記録①聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア

ストーリー

心臓外科医スティーブンは、美しい妻と健康な二人の子供に恵まれ郊外の豪邸に暮らしていた。スティーブンには、もう一人、時どき会っている少年マーティンがいた。マーティンの父はすでに亡くなっており、スティーブンは彼に腕時計をプレゼントしたりと何かと気にかけてやっていた。しかし、マーティンを家に招き入れ家族に紹介したときから、奇妙なことが起こり始める。子供たちは突然歩けなくなり、這って移動するようになる。家族に一体何が起こったのか?そしてスティーブンはついに容赦ない究極の選択を迫られる・・・。

引用 : http://www.finefilms.co.jp/deer/(公式サイト)

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「人生で大きなジレンマに直面したとき、人は善悪が判断できるとは限らない。」

ヨルゴス・ランティモス監督の言葉がこんなに突き刺さったのは、私の個人的な心境や状況からかな。でも不条理映画を観たあとは大体こういうことをずっと感じていたような気がした。
言われなかったら気づいてなかったけど…。

自分の意思や意向と目の前現実の折り合いがつかなくて、状況を変えようと必死になるほど現実は非情にも悪い方に傾いていく。

誰しもが経験するであろうジレンマ。そういう映画もたくさんありますよね。大体は誰かの力を借りたり、スペシャルな力を得たりして、なんだかんだ乗り越えてハッピーエンドが多い気もするけど。

この映画の主人公もある大きなジレンマに直面する。それに際して下した決断、そしてそこに至るまでのプロセスなどが描かれる。

この映画を観て、それらについて私が考えたこと。

神の力か?ただの悪夢か?

幸せだった一家に災いが雨のように降り注ぐ。
科学では解明できない、常識の物差しが通用しない、理屈じゃない。そういう類の災いだ。
いわゆる祟りとかバチが当たるとか、そういった感じの薄気味悪くて理屈じゃないなにか。

降り注ぐ災いのからくりを、トリックや超人的な能力か何かを用いて一家を貶めようとしたことを誰かしら何かしら告白してくれるはずだ。
そう思って画面を眺めていた。あるいは霊的ななにかとか、機械仕掛けの神の存在とか。
しかしラストシーンまであのバリー・コーガンの陰鬱な視線が私を居心地悪くさせるだけで、一切そんなことが語られることはなかった。

目の前で見たこと、それだけが真実。
なす術もなく与えられる悪夢。
そういうことだろうか?

頭ではわかっても、どうしても欲しかった。
こうなった理由、明快な回答。
とにかく納得したかった。
どうにか答えを見つけたくて、関連ページを貪るように読み耽った。インタビュー、ハッシュタグのついたツイート、アウリスのイピゲネイアについても、大学生以来久しぶりに調べた。ついにひとつの回答を見出したような気分になったのは晩酌中2本目のプルタブを捻った時だった。

その時は神の力が示されていると思った。

たびたび差し込まれる神的視点からのカット。神的役割を担う少年。彼から齎される神託。全体の静寂さに引き立てられるコロスのような聖歌隊。これはギリシャ悲劇で、その筋書きをなぞっているのではないか。
でも何かおかしい。
まだ何か足りない気がした。
ジリジリとした違和感が私のなかを駆け巡る。
まだ納得はできなかった。

崩壊のための栄華

先だってブリューゲルのバベル展を観に行った。
バベルの塔は旧約聖書の創世記に登場するのだとそこで知ったくらいには無知で、バベルの塔ってもっと大きな絵だと勘違いしていてその小ささに驚いた。
なんとなく知っていた、
「神のいるところに届くような高い塔を建てようと集まった人々が神の怒りに触れ、建てていた塔は崩され言語はバラバラにされた」
という話。
この“塔が崩された”という部分は実は旧約聖書には明記されておらず、実際は崩されたかどうかわからないということもその時知った。

この塔が崩された部分のことを不意に思い出した。人から人へと伝わる際にいつの間にか尾ひれがつくことは往々にあることだけど、なぜ崩されたという話になったのか。

それはバベルの塔という話自体が神の力を描くために作られたもので、塔は崩壊されるために生まれた象徴だったからではないか。
人々の叡智の結晶で、神に近づこうとした愚かさの象徴である塔が、崩落する様は恐ろしいことだろう。
敬虔なキリスト教徒たちによって(かどうかはわからんけど)そのように言い換えられ、語り継がれていったと考えると自然なことのように思える。

映画の序盤で描かれていた家族たち、これはこの象徴の塔と同じようなものではないか?

