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騒いでいる子どもをみると自分の心が騒ぐ

商業施設や公共の場などで
子どもが大騒ぎしているのをみると
どうしてもイライラしてしまうことがあった。

「あった」と過去形にしているのは
正確にいうと今でも少しはあるけど
昔に比べれば随分ストレスはなくなった。

で、このイライラっていうのは
その子どもに対してもそうだけど
実はその親に対してだったりもして
「こんなに騒いでるのになんで注意しないんだ!」
とイライラしてたんだな。

で、なんでそもそもイライラしちゃうかというと
羨ましかったんだな、ぼくは。

まわりを気にすることなく
誰に気を使うわけでもなく
親から制止されるわけでもない子ども。

ただ、
自分の本能のまま
気の向くまま
好き勝手に振る舞っている
目の前で騒いでいる子どもが。

そして、
周囲に気を使い過ぎるわけでもなく
子どもをのびのび過ごさせることのできる
メンタルの強い親が。

羨ましかったんだな、本当は。

でもさ、
そんなことかっこ悪くていえないじゃない。

だから、
「周りの人に迷惑だ」とか、
「静かにすべきだ」とか、
そういう自分の勝手な「べき論」を振りかざして
正当化して
羨ましいと思っている自分を隠して
相手を裁いていたなぁ。

たしかに、
静かにしてほしいと思っている人もいるだろうけど
でも騒いでいる子どもをみてニコニコしている
おじいちゃんやおばあちゃんもいるわけで、
だから「騒いでいる子ども」は
別に誰の目にも明らかな絶対悪ではないんだ。

仮に静かにしてほしいのであれば、
相手を自分のべき論で裁くのではなく
自分がしてほしいことをそのまま伝えれば
いいだけの話。

でもそれができない
言えない
変に相手に遠慮してしまう。

そうやって
「言えない自分」にストレスを感じ
それが内側で膨らんで
更にその子どもと親が許せなくなる負のスパイラル。

根っこには「羨ましい」と思っている自分がいて
本当は自分も同じようにのびのび過ごしたかったし、
周囲に気を使い過ぎることなく
ドデンと構えて
子どもを好き勝手に過ごさせてやりたかった。

いつからだろうね
この「すべき」というべき論を自分のルールに
してしまったのは。

今自分が持っている「○○すべき」というルールは
本当に自分の言葉なんだろうか。

本当に自分がそう思っている言葉なんだろうか。

ここ最近は、
それら一つひとつを疑ってみる
という作業をずっとやっているんですよね、ぼくは。


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