星々の悲しみ

 世の中には、誰もが知る小説の書き出しがある。今、皆さんは思い思いに色々な書き出しを思い浮かべたことだろう。優れた小説の数だけ、優れた書き出しも存在する。しかし、いくら素晴らしい小説を読んだとて、その冒頭を正確に記憶していることは稀である。それほどまでに強烈な印象を焼き付ける書き出しには、簡単に巡り会えるものではない。

その年、僕は百六十二篇の小説を読んだ。

 こんな一文で始まる小説がある。宮本輝の『星々の悲しみ』である。僅か60ページほどの短編小説だが、僕はこの一文から瞬時に魅了されていった。浪人生の主人公と予備校の仲間二人を中心に、三人が喫茶店から盗み出した絵画『星々の悲しみ』に象徴的役割を託しながら、物語は展開していく。恋や死という定番のテーマを交え、主人公の繊細に揺れ動く心模様を描いた青春小説である。
 今回この小説を紹介するのは、舞台が僕の地元と同じ大阪で馴染み深いのもあるのだが、なんといっても浪人生を主人公にしているというのがポイントだ。高校生や大学生のものは多々あるが、浪人生となると極めて稀である。僕自身も大阪で一年の浪人生活を経験したが、人生の転換点だったと思っている。立ち止まって内省する時期というのは限りなく貴重だった。
 不器用で切り替えが下手、一つのことにしか集中できない性格なので、ほとんど受験勉強に注力していた。当初はフランス語や日本史・倫理政経など受験に必要ない勉強もするつもりだったが、やはり継続できなかった。半ば体面を保つためだけに勉強した結果、成績的にはかなり余剰が生まれた。
 浪人生の至上命題は達成できたため、後悔は何一つないのだが、もう少し違った過ごし方ができたんじゃないか、と思うことはある。つまり、もっと読書をしておきたかったということである。いい息抜きであり必ずや知の蓄えになる読書を断つ根拠など存在しないのだが、前述の性格のためか参考書を除いた本をまるっきり読まなかった。
 さて、先程引いた冒頭の一文から判るように、主人公は浪人生活を読書に費やした。ある意味では僕が受験勉強に対してそうであったように、彼は読書に熱中し、ついぞ勉強には身が入らなかった。予備校はサボり倒して中之島の図書館に通い詰め、書棚のフランス文学・ロシア文学のコーナーを読み破ることを目標に掲げる。そうしてその年、百六十二篇もの小説を読んだのである。
 孤独であったわけでもない。偶然に知り合った予備校の仲間と急速に打ち解け、週に一度は自宅に招いてたわいもないお喋りに興じる。なんと素敵な生活だろう。もう二度と浪人生活を送ることはないだろうが、次に浪人のような境遇になったときには、彼のような日々を送ってみたいと思ったのである。その結果目的に失敗しようと、かけがえのないものを手にしているはずだ。

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