東大生の僕は、東大を舐めている

初めまして。いわゆる普通の東大生、通称イワ東の寺道と申します。

僕の立場が分かると思うので、最初に僕の経歴を紹介しておきましょう。

公立小学校→灘中学校・高校→一浪→東大文3→(教育学部)

僕は中学受験で灘中に合格し、一浪したものの東大に無事合格した、現役バリバリの東大生です。

さて、トレンドに敏感な皆さまであればタイトルを見た時点でもう、僕が念頭に置いている例の記事が思い浮かんでいることでしょう。

こちらの記事ですね。東大に入るのは生半可なことではなく、時に苛酷、時に残酷である。だから東大を舐めるのもいい加減にしろよ、と。努力してから言ってみろよ、と。

そして、こちらの記事です。上の記事に援護射撃するかのように、世の人が東大を舐めに舐めているという実態が赤裸々に綴られています。

これぞSNSの醍醐味といったところですね。誰かが何かを発信し、それを受けてまた別の誰かが何かを発信する。この潮流は好ましいものだと思っています。

そういうわけで、僕も何かを発信しようと思い立ちました。

僕は代弁します。東大を舐めて東大に入ってきた東大生の気持ちを。

いや、代弁っていうと逃げてる感じが出るな……。僕の思いを、誠心誠意語りましょう。

結論を述べておきましょう。僕はこれらの記事に対して反論、異議申し立てを行うつもりは一切ありません。あくまで感想を述べるにとどまります。

中学受験における親の過度な期待、勉強の強制、そして虐待まがいの事態があるのも事実だと思いますし、当然あってはならない。また、「東大出身であることによる差別」もあってはならないものだと強く思います。

これらの記事によって、そういった偏見・差別が解消されることを切望します(やってる当人は自分の小ささに情けなくならないんでしょうか)。


今回の僕が主張したいことの要点を述べておきましょう。

1.自分が東大に受かったことを「頑張った」とも「すごい」とも思っていない

そして、このことから発生すると考えられる、

2.世間の東大生バッシングに過敏に反応する東大生への違和感

どういうことか、説明していきましょう。

世間の東大生バッシングは実際にあるものと認めます。

僕はそのようなバッシングはどうでもいいと思っています。

一方で、(半ばギャグ、あるいは承認欲求を得るための手段なのでしょうが)過敏に反応する東大生がSNS上では散見されます。

東大生批判への敵意を表明するツイートには多くの「いいね」が付き、彼らの目的は果たされていると見えます。

僕はこの事態に違和感を覚えるのです。

そのツイートに、「いいね」押す??

てか、そんなに東大生批判、気にする??

もちろん「いいね」に込められた思いは千差万別でしょう。しかし、同意にしろ失笑にしろ、そのようなツイートを意識していることは間違いない。少なからず東大生批判に反応しているわけです。

そこで僕は考えるわけです。彼らはなぜ世間の東大生へのイメージを過度に気にするのか? 

東大生である自分に誇りを持っているからではないか、というのが第一に思い浮かびます。しかし、これだけならば僕も含まれると思います。鼻にかけるのとは違って、自分の所属に誇りを持つこと自体は何ら悪いことではないし、自然なことです。

違う点があるとすれば、「自分は努力して東大に入った」という意識があるかないか、ではないだろうか? 

努力して、必死に頑張って獲得した「東大生」という称号を、そんな苦労を何一つ弁えない人々から誹謗中傷されれば、当然不快な気分になるでしょう。

しかし、一方で東大に自身のアイデンティティを置きすぎていないか? と思ってしまうわけです。


僕は東大に受かったことを、別に大したことでもなんでもないと思っています。

実際、僕は運と家庭環境に恵まれていただけで、受験勉強においては特別苦労することなく東大に合格できました。受験生時代も、東大なんて大したことない(自分なら受かって当然)と思っていました。

僕が置かれていた環境に別の誰かを置けば、その人だって確実に東大に合格できるとさえ思います。(こちらの記事でも語っています。)

