カトルとタタン_3_

新しい日、

タタンは、きっと覚えていない。
でも、私は覚えている。

カトルは、きっと忘れてる。
でも、僕は思い出せるよ。
これから先も、ずっと。



「カトルカトル、
 ぼく、行ってみたいところがあるんだ」

ぼくがそういうと、
カトルに、もくもくと雲がかかった。
ぼくは、あわてて手ではらったけど、
カトルにさわってみたら、すごく冷たくなっていた。

「タタン、」
「今日だけだよ」
ぼくは、
ぼくの手より大きくて、とてもきれいなカトルの手をにぎった。
ぼくの手も、いつかカトルの手より大きくなるのかな。
カトルよりも、父さんよりも、ずっとずっと大きな手。
でも、そんなの父さんが許さないかな。

「だって、今日はたんじょう日だから」

タシルが、そう教えてくれたんだよ。
たんじょう日には、特別なことをしてもいいって。
タシルが今も、そう思ってくれてるなら。

「タタン、私たちはこの庭から出られないのよ」
「出ちゃだめっていったのは、父さんだよね。
 出られないわけじゃないよ、きっと」
「そうよ。出ちゃだめっていわれてるのに……。
 私たち、お父さまに叱られちゃうわよ」
「大丈夫。
 父さんに叱られても、ぼくが守るから。
 だって、いいだしたのは、ぼくだもの。
 カトルには、雷なんて落ちないよ」
それがいやなのよ、とカトルはぽつりとつぶやいた。

「タタンが真っ黒こげになったら、どうするの?」
「もしそうなったら、ブラウニーみたいになるね。
 そのときは、アーモンドも入れてほしいな」
カトルは、エプロンで包むようにそっとぼくを抱きしめた。
エプロンに、小麦粉がぽろぽろとこびりついてる。
小さくって、形はところどころ歪んでて、
ちょっとだけ、ねずみに似ている。
エプロンから放してあげるから、どこかにお行き。
ぼくが、こっそりとなえると、
ねずみはするっとエプロンから剥がれて、
流し台のすきまにすぽっと入って、逃げていった。

ばいばい。
ちゃんと逃げるんだよ。
庭の、外まで。

日が落ちて、また上って、また落ちて、そしてまた上るまで、
カトルはずーっとずっと、ぼくを抱きしめた。
ぼくのおなかが、ぐうと鳴ると、
カトルはほっぺたを、ぼくのほっぺたにくっつけた。
「ポーチドエッグたべたい」
「じゃあ、そうしましょう」

カトルは、エプロンを新しいものにとりかえると、
鶏小屋から、めんどりが産んだばかりのたまごを2つもってきた。
ぼくも、たまごにさわらせてもらった。
あったかい。
このなかには、命になりそこねたものが入ってるんだ。
それが、生きてるぼくらにはおいしいんだ。

ポーチドエッグをたべてると、
明かり窓から、陽の光が入ってきた。
その光は、カトルのほっぺたをもっとまっ白にした。
おでこも、鼻のあたまも。
ぼくは、いじわるな太陽にむっとした。
カトルは、今のままですごくきれいなんだから、
お化粧なんて、しなくていいの。

「タタン」
カトルは、ナプキンでぼくの口もとを拭きながらいった。
「陽が高い内に、出かけましょうね」

この庭は、周りを柵で囲まれてる。
柵の向こうには、草原が広がってて、
ずっと遠くの方では、森になっている。
北も東も南もそうだけど、
西の方には、海が広がっている。
陽の光を反射して、きらきら光ってる海。

ぼくは知ってる。
この景色が、にせものだってことを。

「どこに行きたいの?」
カトルはエプロンを外して、いすに引っかけた。
「海だよ」
ぼくはいった。
「『カモメ』がどこにいったのか、知りたいんだ」
「……わかったわ」
カトルのまっ白な顔が、
カモメみたいに、もっとまっ白になってる。
カトルにひどいことをしてるのは、わかってる。
だって、怖い怖い父さんのいいつけを破るんだもの。
そんなこと、わかってるけど。
「カトル」
ぼくは、タシルと約束したんだ。
「大丈夫だよ。
 ぼくが、カトルを守るから」

