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根拠のない自信だけど、大丈夫な気がする

一年ぶりに地元長野に戻っている。滞在時間は48時間もない。明日には居心地のいい自分の家に帰る。心の都合上、ここにはそれ以上居られないから丁度いい。

表現が難しいが、色々なことを感じている。

まず、やっぱり自分の家族は異世界のように感じる。どんなに頑張って心を穏やかにしようと思っても、拒否反応が出てしまうことが多々ある。しかし恥ずかしさや苦しさを通り越して面白がることができればこっちの勝ちだ。自分は可哀想だと思い煩うのはもう無駄で、こんなにおかしい環境はないのだからいっそのこと創作に昇華していこうと思っている。本人の許可はとったからいいだろう。

そして、物理的な環境、特に衛生的な部分でも帰省に苦手意識があるんだなと認識した。私が毎度滞在している祖母の家は、実家とは違いゴミ屋敷では全くないが、古くて水洗トイレじゃない。シャワーもない。そして、おばあちゃん家あるあるなのかもしれないが、捨てた方がいいだろうという物達が一体いつからいるの?という感じでそこに佇んでいる。捨てて欲しいと何度も言った私の物も永遠に残っている。年月が止まっている。私はそういうのに漠然とした恐怖と嫌悪感を感じてしまう質だ。ごめんなさい。それに、私と家族の衛生観念には色々なずれがある。でもそれは仕方のないことだと割り切っている。

おばあちゃんのことは大好きだ。ずっと元気で居て欲しい。

帰省する度に毎回思うのは、自分と反撥するあらゆるもの存在によって、自分は自分、と思うしかなく、強くなれる感じがするということ。それから、自分が最大限想像するほどは、暗いわけじゃないってこと。ここにも安心がないわけじゃないということには今回改めて気づけた。

今日は、モンスター(母)のストーカーを絶妙にかわしきれず恥ずかしい思いをしたが、一人でのお出かけに成功した。大好きなとある美術館に行き、温泉に入った。貸し切り状態。至福の時間を堪能し、自分を愛でた。神社に行って、お参りをした。日を浴びながら湖畔を沢山歩いて、気持ち良かった。足下のつくし、頭上のツバメを見て春を感じた。

それから、祖母の家には一匹の猫がいるのだが、たった一匹の動物の存在は偉大である。静かに見守ってくれているみたい。ありがとう。

そして昨日は、高校時代の友人と会った。彼は何も変わっていない。家族の外側に希望の光を追い求めてきた自分と、家族の内側に安住してきた彼は正反対だ。変わらない安心感と、社会人としてそれっぽく頑張っている彼に多大な尊敬の念を抱いた。10年後、20年後にお互い相手いなかったら結婚しよっかーなんて言ってみた。そういう相手はいくらいたっていいと思って。孤独死回避の保険だ。私が他にもそれくらいの感覚の人がいるんだよねと言ったら、ならもうグループホームで皆一緒に住めばいいんじゃない?という話にもなった。確かに。それはありだ。

そういう安心感を心のどこかに留めておきながらも、きっと私は私なりの幸せを希求していくんだと思う。想像できないような。

今回の帰省は今までの帰省よりも、息ができている。ちゃんと呼吸ができて、自分のギャップに苦しむことも少なくなっている。自分の中がせめぎ合って喚き苦しむほどのことは今はない。今回は、人と人が愚かに罵り合う激しいシーンを目撃せずに済んでいるからかもしれない。

まあ、何か辛くても、その「辛い」を100%感じて噛みしめて、あーいま辛いなぁってしていれば、その数時間後には楽になっていることも分かった。これは別に帰省に限ったことじゃない。普段の自分にとって大事なことだ。

ところで故郷にいると、普段から嫌になるほど考えてしまう、「自分とは」をさらに深く考えてしまう。

今、私は何者でもない。でもどう思われても、心が晴れやかならいいじゃんと思っている。自分って何?何してんの?と思いながらもそれでいいじゃんと思えている。とにかく、できることややりたいことは後悔のないようにやっていって、気楽に楽しく生きていきたい。本格的に今のままじゃいけないとなれば、また考えればいい。

なんだか今、リセットというか、ポジティブに自分を再認識できている気がする。

前を向いて新年度を生きようと思う。ああ、この前卒業した後輩や同期は、今日から働いているんだな、となんとも言えない気持ちになる。皆、自分らしく頑張って欲しいな。私も私で頑張ろう。



















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