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*私の人生を見返してみる


久しぶりにnoteを開いた。
今日はとてもセンチメンタルな日。
きっとそんな1日もなにか意味があると信じて、ただ考えたことを残そうと思う。
だれに見せたいわけでもない、でも自分の中に留めておくだけではやりきれないなにか。。


私はどこから間違えたんだろう


最近ふとそう考えることがある。
自分の性格、現在の人間関係・環境、その他諸々。
正解はわからない、なにかどこかで間違えたのか、別にそんなことはないのか。確かめる術もない。
私が私に至ったこれまでを自身で整理するための場としてこのnoteを使わせてもらうことにする。


*我慢の3年間

1998年、長女として産まれた。
父は祖父と共に、自営業。そのときはそこそこの稼ぎだったそう。
両親からはもちろん、父が男兄弟だったこともあり初孫かつ女の子の私は父方の祖父母からもとても可愛がられていた。
2001年、3つ離れて妹が産まれた。
残っている写真を見る限り、私はとても妹を可愛がっていたようだった。
妹も母も退院して幸せな日々を送っていたなか、徐々に母の体調に異変がでた。
(当時は幼すぎて覚えていないのでここから少し母に聞いた話)
動悸、息切れをしやすくなり、極度に疲れるようになった。
「寝とけば治る」
田舎育ちで自由に育った母は、そう言ってすぐには病院に行かなかった。
次第に寝ても起き上がれないほどの倦怠感が母を襲うようになり、私と妹が産まれた総合病院で診察をうけた。

II型糖尿病

そのとき母はそう診断されたそうだ。
もちろん、幼い私と妹はわかるはずもなかった。
物心がついたころにはすでに母が食事の度にインスリンを打っていた。

幼稚園 年中(5歳)
その頃には母の目に白内障の症状が現れた。
それ以外にも体調を崩し、入退院を繰り返す母。
もちろん母の体調次第だが、幼稚園への送迎のほとんどは近くに住む祖母が代わりだった。

年長(6歳)になるころにはほとんど母の目は見えていなかった。
手を繋いでもらう、ではなく、私が母の手を引いて歩いていた。

小学校にあがり、初めてのことがたくさんあった。
病気が悪化し、薬の影響で文字通り骨と皮だけのような痩せこけた顔、体つきの母。
ついに、全盲になっていた。
4歳になる妹はなにも気にせず、とても自由に無邪気に動き回る。
そんな妹を横目で見ながら、母の手を引いた私。

初めての運動会。
全盲の母は見えないながらも足を運んでくれた。
「初めてのリレーもダンスも見れないの悔しいなぁ」って小さく言うのを聞いて、悟られないように声を殺して泣いた。悔しくて、寂しくて、哀しくて泣いた。
行事のときに周りの家族を見ては、少し辛い気持ちになった。母が悪いわけではないのだけれど。

いつも色々頑張っててえらいねって、お母さん大丈夫?って周りの大人たちにそう言われ、
大丈夫なわけないし、妹にしろ母にしろ私がやらないと誰もお世話してくれないじゃんって心底言いたい気持ちを抑えて、笑った。

大丈夫ですよ!ありがとうございます☺︎

この頃から八方美人が完成したのかもしれない。



つづく。


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