「トランスエイジ」は本当にたわごとか

昨今、Twitterではある一つの概念が話題になっている。
「トランスエイジ」。言うなればそれは「年齢版トランスジェンダー」であり、性別のみならず年齢も生物学的年齢、実際に経験した時間とは別の自認ベースで考えて良いのではないか、という概念。
思考における性別とは違い誰もが明確に体感するものである「時間」に背いた以上、成立したばかりのそれは必然的に冷笑と嘲笑と手厳しい苛烈な非難の対象としてインターネット・言論のスポットライトを浴びる事となった。
アンチフェミニズム系、女権拡張系、保守系、冷笑系。右も左も多くのインターネット言論アカウントが肩を並べて連日のように全否定し、「気の狂った活動家はとうとう一線を超えてしまった」というストーリーに沿って激しい非難を寄せている。

しかし思うのだ。そもそも、本当に活動家の利益だけでこういった概念が成立する事があるのだろうか。
私は個人的な体験から、この概念は「本当に必要とする人がいて生まれた」と考えている。
無論、その望みを「トランスエイジ」という形で実現すべきだとは考えていない、即ち私はトランスエイジ推進派ではないのだが、門前払いする形の批判一辺倒でまるで議論の深まらないSNSに辟易した為、より建設的な考察を推進するべく、考えをここに述べさせてもらう。

注記:この記事は、飲酒中に書いた下書きを一ヶ月後の飲酒中に読み返してわずかに加筆し、そのままの状態で投稿されたものです。
記事構成としての起承転結が不足していたり、或いは何か不足部分があるように感じるかもしれませんが、「そういうもの」として受け取っていただけると幸いです。

そもそも、年齢とは何か。
定義上においては間違いなく、「その個体が生後過ごした年数」を示す数字に他ならず、それ以上でもそれ以下でもない。1年生きれば1歳になり、23年生きれば23歳になり、75歳で命尽きればそこで加算は止まる。
これは生命が一方通行の摩耗するものである限り不変の摂理であり、これを超越した生命は今のところベニクラゲやロブスターくらいしか存在しない。

しかし、我々が年齢を意識する時というものに目を向けると、明らかにこの定義通りの運用はされていない事が解る。
無知で無鉄砲な行いを目にすれば我々は「子供じみている」と感じ、大人しく意思表示を行わない子供を「大人びている」と表現し、素朴な色恋に励み相手の一挙一動にその度憂い喜ぶ様子を見てなんとなく17歳くらいだろうと直感する。
相手が25歳だと聞けば学校で恋敗れる経験を一度は通っただろうと認識し、老人を見れば人生経験を期待し、10歳のゲーム好きの子供を見ればきっと親に頻繁に人気ゲームをねだったりしているのだろうと想像する。
要するに、我々含め社会には「この年齢でこういう経験をするだろう」という認識上のテンプレートが存在し、年齢というものはそのテンプレートの何割を進行したかのサインとして運用されている。これは社会において「個々人の特性を認識する」という行為のコストを下げる為のシステムだ。
誰もがここに挙げられた例の数々を当たり前のものだと感じるだろう。当然だ。筆者としても普遍的な感覚を挙げたというつもりでいる。

さて、すこし話は変わるが、筆者は高校を中途退学した俗に言う「中卒」だ。
小学生時代は学校以外のほぼ全ての時間を家で本を読みゲームを一人で遊びPCで大した事の無い動画を作る事のみで過ごし、中学生時代も友人を作らず家で同じように過ごして途中で人間関係トラブルのちょうど中間に巻き込まれて精神を壊し、不登校から復帰を目指した高校生時代も結局同じ事を繰り返した。そうして自殺未遂すら起こす気力もないという状態で鬱でくたばっている間に気がつけば時間は経ち、気がつけば「中卒」という烙印が私の背に刻まれる事になった。
この期間に色恋沙汰は一つも無く、ゲーム以外における友人との繋がりは皆無に近く、夢はなく、喧嘩も殆どしていない。勉学に本気になる事もなければ他の何かに本気になる事もなく、ただ単調に呼吸を続けていた。
他の一般的な人間がこの年齢に至るまでに積む人間関係の数々を、自己主張の数々を、ほぼ全くと言っていいほど行っていない。勉強をして、創作をしていただけだ。