庭に出ると、
チューリップは頭をゆらゆらさせながら、
ラベンダーはやわらかな匂いをさせながら、
花いっぱいの花だんで、ぼくらを迎えてくれた。
ぼくは、そのひとつひとつにキスをした。
「いってくるよ」
ふり返ると、
カトルが太陽を見上げていた。
今にも消えちゃいそうなくらい、まっさらな光をあびてる。
「カトル、」
カトルはこっちを向くと、ゆっくり首をかしげた。
「もういいの?」
「うん。カトルこそ、もういいの?」
「え?」
「エプロン。いっつもつけてるのに」
カトルは家をふり返ると、
なにかをふりはらうように、首をふった。
「いいのよ。せっかくの、お出かけだからね」
「だって、あのエプロン大切にしてたから……」
カトルは、口もとでしーっと指を立てた。
「いいの。
 お出かけには、大切なものは1つあればいいの」
「大切なもの……」
「それが、何のことかわかるでしょう? おちびさん」
そういって、カトルはにっこり笑った。
いつものように、ほんの少しだけ悲しそうに。

ぼくらは、
西の柵の前に並んで立った。
ぼくでも乗りこえられるくらいの、低い柵。

風が、海の方から吹いている
ほんのり、しょっぱい匂いがする。
風にあおられて、
カトルの髪の毛がふわりと舞い上がる。
ぼくは、それをきれいだと思った。

「じゃあ、行きましょうか」
「うん」

カトルの声が、少しふるえてる。
だからぼくは、カトルの手をぎゅっとにぎった。

「海に着いたら、何をしましょうね」
「あのね、カトル。
 浜辺には、『カイガラ』がたくさんあるんだって。
 なかには、宝石みたいにきれいなものもあるんだ。
 だから、ぼくそれを見つけて、カトルにプレゼントするんだ」
「ふふ。それは、楽しみね」
「……カトル」
「なあに?」
「カトルのこと、ずっとずっと、大好きだよ。
 カトルが、ぼくのことを忘れちゃっても」

カトルは、なにかいいたげに口を開けて、それからまた閉じた。
うつむいたまま、ぼくの頭に手をぽんとのせた。

「バカね。タタンのことを、忘れるはずないじゃない」

ぼくも、カトルも、きっと同じことを思ってた。
だから、そのことはお互いにいわなかった。
これからも、いっしょにいるために。
だからぼくらは、
いっしょに、柵に手をかけた。

そのときだった。

目の前が、まっ白な光でいっぱいになった。
庭も、森も海も草原も呑みこまれて、
なにもかもが、まっさらになる。

ぼくは、
自分がどこにいたのか、すぐに思い出せなかった。

カトル。

ぼくは、カトルがいなくなってることに気づいた。

カトルは?

どうしよう。
まぶしくって、目が開けられない。
カトル、カトルを探さないと。

そのとき、
細めた2つの目が、なにかを見た。
カトル、じゃない。
でも、ぼくは知ってる。
つくったのは、ぼくじゃない。
きっと、父さんでもない。
けれど、ぼくはその名前を知ってた。

クジラ。

クジラだ。

ぼくなんかより、ずっとずっと大きいクジラが、泳いでる。
ぼくに気がついてないのか、
気がついてるけど、気に止めてないのか、
じっくり、ゆっくり、目の前を横切ろうとしてる。

「まって」

ぼくはあわてた。

「どこにいくの?
 ここは、どこなの?
 カトルは、どこなの?
 もしかして、ここは海のなかなの?」

クジラは、ぐるりと身をひるがえして、
顔の横についてる大きな目で、ぼくを見た。
その目は、すごくやさしかった。

クジラは、ゆっくりと口を開けた。
長く長く息を吸って、それから吐いた。
それは、びりびりと周りの光を震わせた。

光は、ちかちかとまたたいて、
雪のように、ぼろぼろと崩れていった。

周りが、だんだんまっ暗になる。
カーテンのように下りてきた暗闇が、
クジラにおおいかぶさり、
ぼくの目の前からいなくなってしまった。

ぼくも、同じだった。
足が、手が、まっ黒になっていく。

「いやだ、いやだ!」

ぼくは、カトルを見つけなきゃいけないんだ。
ぼくは――。

いよいよ、まっ黒が鼻の上までやってきた。
すると、なんだか、だんだん眠くなってきた。
それは、なぜか、あんまりいやじゃなかった。
いつものベッドにいるみたいで、あったかい。
怖かった気持ちは、いつのまにか消えていた。

