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ふえる、ふるえる(ボルヘス怪奇譚集/ホルヘ・ルイス・ボルヘス他)

く、く、く

だれかが、笑っている。

けれど、そのだれかはいない。
ここには、だれもいないよ。
僕の他には、だれも。

く、く、く

また、笑っている。
僕を、笑っている。

ベッドサイドに置いてあると間違いなく眠れなくなるから、安眠したい人はこの本を手に取らない方がいい。(中略)眠ることなどとうに諦めた不眠症の人がベッドサイドに置いておくのはいいかもしれない。
――朝吹真理子「解説 眠れない夜に」ボルヘス怪奇譚集,p181

眠りたいのに、眠りたくない。
だから僕は、それを手にとった。

怖いんだ。
夢を、見るのが。

夢は、現実の置き換えだ。

夢で襲ってきた化け物は、現実では父親だ。
夢で救ってくれたネコは、現実では恋人だ。

精神が現実に支配されていると、
その影響は夢にも色濃く表れる。

1年前。
僕は、壊れていた。
だから、夢も壊れていた。

支離滅裂。
阿鼻叫喚。

夢の中の僕は、何かから逃げていた。
何に追われているのか、わからずに。

そして、僕は目を覚ます。

さっきまでの恐怖はとうに消え失せ、
今度は現実に潜む恐怖に怯え始める。
僕はどこにいても逃げられなかった。

現実に精神を支配されるくらいなら、
空想に精神を支配されたいと思った。

よろしく頼むよ。
……えーっと、ボルヘスさん。
不眠症の読み手(と、翻訳の柳瀬尚紀氏は評した)であるあなたが選びに選んだ物語は、きっと、いや必ず本の虫である僕を虜にするだろうから……。

もしかしたら、ボルヘスさんはこういうかもしれない。

おいおい、良質な睡眠を求めているならお門違いだぜ?
こいつは、不眠症をさらに不眠症にする劇薬なんだぜ?
その上、あんたは本の虫ときた。
口にしたが最後、あんたは満腹になるまで眠れねえよ……。

まあ、それはそれでいいよ。

僕は応える。

元から、不眠症だったんだ。
それに、僕は蝕まれている。
夢にも、現実にも。
だから、
どうせ蝕まれるんだったら、
「不眠症」が選んだ物語がいい。

はっはっは、とボルヘスさんは大笑いする。

この私を恨むなよ。
なにせ、不眠症というのは「まったくもってしつこい」からな。

朝六時、彼はピストルに弾をこめ、脳天をぶちぬく。死にはしたが、結局眠ることはできなかった。不眠症はまったくもってしつこい。
――ビルヒリオ・ピニェーラ(1946)「不眠症」ボルヘス怪奇譚集,p154

知ってるよ。

僕はひらひらと手を振って、「不眠症」の物語を受け取った。

わかっているよ。

しばらく後で、僕はいった。

僕を笑っているのも。
――僕が、笑っているのも。

く、く、く

また、笑っている。
僕が、笑っている。

僕を。
私を。

眠れないから、狂っている。
眠れないのは、狂っている。
僕は、もともと狂っている。

僕の名前は、不眠症。

ボルヘス怪奇譚集/ホルヘ・ルイス・ボルヘス、アドルフォ・ビオイ=カサ―レス(翻訳:柳瀬尚紀)(文庫版:2018年)

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