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表現する人

表現者に憧れがある。

例えば音楽で、例えば絵画で、あとは全身を使って、喜怒哀楽を表現してみましょう。そういって表現することを求められてきた。
子供の頃は照れもあるし、特別やり方を教わるわけでもないし、そもそも、正解はないからねと教わっていたから、ただそれっぽく乗り切れば良いものにいつの間にかなっていた。

だけど高校大学と上がるにつれて、友達の中にも「表現できる人」が増えていき、彼らは賞賛された。いつの間にそんなもの身につけたのだろう。なんで私にはできないのだろう。

運動ならまだわかる。正解があるから。
早く走れる人、高く跳び箱を飛べる人、フォームの綺麗さとかはあったかもしれないけど、できる人とできない人はある程度子供の頃に分けられてたし、できない人もできないなりの生き方を身につけてきた。

だけど表現がわからない。

表現できる人への嫉妬は憧れとなった。
あっち側の人間がつくったものを、こっち側の人間はみて楽しめば良い。
表現の意図は理解できなくても、楽しめればそれで良い。
そんな感じ。

こないだ憧れの人と初めてふたりでごはんに行った。
ごはんと言ってもやよい軒なんだけど。

私にとって彼女は、表現者だ。

ものをつくる技術力を持っていて、そこに意味を持たせられる。
これにはこういう意味があって、だからこういうものをつくったのだと、躊躇なく説明ができる。

そして説明を受ければ私でも理解ができるものをつくる。なんでそうなったのか、その世界観は彼女だけのもので、私はただ、彼女の話を聞いて、わあすごいなあと思うしかできないのだけど。

だけど違った。

彼女の仕事の話を聞いていると、やりたいことはあるけどそれを企画書にまとめるのが苦手で、だからまずはプロトタイプをつくって文章を書くのが得意な人にプレゼンし、その人に企画書を書いてもらうのだという話が出てきた。
ひとりでできることは限られているけど、文章はたくさんの人に具体的にアイデアを伝達するのには便利だから、企画書に文章が使われる。それにプロトタイプをつくるのにはお金も時間もかかるから、本当はものに逃げないで自分で書いて伝えられるようにならなきゃという話だった。

彼女はものをつくって、そこに意味を持たせているのではなく、初めに伝えたいことがあって、それを彼女なりの手段で他者に共有している。文章を書くことも、ものをつくることも、手段としては並列に存在していた。

これは私にとっては革命的な気づきだった。

文章を書くのが簡単というつもりはない。
うまい文章ってなんだろうとすごく思う。

だけど、つくったり表現したりすることってそんなに難しく考えなくても良いんだ、って。友達とおしゃべりしたり手紙を書くように、伝えたい事柄を何かの形にすれば良いんだなって。
そんな道筋を示された感じがして、発見でした。

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