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#1 考察:”人間の学び”は止まらない

1.「学ぶ」のは人間だけ? 

 「学び」を別の表現すれば、「学習」という言葉が想起される。今までに動物の行動観察から、多くの生物で”道具”を使ったり、”群れ”で集団で逃避・捕食行動をしたり、”鳴き声”を使って情報伝達をしたり、親から子へ世代を超えての”知恵”の伝達など、いわゆる「学習」に関する報告は多数ある。

 「ヒト」と「人間」の違いはなにか?生物学的な存在の視点でとらえれば「ヒト」であり、社会的つながりを意識してとらえれば「人間」である。人間としての「学び」(学習)という際には、個人単独ではなく二人以上のヒトとヒトの間での関係性を伴う学習となる。

 「止まらない」という表現は、何も外部から手を加えたりしなければ、おのずとその状態が継続するのが”自然”であるという響きがある。

2.「人間の学び」の定義
 「学習」以外を一般に何と呼ぶだろうか?いわゆる”真面目”の極みにある状態が「学習」だとすると、その反対側の状態”不真面目”な状態を何と呼ぶか?「遊んでないで、勉強しなさい。」というのだから、どうやら”遊び”が”学び”の反対側にあるようだ。「遊びは止まらない」うーん、これは誰もが納得する気がする。でも実際に一日中、遊び続けようとすると、これはきっと拷問に近いだろう。次から次へと”刺激を考え続ける”あるいは”刺激のない状態に耐え続ける”、どちらも適度なバランスで混ざっていないと、通常の人間はきっとタマラナイ。「人間の学び」というときには、”気が合う”ヒトが二人以上必要だ。これを”永遠”に続けるなど無理だろう。どんな仲の良いカップルも、結婚してから鬼籍に入るまでケンカしないなんて聞いたことがない。もしいたら、それは悟りの境地に入った”聖人”と呼ばれる稀有な人間に違いない。


3.「学び」の姿勢

 誰かの所作や声色を”真似ぶ”ことから”マナブ”と呼ばれたという説がある。赤ん坊が子供のころから失敗を繰り返しながら、次第に成功パターンを習得(学習)していく過程を、コンピュータを使って再現しようとする”人工知能”の研究では自己組織化マップと呼ばれる手法がある。ザックリ言えば、失敗することが必要で、それによってより良い結果(報酬)が得られるパターンに”自己組織化”されていく過程を”学習”と呼んでいる。オヤ、計算機(コンピュータ)も学習しているじゃないか。コンピュータどうしでチェスや将棋をして人間同士の対戦よりたくさんの棋譜を入力させ、深層学習(Deep Learning)させれば、「なぜそうなるかは説明できないけれど、過去の経験からこうすれば最善の結果が高い確率で得られる」ということになる。まさに人間の学習に近づきつつある。ただし、今のところ”感情”の判別が難しいために入力データに入っていないから、心の機微に触れる”計算”(推測)ができない。でも近いうちに、自律神経に関連する脈拍や呼吸・血流・体温などの変化を多様なセンサで容易に取得できると、ココロの動きを数値化して”人間としての学び”ができる時代が来るかも?いつ?誰もわからない。

 人間行動の面白さとして、「発見の喜び」がある。偶然に起因するものを捉える鋭敏な観察眼があると、思いもしない新しい、新たなものを見つけ出す。”遊び”と”学び”のどちらにも共通するのは、この「発見」があると飛躍的にその効果が増大することである。最初は、与えられたルール(規範)の中で制約を受けながら行われていたことが、ある程度繰り返すうちに、自分だけの「気づき」(発見)があると、途端に面白くなる。もしかすると、隣の席の友人も同じことに気付いているかもしれないのに、教科書を書いた先人たちがとっくに気付いていて、そうなるように文章や図式が巧妙に配置されているのに、「自分で見つけた」ことは大きな”勲章”となりその後のスピードを加速させる。”遊び”や”学習”にのめりこむことになる。時には、”〇〇中毒”とか、”〇〇の虫”などと呼ばれたりするが、当の本人は無視するばかりで馬耳東風だ。

 長く継続すると”蓄積する”楽しみがある。これももう一つの”勲章”となり、友達よりたくさん持っていると自慢でき、もっと”難しいもの”に挑戦したくなる。蓄積すると、他人に”見てもらいたい”と思い始める。ヒトではありえないこの現象は、二人以上いれば時間が経てば自然と生じる。難しいものを発表されると、自分も同じものにチャレンジしたくなったり、しまいには「初めて」のものにチャレンジしたくなる。

 他人から与えられた他律的・受動的だった”遊び”と”学習”が、継続することで自律的・能動的へとその姿勢が変化する。

4.なぜ「学び」始めたか? 

 一般に生物の進化には、(1)環境の変化と(2)他の種との生存競争がきっかけになると考えられている。アフリカの森で生活していた現代人の祖先は、”弱い”から森を追い出されたと考えられている。孤立していては、他の肉食動物に捕食されたり、食物の摂取もままならなかったことだろう。鳴き声から言葉を、”たまたま”見つけた骨から縫い針を、”たまたま”見つけた炎から火のおこし方を学習した。すると、雪が積もる厳しい土地でも生活でき、加熱調理して柔らかくなった食材は他のどの生物よりも食料の栄養吸収がけた違いによくなったお陰で、一日中エサを探して縄張りを探し続け、常に耳をそばだてながら一日中口をモグモグさせることをしなくてもよくなった。この”大量な空き時間”いわば”遊び時間”ができたおかげで、人類の道具作りとその後の技術革新が始まった。食べた後の骨で作って遊んだものが”笛”となり、その後さまざまな道具や楽器の加工につながり、ハープシコードのような鍵盤楽器(キーボード)、自動演奏、自動機織り機、パンチカード式電子自動計算器、キーボード入力コンピュータ、現代の電子機械、ICTネットワークへとつながっている。

5. これからも「学びは止まらない」

 人間がヒトではなく「社会的につながり続ける存在」である限り、学びは止まらない。人間が単独で何でもできる、あるいは寂しさに耐え続けることができるような心身両面の強さをもたない「弱い存在」である限り、学びは止まらない。人間が「空き時間で楽しさを見つけ続ける」限り、学びは止まらない。人間が「継続して集めたものを、他人に伝える喜びを感じる」限り、学びは止まらない。

 今こうして、この文章を書こうと思いしたためている限り、「私の学びは止まらない」。

#学びは止まらない #コロナに負けるな #学習 #教育