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「羊をめぐる冒険」 / 村上春樹 解釈

羊3部作の最終作。
この物語において、”羊”が人間の中に巣食う悪しき”欲”であることは、疑いようも無い明白な事実だ。

“欲”ではなく”根源的な悪”であるとする解釈も数多く見受けられるが、私はあえてここで”欲”であると定義したい。

なぜかというと、現実世界において羊はとても繊細で臆病な生き物であり、ある意味弱さの象徴でもあるからだ。

その羊が、わざわざ人間に憑依してまで「完全にアナーキーな観念の王国」の創造を望んでいたのは、その根底に紛れもない、”欲”があったからであろう。

世に溢れる事象を因数分解していくにつれ、何が正で何が悪なのか、二項対立的に判断がつかなくなるケースは多々ある。

そもそも、”根源的な悪”は存在し得るのか。それすらも定かではない。

この世において確かなことなど、おそらく何一つないのかもしれない。


さて、話が逸れてしまったが、
この最終作は、”喪失”の物語とされることが多い。(もっとも、”喪失”は”生死”と並び、村上の作品中に頻出する共通テーマであると言っても過言ではない。)

妻、
共同経営者、
素敵な耳のガールフレンド、
そして、鼠。

私がふと疑問に感じたのは、
本当に”喪失”なのだろうか、ということだ。

“喪失”というと、その要因は自身とは無関係のところにあり、まるで「最愛の者を失った」と言わんばかりに、”被害者”的側面が強いような印象を受ける。

だが、本作品で主人公は、その「最愛の者」達を自ら手放しているのだ。

たとえそのような結末は、主人公が望んだものでは無かったにしても、結果的に主人公が要因で、彼らはその元を去っている。

もう少し正確に言えば、主人公の”他人への無関心さ”が、要因であったのかもしれない。

事実、出会ったばかりのはずの羊男にさえも、初対面でいきなり怒鳴られている。

「あんたが女を混乱させたんだよ。とてもいけないことだ。あんたには何もわかっていないんだ。あんたは自分のことしか考えてないよ」

理解あるふりを装い、自ら壁を作り、殻に閉じこもった結果が招いた末路。
もう少しだけ、自ら手を伸ばしていれば、取り返せるものもあったのかもしれない。
だが、主人公はそうしなかった。

「ジェイ、もし彼がそこにいてくれたなら、いろんなことはきっとうまくいくに違いない。」

思わずそう漏らしたくなってしまうのも、わからなくはないが。

しかし、少なくとも、ジェイの店の共同経営者として、主人公が鼠と共に余生を歩むという決断は、主人公が自ら主体的に手を伸ばした瞬間であり、極めて良かった。


ところで、羊男が異界(死の世界)のメッセンジャーであることは明らかであるが、同様に、
素敵な耳のガールフレンドが現実世界(生の世界)のメッセンジャーであるとすると、すんなりと事が運ぶ。

死を支配する羊、生を支配する人間。

こうも考えることが出来るのではないだろうか。


さて、ガールフレンドの魅力的なパーツとしてなぜ”耳”を選ぶ必要があったのか、その理由は定かではない。

だが、私たち読者が留めておくべきであるのは、彼女がメッセンジャーという重要な役割を担っている以上、彼女は”異界”と交信をしなくてはならない、という点である。

「先生」の専属ドライバーが、神と交信できる電話番号をくれたように、異界と交信する手段として、本作品では”耳”がキーワードになってくるのである。

そのようなことを色々と考えていると、そういえば”羊”のチャームポイントも、”耳”であるような気がしてくる。


考えすぎだろうか。

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