だから、自分が東大に受かったことに深い感慨があるわけでも、東大生であることにアイデンティティを感じているわけもない。東大に深い思い入れがあるわけではない。

だから、東大にいくらスティグマが付されようと、どうだっていいわけです。どうだっていいは言い過ぎかもしれませんが、いくら舐められようが貶されようが気にならないということです。

だって別に自分は「東大生」というよくわからない集合体なんかではなく、僕個人でしかないからです。僕は東大生という記号ではありません。

なんなら、東大のイメージが悪ければ悪いほど、自分は作られた東大生像とは異なることを示すことで、かえって評判がよくなるのではないかとすら思います。「東大」に依存しないがゆえのことです。

この意識の差が、東大生バッシングに対する反応の差なのではないだろうか??


このようなことを、僕は以前から考えていました。しかし、お前こそ努力せずに東大に受かったとイキっているだけじゃないのか、という非難も想定されました(決してそんなつもりはありません)。ですから発信することを恐れていたわけです。

今回、お二方の記事のお陰で踏ん切りがつき、発信することにしたわけですが、一番の主張を述べたいと思います。

東大生よ、東大生批判に噛み付くのはやめにしよう!

理由? 単に僕が不快だからです。僕vsその他の東大生という構図ならさすがに無謀でしょうが、僕と同じ立場の東大生も一定数いるだろうと信じています。泥仕合なだけですしね。

実際、東大を叩く人のほとんどは嫉妬に基づいているわけでしょう。勉強や受験は誰もが経験しているからです。自分もその競争に参加した(させられた)以上、東大に対して劣等感のようなものがある。偏差値という明確な評価軸の下で、序列が割り当てられてきた。

そしてやはり、社会においては高学歴な人の方が優遇され、得をするわけです(個人の資質も含めて)。もちろん逆差別のような事態もあるでしょうが、平均年収などの客観的な指標を見れば一発です。

こうした理由で、東大に対して嫉妬という感情を覚えてしまうのは仕方ないことだと思います。あるいは否定したくなるかもしれませんが、それならば東大生を舐めなければいいだけのことです。

つまり、東大生を必死に叩いてるような奴らなんて大した人間じゃないんだから、無視しておきましょう、ということです。

そして本気で抗戦したいなら、コジ東さんのように身を削って語るしかないでしょう、とも思います。それができないなら、無視するしかない。見苦しい真似はやめにしよう。

以上が僕の主張でした。


最後に、自戒を込めたメッセージを残しておきます。

東大生であることは、東大の学生証は、実に立派な証明書の役割を果たしてくれることは確かだ。しかし、仮に僕が今、東大に合格した事実を剥奪されたとして、何か僕に違いは生じるだろうか?(ただし僕は一度東大に合格したことで、自分が東大生に値する能力を認められたという経験は保持している。そのため「自信」というものを得ているとする。)僕そのものは、なんら変わらないはずである。東大生であることを言おうと言わなかろうと、僕が僕であり、僕の能力は全て僕のものであるという事実に揺らぎはない。東大という名、肩書に拘ることに何の意味があろうか? 自分が東大に入るに値する優秀な人物であることを示したいなら、違った方法で示せばいい。現にあなたは東大に入れたのだから、その優秀さは既に獲得しているはずなのである。それができないというなら、東大入試なんて所詮そんなものだ。

東大生を舐めているというのでは断じてない、ということを念のため述べておく。東大生には僕より優秀な、あるいは別のベクトルにおいて遥かに魅力的な人がたくさんいる。これは本心だ。同時に彼らと自分を比較することで、自分がどうしようもない、取るに足らない存在であることも強く自覚する。しかし、僕は彼らが東大生であることをたとえ知らなかろうと、彼らの魅力を感じ、敬意を称しているだろう。ただ同じ大学で学ぶ、学友であるというだけだ。肩書とは見せかけのものに過ぎない。外面しか見えない盲目の人々を納得させる用途しかないのである。


この記事を読んでくださった皆様のリテラシーを信頼して、筆を置かせていただきます。


(あれ、なんか最初書こうとしてた内容と全然違う……笑)



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ゆうひん

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