誰が見ても幸せそう(実情は別として)に見える彼ら。
豪邸に住まい、豊かな生活をし、愛らしい子どもたちにも恵まれた、彼の成功の象徴である幸せな家庭。
過剰なまでに幸せに描かれた家族は災いを前に、それはもう見事に崩壊する。
象徴としての役割を充分すぎるほどに果たしている。

でもわからない。
なぜ災いはもたらされたのか?

災い

そもそも災いと書いているけど、彼らに降りかかったそれらは災いなのか。
彼の罪の贖いだとも考えられるはず。
ではなぜ災いだと思ったのか。

それはあまりにも理不尽で無惨で残酷だから。彼の犯した罪の重さに対して…罪の大きさになんか関係ないといえばないんだけど、その対価としては重たすぎやしないだろうか。

アウリスのイピゲネイアで、イピゲネイアの母親であるクリュタイムネストラは娘を奪われたことを恨みに、夫アガメムノンを殺す。
復讐の連鎖は止まず、クリュタイムネストラは息子オレステスによって葬られる。子殺しは夫殺し、夫殺しは親殺しによって贖われる。

スティーブンの犯した罪は一見、マーティンの予言通りに進行した一連の不幸によりその対価を支払ったように思われた。
しかし彼の失ったものはマーティンの失ったものと同等なのだろうか。
大切な家族の命、幸せな家庭像、友人、健やかな精神…ここまでは同等かもしれない。
しかしスティーブンは自らの手によって、再び罪を犯す。
奪われるのではなく、自ら奪い取らねばならなかった。
スティーブンは利己的な人間だ。正直めちゃくちゃ鼻につく。当然の結末とさえ思う。こんなやつ職場とかにいたらなるだけ関わりたくない。コリン・ファレルだからかっこいいと思ったけど。利己的で傲慢なコリン・ファレルには抱かれたいと思った!!けど!
でも余りにも理不尽ではなかろうか。

この映画を観て思い出した作品がもうひとつある。J・G・バラードの「殺す」という作品だ。ロンドン郊外に新設された超高級住宅街で起こった大量殺人事件が描かれた物語である。
結末こそ違えど、事件を語る目線はほとんど同じだったのではないかと感じた。
あえてそうやって描かれたであろう、この一見幸せに見える家庭。本当に愛情か疑わしい無機質な過干渉。事務的とも思える夫婦の性交渉。
まるで裁判の議事録でも読んでるような客観性。
あくまで当事者でない第三者目線の物語。
その冷たい目線こそ、この映画の最たる特徴ではなかったか。
そしてその目線こそがスティーブンの愚かさを、一層哀れに引き立てているのではないだろうか。

自らの罪に背を向け、幸せを貪るスティーブン。
けれどそれってそんなに悪いことではないのではないか?みんな少なからず真っ当でないことをして、負い目を感じ、それでも幸せになろうとしているのではないか。
私は彼を否定できない。
自らの正当性を強くは主張できない。多少なりとも後ろめたさを隠して生きている。
私は哀れな自分の正当性を保つために、彼らを襲った不幸を災いと見なしたのだ。

嘘ついたら針千本飲ます

童謡なんかでよく耳にした言葉だけど、嘘ついただけで針千本飲ますってちょっと酷すぎやしないか?と幼い頃から思っていた。
嘘をつくのは良くない、でもそれが針を千本も飲まされるほど悪いのか。
それは私が初めて感じた不条理だったかもしれない。

この映画ではそんな当たり前だけど当たり前じゃない、正当すぎるが故に破綻した正義を描いたものだったのではないだろうか。

この映画の結末で、果たしてマーティンは報われただろうか。
それとも彼はこの映画にとってただの予言者みたいな存在で、彼の意思はどうでもよかったのだろうか。
きっともう一度観てもわからないのだと思う。
彼を含めて、この映画に登場するものすべてただの舞台装置にすぎなかったのではないかと思う。
この映画の主人公は私なのだ。

スクリーンを見つめる私たちの物語。
スティーブンを哀れむ私は、私自身を哀れんでいたに過ぎない。
そう思うとストンと納得がいった。
だからこんなに虚しいのだと。

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