No.49 自分の星を紡ぐ

僕はまれに「歩く食べログ」と比喩される。それは大学時代に遊び歩いた賜物であり、カフェと居酒屋とバーを乗り継いで来た結果である。そして、語らうことが僕にとっての最高の遊びであったから、街中を友人と歩き回るだけでも僕にとっては遊びと言える。それ故に僕は札幌中心部を歩き倒して道を覚え、数多くのお店に赴いたことで素敵な店を仕入れ、それらを合体させて店と店の経路を素早く導き出せるから「歩く食べログ」と言われているようだ。

でも、とうの僕はお店を探す時に食べログを利用しているから、どちらかと言えば「食べログ濾過装置」と言った方が見合っているような気がする。脚を使って適当と思えるお店に入ることもあるけれど、ネットに頼ることの方が圧倒的に多い。サイトから濾して取り除くのはいわゆる評価の部分で、星が何個であろうと僕はその店が美味しければOKだと思っている。

このご時世、ネットの評価のパワーが大きすぎる気がしませんか?個人の意見がそれに抑圧されているような気が僕はします。食べログにはお店の評価も一緒に掲載されていて、それは実際に赴いた人たちが、感想とともに星の数で評価を下す仕組み。民意の反映されたミシュランみたいなもの。格調高いお店が載っているイメージのミシュランの敷居を、庶民のランクまで下げたのが食べログという感覚がある。辛辣な星の数もあれば、贔屓目に見過ぎではと疑問を抱く場合もある。

その各人の星を平均化してお店の評価になって可視化されるのだけれど、これが結構厄介だ。例えば、友人とのお酒の席を探している時に、無意識に評価が高くなければいけないような気持ちが顔を覗かせる。それはお店の評価=自分の評価になるような疑心があるからだ。「星2つの店を紹介するなんて、藍笠は星2つの男だね笑」とはなるまいかという謎の不安に襲われる。

当の僕は星の数なんて気にしていなくて、そうなれた理由は沢山の店に訪れ、ネットの星と自分の評価は一致しないと気づけたからだ。昔は僕もネットでの評価を気にしていた。友人と繋がるTwitterのアカウントではファボを稼ぎまくるツイートをしていて、そうすれば案の定沢山のフォロワーが付き、不思議な友好関係も築かれた。凄く手軽に「面白そうな奴」という評価を貰えた結果だ。友達を増やすための手っ取り早い方法を模索した時に出した答えが、ちゃんと実を結んだのだ。なんにせよ、生で見た僕と画面越しの僕に差異があっただろうなと、今になって思ったりもする。

食べログとTwitterで評価を気にしてきた僕は、星の数はハードルだな、と思う。星の数が多いと「美味しいんだろうな」「雰囲気が良いんだろうな」「面白い奴なんだろうな」と意識の底の方で嫌でも期待を抱いてしまうだろう。そうして店や人と対面した時に、評価と見合えば何も問題はないが、少しでもとちれば簡単に前評判と違うじゃん、と評価が地で這いつくばる様相を招く。逆もしかりで、星の数が少ないのに良い店良い人だった時には、ジャイアニズム的に評価はうなぎ登りである。

僕らは星に左右されている。個人の意見よりも大衆の意見を大切にするのは奥ゆかしくてそれは素晴らしいことだけれど、それが左右ではなく洗脳に近づいているような気がしてならない。誰かから見て星が1つでも、自分から見た時に星5つならラッキーだと僕は思う。

自分の意見が殺されていっているのだ。誰かの耳に届くまでの距離の間に地面に叩き落される。地球の丸みを感じるくらいに、大事な意見が地に寝そべってしまう。他人と仲良くするには意見を合わせることも大事だけれど、価値観の共有をすることだって大切だろう。世間の間をとったアベレージ人間になってしまうと、何も中身のない人になってしまいそうだ。

押し付けがましい傲慢な人にはなりたくないけれど、流れに飲まれすぎるのも少し違う。こんな誰しもが思うアベレージ的な文章で締めくくることしか出来ないのは、僕の筆の限界が来てしまったからで誠に残念だけれど、心の芯から言いたいことは、自分の星が一番大事だよ、ということなのでした。

#エッセイ #コラム #食べログ #評価 #星

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10

藍笠

文字捨て場。

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