に、私は彼女を頼りにするようになった。
しんどい時、手を握ってくれた。だいじょうぶだよって抱き締めてくれた。いつも私の欲しい言葉をくれた。優しかった。

そんなことを繰り返していたら、ある時から彼女の返事が冷たくなった。

これ以上は、ごめん。と言われた。
私はあいちゃんのこと救ってあげられないんだよ。何もしてあげられない。頼られてもどうしていいか分からないの。

彼女に負担をかけすぎていたことを、私はやっと気づいた。気づくのが遅すぎた。

友だちの関係だったのに、いつの間にか弱い人とお世話係になっていた。してしまっていた。

本当に申し訳無いことをしたと思っている。

でも、勘違いして欲しくないことは、私たちは今でも仲がいいということ。
よく会うし、いろんな話をする。家にも泊まりに行く。一緒にいて苦じゃない、大好きな子。

ただ、もう私たちの中には、暗い話やしんどい話はない。しないことにした。私が。

それでも例えば帰りの電車でしんどくなった時、彼女の手をぎゅっと握れば、握り返してくれる。本当に優しい子なのだ彼女は。私には十分なくらい。でももう、隣にいる彼女は何も言わない。だいじょうぶだよと微笑んでくれることはない。

ただ手だけをぎゅっと、掴んでいてくれる。





その見ないようにしている部分を思い出すと、胸がきゅっとする。彼女には本当に悪いことをした。

そして私は決めたのだ。
できる限り、自分で立て直せるようにする、と。

大学に入ってからは、なるべくがんばった。
やばいなと思った時点で他の場所に避難する。落ち着いてから戻ってくる。ひとりでできるように。

そのうちみんなは、ああそういう子なんだなと私を認識してくれるようになった。

たまにいなくなる子。
体調悪い時がある子。

「おかえり!」と言ってくれた。

でも、どうしようもない時もあった。

合宿の夜、廊下で蹲っていた私を、隣でとんとんと優しく見守ってくれた子がいた。
「だいじょうぶ、いつもとなんにも変わらないよ。心配することは何もない。大丈夫。」そう言いながら、自分の辛いこともぽつぽつと話してくれた。

疲れていた日の電車で恐怖に襲われた私の手を、そっと包み込んでくれた子がいた。
その子の手も、焦りで汗をかいているのが分かった。

耐えていたものが決壊して泣いてしまった私を隠すように、隣に立ってくれた子がいた。
「ごめんね」、そうへらりと笑った私に、笑った顔が見れて良かったと言ってくれた。

頼る度、怖くなる。
また負担をかけるかもしれない、見放されるかもしれない。

でもわかったのだ、彼らもなにか弱さを持っているかもしれないし、それがわかるからこそ隣にいてくれるのだということが。そして私が困っている時、彼らも戸惑っているということが。

私は、みんなは強いのだと、誤解していた。
だから私を護ってくれるのだと。

ちがう。

弱いから、一緒に、隣にいて、だいじょうぶって言ってくれるんだ。
だいじょうぶ、きっとすぐに良くなる。確信があるわけじゃなくて、そう信じてるから言ってくれる。
自分も怖いのに、私の恐怖を少しだけ一緒に持ってくれる。

みんなは強いから頼っていいんだと思っていた。間違っていた。

私はこれからもできる限り自分のことは自分で面倒みれるようになる必要がある。

でもしんどい時、ほんとに無理だって時、「これ持って!」じゃなくて「手伝って」って言うのは、いいのかもしれない。
みんながそう教えてくれた。

自分のことを話して分かってもらおうとするなんて、なんて烏滸がましいんだと思っていた。ちがう。相手への最低限のマナーだ。相手が困らないために私の話をさせてもらうんだ。相手だって怖いんだから。

そして、ごめんねじゃなくて、ありがとうと伝える。

あぁ私はなんて、幸せなんだろうと思う。
支えられて、生きている。

私はどれだけみんなのお話を聞かせてもらえるだろう。どれだけ手伝わせてもらえるだろう。私がもらうものはやっぱり返すものより多くて、負担になってしまうかもしれない。

でも私もたまにはお返しするから。
いつでも一緒に荷物を背負うから。

こんなに弱い私で申し訳無いけど、弱い私だからできることがあるかもしれない。
隣にいてくれることの心強さは、誰よりも知っているよ。

いつもありがとう。今日もありがとう。

君のおかげで、生きている。

私はこれからも重い荷物を背負って歩く。

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