「おりこうさん、おりこうさん……」

まるでいつものように、
カトルが寝かしつけてくれてるみたいに。

カトル。
もしかして、そばにいるの?
カトル……。

「おやすみ、カトル」
ぼくは、そっと目をつむった。



「起きて」
頭の上で、誰かの声がする。
「もうすぐ夜になるわ」
「う……」
体を起こすと、暗く沈みそうな空が見えた。
そろそろ、日が暮れる。

「ずいぶん、眠っていたわね。
 死んでしまったんじゃないかと、心配になったわ」

傍らにいる女の人が、僕の顔を覗きこんでいる。

「……そんなに眠っていたかな」
「ふふ。珍しいこともあるのね、アダム」

アダム……。

なんだか、
歯車が上手く噛み合ってないような、
頭が正しく動いていないような気がする。

「ねえ」
僕は、彼女の名前を呼ぶ。

「カトル」

……カトル?

彼女は首をかしげて、
僕の唇にそっと指先を押し当てた。

「私の名前は?」

僕は、少し考えてみた。

「……エヴァ」

エヴァはふう、と息をついた。
「もう、びっくりさせないで」
「……ごめん」
「きっと、疲れているのね。
 そろそろ、食事にするわ。
 もうすぐ、カインとアベルも帰ってくるから」
「うん。ありがとう、エヴァ」
僕がいえるのは、それだけだった。

カトル。
誰の名前なんだろう。
エヴァのじゃないし、
カインのでも、アベルのでもない。
皆それぞれ、ちゃんと名前がある。

「カトル」
こっそり、その名前をつぶやいてみる。
なんだか、懐かしい名前だ。
やさしくて、あたたかくて――。

「……あれ」
気が付くと、僕は泣いていた。
拭っても拭っても、
涙はとめどなく溢れてきた。

僕は、悲しかった。
わけがわからなくて、悲しかった。

「アダム?」
ああ。
エヴァに、見られてしまった。
こんな姿、見られたくなかったのに。

僕は、むりやり笑ってみせた。
「大丈夫だよ、エヴァ。
 悲しいことなんて、何もないから」

小川で顔を洗っていると、
暗い空に、一番星が上がっているのが見えた。
水面の上の星は、
僕が水を掬うと、少しだけ形が崩れたけど、
水面が落ち着くと、また元の形に戻っていった。
僕はその星を、とてもいとおしく思った。

「エヴァ、おいで」
僕は、エヴァを手まねきした。
「見て。水面に映る星がきれいだよ」
「まあ、本当。
 あなたの生まれた日にぴったりね」
「生まれた日……」
「忘れてたの?
 だから、カインもアベルも、
 今日は特に、仕事をはりきっていたのよ」
「いや……そうか。そうだな。生まれた日は、特別だからな」

僕は、エヴァをそっと抱き寄せた。
エヴァから、ほんの少しだけ花の匂いがする。
やわらかい、この匂いのする花は、なんて名前の花だっけ――。

「大好きだよ、エヴァ」
「……私もよ、アダム」
エヴァは、どこか懐かしい表情で微笑んだ。

僕らはそのまま、
夜の帳が下りるまで、身を寄せ合った。

ぼんやりと空を眺めていると、
さっき見つけた一番星が、
もうすぐ死んでしまうことに気付いた。

星は死んだら、どこにいくんだろう。
人と同じように、天国にいくんだろうか。
もし、そうなのだとしたら。

僕は、祈る。

僕らが、
もう二度と、引きさかれることのないように。

どうか、どうか。

星は、その願いを聞き届けたように、
徐々に重みを増していき、遠く彼方へと流れていった。
僕はそれを見届けて、胸の中にいるエヴァに口づけた。


おわり

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