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絶望を繰り返すことが大人になること

本記事は、米国オレゴン州ポートランドを中心に毎月発行されている日系紙「夕焼け新聞」に連載中のコラム『第8スタジオ』からの転載(加筆含む)です。1記事150円~200円。マガジンでご購入いただきますと600円買い切りとなり(マガジンご購入者は過去の記事もこれからの記事もすべて読めます)、お得です。

あけましておめでとうございます。2019年が始まりましたね。

わたしにとって再渡米後、2回目のお正月になります。

希望に満ちた1年にしたいところですが、年末、Twitterを見ていたら(Twitterを知ってはいるけど使っていない方がおられましたら、登録することをお薦めします、無料で生活が少し楽しくなりますよ)、劇作家・鴻上尚史さんの言葉がタイムラインに流れてきました。

「人間に対する絶望を何度も繰り返すことが大人になることだ」

というものでした。鴻上さんご自身が、そのとき呟いた言葉ではなくて、どなたかが鴻上さんが過去にその言葉を書いておられたのを覚えていて、回想する形でタイムラインに上がってきたものでした。

Twitterは一日に一度、いや二度、いや二度三度、眺めに行きます。釣りのようなものです。海に行って、釣竿を垂らす。何が引っかかるかはわからない。何も引っかからないかもしれない。でも、一応垂らす。その「垂らす」行為に似ています、Twitterを眺めに行くというのは。

この言葉との出会いは、垂らした糸が引っ張られた!という感覚と酷似していました。すごくわかる、めちゃくちゃわかる、と思ったんです。雷に撃たれたように、体じゅうをしびれさせました。

人間に対する絶望を何度も繰り返すことが大人になること。

なるほど。まったくもってその通りだな、と思いました。

わたしにとって米国生活は、好きな仕事との別れとともに始まり、ここでゼロから生活を築いていくことと同義でした。

最初は被害者の顔をしていたと思います。

自分でもわかっていました。来たいわけではなかった自分に、自分自身、非常に注目してしまっていたんです。やり残してきた「あんなことやこんなこと」が、こちらでの生活で面白くないことが起こるたびに、思い出され、ここにいることの疑問に立ち返らせてしまうような状況でした。

けれども、被害者の顔をするのは次第に飽きてきちゃったんです。

自分の人生の舵は自分で取る、から生きていて楽しいわけで、わたしは被害者の仮面を剥がさないことには次に進めないと悟りました。

被害者の仮面を取るのに費やした2018年だったともいえます。

では、どうやったら「被害者の仮面」をはぎ取ることができるのか。

答えは簡単。

毎日の暮らしを充実させることです。

「今の暮らしに夢中になる」ことです。

暮らしを楽しむとはどういうことか。

免許を取って、子どもとたくさんの場所に出かけました。

遠くじゃありません。

公園、図書館、ミュージアム(無料の日を狙って)、動物園、スーパーマーケット。どれも車で30分圏内で行けるところです。

どこに何があるかわかるようになると、子どもの「これほしい!」が恐怖じゃなくなりました。

「日本で食べていたあんなお菓子が食べたい」「ふむふむ。それはね、あそこに行けば似たようなのがあるから、帰りに寄ってみようか」

「こんな本が読みたい」「それならあの図書館の、奥のコーナーに行ってみようか」

「体をたくさん動かせる楽しいところに行きたい」「それなら、この間見つけた大きな公園のジャングルジムに行ってみようか」というようになれたことは大きかった。

それまでは恐怖だったんです。

「それは日本にはあるけれどここにはないんだよ、だってここはアメリカだから」と伝えることが。その言葉はカッコ書きで「(だから我慢しろよ!日本に帰るまで待ってろよ!)」という毒を内包していたから。だってそれじゃあまるで、アメリカが悪いところみたい、と口にするたび思ったから。

その感覚が自分に刷り込まれていくと、もっともっとアメリカが嫌いになっていくような気がしていました。

ここはいい場所なんだ、と思うことにつなげたかったんです。

いい場所だと思えるには、とにかく足で歩き回ることです。

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