片想いの動悸がする

 ふらふらと、しかし未踏地を制覇するという確かな意図を持った旅に赴いたり、壮大な美術作品に相対して唸ってみたり、アルコールに我を忘れさせ熱狂に嬉々として飛び込んだり、古本屋の棚を隅から隅まで観察したり、堪え切れない自意識に言葉という形を与えたり、そんな風に過ごしていたら一年など決して長い時間ではなかった。毎年のことだ。

 今更昨年を回顧したって仕方ないのだが、過去を分析し未来へ活かすということには意味がある。そんな風に意識高く語るまでもなく、回想とは怠惰に他ならない。怠惰とは過去、そして未来志向のことである。しかし三が日までは怠惰を許してほしいと告げ、一つ昨年の話をしたい。

 十二月、中学からの友達と焼肉を食べにいったときのこと。ふと、最近嬉しかったことなどはあるかと問われ、僕はたじろいだ。質問の性質上、即座に思い出せない出来事であれば意味がないように思えた。だから最近は嬉しいことなど経験していないと答えた。少し情けなくなった。自らが無為に生きていることの強力な証左であるからだ。

 しばらく嬉しいという言葉を使っていないことに気付いた。最後にその感情を味わったのはいつになるだろう、それ以上遡ろうとすることはよしたが、概ね大学に入るまでで留まっているように思えた。当然、楽しいという言葉はよく使う。趣味に接している時はだいたい楽しく、特に苦労を要さない。一方で嬉しいは、大きく自らの達成と他者からの承認の二軸を基盤においており、ある程度努力的な営みを経て漸く得られるものである。

 僕は作為というものを毛嫌いしているが、頑張ることができない自分を無理やり肯定したいが故の性質に過ぎないことは自覚している。人生は、気ままに生きてナンボだ──。そう思いつつも、気ままに生きた方が結果的に豊かな人間性を蓄えることができ、ゆくゆくは素晴らしい文章が書けるだろうという烏滸がましい期待を抱いているのだ。これを作為と呼ばずしてなんと呼ぼうか。自分の撞着ぶりにはいつだって嫌気がさす。

 友達と別れてから、思い出したことがあった。はっきりと嬉しく感じた瞬間が二ヶ月ほど前にあった。本当に些細なことかもしれないが、僕にはほとんど初めての経験だったから、今後も忘れることがないように思う。

 僕は一昨年ブログを開設し、以降半ば意図的に、取り留めのない話をぼちぼち記述しているのだが、当然リアクションが返ってくることは稀である。今回の件も僕がエゴサをしたからこそ気付けたのだが、それは僕の(ある記事においての)文章が好きだという主旨であった。

 原文を暗記していることが恥ずかしいが、「この人の文章好き……。片想いの動悸がする」という文言とブログのリンクがツイートされていた。名も顔も分からぬ、普段何をしているかも判然としない人間の文章にめぐり合い、おまけに"片想いの動悸"なんていう詩的で美しい形容を賜うことができるとは、驚きであったし僕の方もドキドキした。

 文章には自分の全人格が現れると思う。もちろんあからさまな作為は排されていることが前提ではあるが、会ったこともない人にも僕の何か一部分でも伝わってくれたら嬉しいと思いながら書いている。彼女の言及は僕の達成であり、それ以上に人格を承認してもらえた嬉しさが心を満たした。相変わらずパッとしない昨年だったが、それでも自分なりに真剣に生きていれば、こうしたこともあるのだろう。そんな風に思いながら、今年も自分なりに真剣に、日々を歩んでいく。

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ゆうひん

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