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加藤シゲアキさんと出会わなかった世界線を考える

人生の中で何度も「好きなものがあって幸せだね」と言われるのだが、決して楽しいものばかりではない。

遠征費の心配、仕事の公休との兼ね合い、チケットのやり取りなど、よくある『オタ活』と語尾にハートが付いてそうな可愛らしい次元ではなく、身体に染み付いたルーティンから、私にとってはライフスタイルだと伝えることが多い。

では、今の担当に出会わない世界線があるとしたら、どう生きていたのだろうか?世間から3テンポ遅れて『ブラッシュアップライフ』を見終わったので、この機会に今までを振り返りながら考えてみることにした。

自担との出会い

2008年に当時小学5年生だった私は、DIAMONDコンサートのSay Helloの加藤シゲアキさんに一目惚れをし、数年のブランクはありつつも現在も担当として玉座に座っている。

元々は家族の影響で幼稚園生ぐらいからイケメンの英才教育を受けており、NEWSやKAT-TUNのライブへ行き、錦戸さんから手越さんへ担当は移り変わった上で、加藤さんの元にやってきた経緯がある。これだけでも分かる通り、オタクになることはほぼ不回避な家庭で育っている。

自我でアイドルを好きになることはあり得たのか?

では、幼少期からの経験を無くして、人生の途中で自担に出会うルートはあったのか?世間の流れ的には、小学生で嵐ブームに突入し、中高生の頃には男性アイドル好きでつるむほど仲間の輪が広がっていたのを思い出す。
めちゃくちゃ仲良かった子がアイドル好きの線にいたら引き込まれる可能性はあったと思うが、元の性格として世の中の流行りに便乗したくないというめちゃくちゃ面倒くさい部分が搭載されているため、テレビで活躍するアイドルに惚れては負け、という気持ちもあり得たのかもしれない。

問われる『好きな顔』の基準

他者とコミュニケーションをとる上で、よくある質問として「好きな顔の芸能人って誰?」が挙げられる。

今世の私は間髪入れずに「NEWSの加藤シゲアキだよ〜」と答えているが、好きなアイドルや好きな芸能人が居ない世界線の私はどう返すべきか。

名前を出さずとも"目鼻立ちがくっきりした人"や、"知的な人"など細かなヒントさえ生み出せず、例えるのが非常に難しいはず。
では、現実世界で出会った人を好きな顔として例に出すパターンもあり得るのか?と思ったが、街中で見かけた人はもちろんのこと、恋していた人の顔でさえも記憶から薄れているので、パッと答えるのは難しいのではと考える。どんな顔だったっけ〜と思い出す余地もなさそう。

ちなみに私が好きになる人は加藤さんを起点として派生しているような顔の人が多く、ルーツがとても分かりやすい。だから別の界隈に出向いたときも、同じ推しメンで仲良くなった線で元加藤担がかなりいた。やはり血は争えないのだ。

『小説で知る』という出会い

加藤さんに出戻りしたのは、高校の課題で読書感想文を書く際に図書室で見つけた『閃光スクランブル』がきっかけであり、アイドル文化に関心がなく、無趣味の極みに立っていたであろう別次元の私は、果たして加藤さんの小説まで辿り着くことが出来ていたのか。
加藤さんの作品を知ったのも元々あった繋がりを経ての出会いだったので、読書感想文を書くために装丁の裏面を見漁って、別の作家を選んでいたのかもしれない。

小説での加藤担は私にとっては非常に尊いもので、出会いのきっかけを聞いてみたくなる気持ちがある。顔や歌い踊る姿でなく、小説を介して好きになるなんて恥美的な出会いが羨ましい。

仕事へのモチベーション

なんでもなれる仕事に就いて最初に勤めたのが、ホテルのベルガール。これは加藤さんのソロ曲の『ESCORT』にインスピレーションを受けて始めたことであり、初任給でシャネルのNo.5を買ったのが思い出だ。
その後、高校時代に加藤さんのことを綴ったはてなブログをやっていた経験があり、人に何かを伝えることが好きで仕事にしたいと思い、今では企業広報とPRを行っている。

仕事のモチベーションが違えば、どう変わっていたのか?
幼稚園生の頃になりたい職業に上げていた警察官やケーキ屋さん、セーラーヴィーナス(ちょうど実写化が放送されていた)を目指していたのかもしれない。
でも血が見れないことから警察官は避けたし、作りたいお菓子のラフが上手く描けないことに気付いてパティシエの道は諦めたし、セーラーヴィーナスになりたかったことはすっかり忘れていた。
私は何になれていたのかな。もしかして何者でもなかったのかもしれない。そう考えると少し怖くなった。

思い起こすとこんなにもきっかけが散りばめてあった。

時々、失恋ショコラティエの関谷で加藤さんに落ちたかった!とか、オルタネートを見て加藤さんを知りたかった!とか思うことがあるが、出会わなくて生きていくより何倍も良かったと思える人生であるのは確かだ。

幼い頃に一目惚れをして、ナイーブな高校時代に彼の生み出す文章に感化され、大人になっては培った感性をもって手に職をつけ、たくさんの愛を浴びて生きている。

なんか思ったより感化されていたのと同時に、長く生きる糧として存在してくれている有り難みを感じた。

加藤さんがいなかったら私って何者だったんだろう?

昨年の20周年関連の話で、「この世に加藤シゲアキが居なくたって、きっと誰も困ったりしなかっただろうけど、出会ってしまった以上素敵なことが起きると思って生きてきた」と本人がラジオで言っていた場面があった。

確かにどう生きていたのかは全く想像がつかないくらいに、加藤さんとの出会いは私の人生のなかで大きな財産であり、かけがえないもの。
出会わざるを得なかったのかもしれないけど、強く惹かれたのもこれまた運命であり、これから起きるで奇跡も大きなものになるのではないかと信じている。

来週は大集会が控えているし、その翌日には直木賞の選考会もある。絶えず楽しませてもらえるエンタメに生かされ続けているし、私もその海を心地よく泳いでいる。
酸素は好きというエネルギーに潜んでいるのだ。

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