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#7 Ice Brake #1; 教養、強要、許容?

【拝啓;背景】遠隔授業の始まりで一番難しいのが、教室の雰囲気を如何に醸し出すか?人の気配、ニオイ、どれも難しい。いつも授業はじめに場を和ませるために行う”Ice Brake”をnoteにノートする第一回目なりけり。

【教養】noteを使い始めてすごいなーと思うのは、他のcreatorの方々の記事で参考になるものがあること。単に楽しいだけでなく、これからの自分のための”引き出し”になりえる。別の言い方をすれば、遊びながら手に入れる”教養”なのかもしれない。

【note】#58 翻訳者という「裏切者」 ドキッとするタイトルに引かれ、Takafumi Itoさんの記事を拝見すると、飛び込んできた文字が刺さる。

”Real Eyes, Realize, Real Lies ”

【韻律】発音がほぼ同じ(まったく同じ?)で意味がイケてる。Simon & Garfunkel の”Sound of Silence”(沈黙の音?)にも似た”Real Lies”(本当の嘘?)。まるで良く練られた漢詩のよう。簡潔に完結し、響きと驚きが同居している。日本版は、俳句かな? ”いろはにほへど” かな?

【中国にて】以前、学校の国際交流活動で学生を中国に引率したことがあった。ある公園で石碑があったので立ち止まり何となく読んでいたら、受け入れ学校の日本語学科の学生さんが流ちょうな日本語で、「先生、この意味わかるんですか?すごいですね!」と言われ驚いた。私は中学の古典の授業は「漢文は、チンプン・カンプン」と友達と話していたが、まさか40年後に中国の優秀な学生に一目置かれるとは。理由を尋ねると、中国では若い人たちは学校で簡体字を習っており、昔の文字が読めなくなりつつあるとのこと。

 明治の初めまで、日本での教育は論語や漢詩が中心で、当時の外国語である中国語を諳(そら)んじる(暗唱する)ことが基本だったらしい。漢の時代に文字が輸入され、呉の時代の読みを使うことがある”呉音漢字”がある。訪問した学校の先生は、この辺りは呉の時代は立派な都があったと誇らしげに語っていた。日本では女王卑弥呼の時代の頃の話で、この漢字の読み方は今でも中国で同じ読み方ですよなどと、言語学のプロから教えてもらい楽しい時を過ごせた。

【強要?】勉強は、「強いて勉める」と漢字で書く。(動詞が先に来るあたりがやはり外国語由来)親が何も言わなければ、子供たちは”九九”を学ぶだろうか?役に立つかどうかわからない知識(教養)は、はじめは”強要”されないと始めないでは?勉強の仕方の基本しか教えられないのだから、使い物にならなくて当たり前では?たくさん習った教養の中から、将来どれかがいつか役に立つこともある、それが教養の”共用”では?

【許容】ゆったりした気持ちで、役に立たないかもしれないけれど、どこかに自分なりの愉しみを見つけてお付き合いしながら学ぶという”許し受け容れる”ことが大切だと思う。

【iPS】ヒトは弱く不完全な存在故に、ヒトとヒトの間での関わり合いの中から人間としての学びがあり”教養”がはぐくまれる。個人・社会が困難や解決できない問題に面したとき、”引き出し”の中から眠れる潜在能力(ポテンシャル)を取り出し立ち向かっていく。体内の細胞分化でいえば、多能性幹細胞(iPS)になるためのトレーニングをする場所が現代では学校(遠隔授業)で,学ぶ内容が”教養”なのでは? 

【変容】「この科目は何の役に立つのか?」「役に立たないものは学ぶ必要がないのでは?」よく耳にする言葉。私はいつも答えています。「九九と同じだよ。」役に立たないものはないと思う。もし役に立たないと思える勉強があるとしても、実はそれ「論理的な思考」や「未知なもの、困難なものを学ぶための方法」のトレーニングをしているんですよと伝えたい。どうせやるなら「強要」されていると思うより、「遊びながら学ぶ」つもりでその姿勢を変容させることがいいのでは?私の学生生活(6+3+3+4+2+3=21年)と教員生活(28年)の経験からの体得した思いです。