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different(違い)アレルギー

今ぼくたちが住むこの社会は、
「different(違い)アレルギー」が
蔓延しているのかもしれないね。

例えば自分の目の前に、
全く意見が異なる人が現れたとして
このときあなたはどう反応しますか。

意見の違いはただの「違い」であり、
それ以上でもなければそれ以下でもない。
とスルーできれば問題ない。

でもなかには、
どういうわけか意見の違う人に出会うと、
「自分が攻撃されている」と感じてしまう人がいる。
そういう捉え方をする人がいる。
(*正直に白状するとぼくも昔はこうだった)

そして、
攻撃されていると感じるから、
相手に過剰な反論をしたり、
罵ったり、
威圧したり、
罵詈雑言を浴びせたりと、
要は「反撃」にでる。

そうすると、
突然酷い言葉を浴びせられた方は
それに反応しさらなる反撃にでる。
(*こっから無限ループ)

基本的に、
そもそもの考え方のベースが異なる者同士は、
「分かり合えないもの」だとぼくは思っている。

違う場所で生まれ
違う親に育てられ
違う家に住み
違うものを食べ
違う服を着て
違うおもちゃで遊び
違う学校に行き
違う友と関わり
違う環境で学び
違うものを信じ
違う人と結婚し
違う人生を歩んできた。

そういう者同士が、
あるとき、
あるタイミングで一緒になり、
時間をともにしたり
コミュニケーションをとったり
議論をしたり
共同作業をしたり
集団生活をしたり
要は接点が生まれる。

そらぁ、
「相手と違う」
「相手と合わない」
と感じるのは当然であり、
当たり前のことだわな
とぼくは思っている。

だってそもそも「違う」んだから。

この違いは、
ただの違いでしかないのに、
別にそのままにしときゃいいのに、
どういうわけか自分を否定された、
攻撃された、
と感じてしまう人がいる。

つまり、
「different(違い)」に対する過剰反応(アレルギー)。

アレルギー症状は、
自分の処理できるキャパを超えたときに発症する。
キャパのラインは人それぞれだけど、
キャパを超えなければ症状はでない。

キャパを超えるとは、
要するに「我慢している」ということであり、
我慢が限界値(ライン)を超えるとアレルギー反応になる。

じゃあ、自分は一体なにを我慢してきたのか?

アレルギーを解く鍵はここにあると思う。

「人との違いが許せない」のと、
「自分が我慢している」というのは、
一見関係なさそうにみえるけど、
裏側では繋がっている。

だから我慢するのをやめて、
自分が本当に生きたいように生きだすと、
いちいち人との「違い」なんて気にならなくなる。
一つひとつの「違い」なんてどーでもよくなる。

そもそも自分と違う人ではなく、
より自分が「心地よく付き合える人」との時間を
大切にするようになる。
意識がそっちの方にはたらく。

だからアレルギー反応がでたときは、
自分がなにかをずっと我慢をしていないか。
それを一つづつ棚卸してみるといい。

アレルギー反応は、
「我慢している自分」を知らせてくれるサインとも言えるのだ。


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