これが、社会においては一様に「20代」という括りの中で扱われる。
人間として人と接する経験を積み、人に恋するという気持ちを体感し、その時しかできない楽しみも苦しみも味わった末に然るべき成長を遂げたものだとして扱われる。

根拠はただ一つ、生後何年が経過しているかを示す数字のみだ。

これは果たして妥当なのか?然るべき経験を積む機会を失った人間にまでそれを要求し、然るべき楽しみの経験という利益を得ていないものに対し既にそれを経たとして扱いその分の労苦(ツケ)を課そうとする。それは果たしてフェアなのか?闇雲に人を苦しめるだけではないか?誰が幸せになるんだ?
こういった感情が、声が上がる事は極めて妥当だろう。

正直、この立場は非常に苦しい。
20代までの年齢でのみ得られる特権の恩恵に何一つとして与らないままにそれらを失い、「もう十分楽しんだだろう?お前の残りの人生は全て「それを済ませた奴向け」だ」というメッセージだけは人並みにしっかり向けられる。全く享受していないはずの特権の、そのツケだけはしっかりと徴収される。
その人生を生きてやろうにも前提とされる経験を持たず、出会う人全てから「共通言語を君は持っているのだろう?」と期待され、訳も分からぬまま当然のように失望され、そうして社会から疎外され、不可視化され、いつか耐えかねて死神にハグをする日まで誰も居ない場所でこうしてスノーケルにしがみついている暗黒の未来が、色鮮やかにありありと眼前に浮かぶ。
分かりやすく言うなら、「中卒は雇えないな」と多くの職場に門前払いされ、実家暮らしでバイトを行き来し続けた末にやがて耐えかねて自殺する自分の未来を確信する。
何が悪い?苦難のなか光明の一筋も無しに耐え続ける忍耐力の無かった私か?私を然るべき年齢のうちに然るべき場に連れ出せなかった保護者の類か?それらが悪かったとて、とうに終わった過去を恨んだとて誰が救われるのだろう?ならば我々に救いは無いのだろうか?と、こういった立場の人間であれば誰しもが思う。

その先に救済を求め、「年齢」というあまりにも強大な存在を敵と見做して挑む。これはそう理解し難い考えではないだろう。
年齢ベースで自分を、その能力を測られるから苦しみが終わらないのであれば、年齢という概念をフレキシブルにしてしまえばいい。
実際、「青春の再履修」ができればそれだけでどれだけの人々が救われるだろう、と考えるのは、何ら間違った事ではないだろう。
その手段として彼らは年齢のハックを選んだ。無論、そういった考えの人間が全てを占めるというほど一枚板の集団ではないだろうが。
ましてや世の中には飛び級という概念が存在する。ごく限定的な範囲とはいえ、年齢という概念に対して「特例」が認められた実例を目にすれば、「飛び抜けて有能な奴らをより伸ばす為には使っていいのに何故俺達を救う時には曲げられないんだ?」と疑問を持つのは自然なことだろう。

実際、トランスエイジという概念は私のような層にとっては一見魅力的だ。
もう一度10代を行えれば。ひたすら壁の方を向いて小説のページをめくり続けるような事は二度としない。皆のようにあんな事やこんな事をして、それで私はどう変われるだろう、と。
僕だって私だって真っ当な人生を歩みたい。きっとその方が、最終的には社会に対して真っ当な価値を提供できるだろう、自己満足だけでなくこれはきっと公に利益を生み出す考えでもあるだろう、と。

しかし、この眩いばかりの希望はあまりにも惨めな現実の前に打ち砕かれる事になるだろう。
我々の身体は、これまでもこれからも、年を重ねている。
我々のテロメアは時間が経てば縮みくたびれ、髪は少しづつ白みを増し、全身の軟骨は重力により圧し潰され、気がつけばコロッケをいくつも食べられない身体になる。
普及しつつあるトランスジェンダーにおいてはまだ、異性の身体的感覚など確かめようがないのだから、「できる事」を全て行えば「多少は近づいた」と思う事もできるだろうが、我々は皆若い頃に自分の身体に何ができたかを知っている。いくら髪を染めようがその必要が無かった事を感覚で覚えているし、昔は油物が幾らでも食べられた事も、濃厚な家系のスープを飲み干して完まくご馳走様と笑顔で町田商店を後にしていた事も、どれだけ走っても二日後には元気だった事も覚えている。
あの頃はフレーム表なんか知らずにスマブラを遊んでいて、あの頃は駄菓子屋で買ったばかりのチョコを開けてくじの結果に一喜一憂する事になんの恥じらいもなかった。
あの頃は割り算の筆算すらも時々忘れていたし、サインコサインタンジェントが難しい概念の代表格だった頃があった。それを我々は覚えている。
こればかりは、外界の情報を得ながら生きている限りは避けられない。

性別適合手術を行ったとて「結局救われなかった」と死神に泣きつく人々は少なくないというのに、年齢にはメスを入れて「ひとまずは永続的に(以前の身体的性別)ではない状態だ」とするような策さえも無いのだから、トランスエイジという形では恐らくはどこまでも救われないだろう。年を食えばどれだけシワを伸ばそうが身は衰える。
おまけに、その姿は周囲の人々の目にも同様に映る。幾ら本人は10歳相当の経験しか積んでいなくても傍から見れば稚児の群れに迷い込んだ哀れな老人であったり、自分がこれまで生きてきた時間というものをまるっきり忘れてしまった存在であるようにしか見えない。この差もまた大抵の場合、他者の目に対してはトランスジェンダーのそれより遥かに大きなものとして表出し、結果として「奇異なものとして遠ざけられる」悲痛な運命が半ば決定されている。
価値観、姿、能力、関節痛、白髪、奇異を示す視線、凝り固まったプライド、消せないしょうもない記憶、その他諸々思いつく限りのものが「生物的15歳」との差を雄弁に物語り、私達の期待はいとも容易く打ち砕かれる事になる。

そもそも、トランスエイジという概念はこういった苦しみに対しては自らの首を締めるようなものだ。自己矛盾に陥っている。
年齢でジャッジされる価値観を嫌っておきながら、年齢という価値観に解決方法を委ねた上で本来の「経過した時間を示す数値」という役割を破壊してしまえば、それは「年齢によって人間を計る」という行為の肯定に他ならない。
それは結果的にはより心身の年齢の一致の価値を高めるだけであり、最終的には自らを排斥の彼方へと追いやってしまうだけの結果になると私は考える。
そういった苦しみを救うには、恐らくは年齢を本来の意味に戻してやる、つまり「あくまでも経過時間を示す数値でしかない」という状態に戻してやる方が適切なのだろう。もっとも、これが非現実的だと誰もが理解しているからこそトランスエイジという「不正解」が「望まれて生まれた」のだろうが。

だからこそ、このトランスエイジという概念は「今のままではいけない」のだ。
「トランスエイジの是認」という形で素通りすれば、それは彼らを決して救えない。それらを今のように公共のサンドバッグとして冷笑し嘲笑し非難し続ければ、彼らはただより深く心身を病んで水面下で苦しみもがいた末に死んでいくだけだ。
多分、私もその一員になる。
このトランスエイジという概念は、望まれて生まれた不正解だ。「苦しんでくれ、お前を救う術が無いからには仕方がないんだ」とただ切り捨てられるのはあまりにも苦しいと嘆いた人々の祈りに形を与えたものがこれだ。例え無い方がまだマシなものであっても、それは切なる祈りだ。
既にこの概念が生まれてしまったからには、ただ愚かだと切り捨てるのではなく、かといって思考停止で受け入れるのでもなく、「より良い着地点を探す」か、これだけ弄くり回しておいてそれは嫌だと無責任に言うのならばせめて、これまで通りの場所に軟着陸させてやる形で「元に戻して忘れてやる」しかない。
今のようにただ全否定して罵り尽くすだけでは、ただ不幸な人をより不幸にするいつも通りで最悪のエンターテインメントが数年ほどインターネットに供給されて、それで終わりになる。

どうか、論じてほしい。最後に褒めろとも肯定しろとも言わない。ただ、これを論じる価値は、十分にあるだろうと思うのだ。


あとがき
この「トランスエイジ」という概念にまつわる物事が「インターネット上に罵倒と嘲笑のはけ口が一つ増えただけ」「侮蔑語が一つ増えただけ」というオチに終わると、それは多分誰にとっても一番不幸な終わり方だと思うので、その方向を冷やかす事さえできれば目的達成。あとはもうどうでもいいという気持ちです。
多分、それで一番深い傷を負うのは活動家じゃないので。

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