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エキゾチック・アニマル (2007)

Donkeys, Dogs, and Wolves

1. On the Corner / Miles Davis (1972)
2. A Piazzolla / Leopoldo Federico Trio (2001) [1995, 2001]
3. 野生の思考 / 菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラール (2006)
4. Tito Puente and his Concert Orchestra / Tito Puente (1972)
5. Orfeu Negro (Black Orpheus) / Original Soundtrack (1959)
6. ハワイ・チャンプルー / 久保田麻琴と夕焼け楽団 (1975)
7. Never No Lament: The Blanton-Webster Band, 1940-1942 / Duke Ellington (2003) [1940-42]
8. Latino America / Gato Barbieri (1996) [1973-74]
9. The Exotic Sounds of Martin Denny / Martin Denny (1996) [1956-67]
10. Breakfast at Tiffany's / Henry Mancini (1961)

* 丸括弧内には再発か否かにかかわらず、原則として最初にリリースされた年号を、編集盤の場合は角括弧内に録音時期を記載。

 エキゾチックとは何か。音楽、文学の傾向の一つだろうか。その場合の「異国情緒のある」という意味を、インドネシア或いはモロッコ或いはメキシコの、エキゾチックな風景、エキゾチックなファッション、エキゾチックな食べ物、等々延々続く目録に適用するだけでも、そこに過剰さを認められはしないだろうか。人畜無害な趣味であることをやめ、感冒の一種と見分けのつかない蕩尽の姿を、その過剰は暗示してはいないか。イタリア熱、ブラジル熱といった、強まる漂白の思いが人々を(そして動物や植物を)薙ぎ倒すのである。
 それとも、結局は「薄められてあること」「キッチュ」を余儀なくされた、短いサイクルで「最新流行」に鋳直されては復活する、目録の棚に並ぶ商品の性質表示の一つでしかないものを、私たちは享受しているにすぎないのだろうか。貧困と暴力の恐怖を忘れさせてくれる安全な家に帰ることのできる都市の生み出した無責任な空想としてのエキゾチック、欠損の徴。
 翻るに、エキゾチシズムにとらわれた人間のなかではどのような変化が起こっているのだろう。「最近の彼はまったくヴァーグナー熱にかかって」と言われるとき、気圧の変化に相当する生態レヴェルでのエキゾチシズムの運動をどうにか抽出することはできないだろうか。
 それは古い時代の空気、ときに政治に盲目な病であるかのように扱われる。ボードレールのある散文詩は、繰返しわいてやまないこの情熱の正体をつぶさに観察している。

「素晴らしい国、人呼んで言う〈桃源郷〉、古くからの恋人とともに訪れたいものと私の夢みる国がある。われらの〈北国〉の霧の中に浸っていながら、〈西欧〉の〈東方〉(オリエント)とも、ヨーロッパの中国とも呼ぶことができるであろうほど、さほどに、熱っぽく気まぐれな幻想(ファンテジー)はそこに羽をひろげ、巧みをつくした繊細な植栽でもって、根気よく執拗にこの類稀な国を飾ってきたのだ。

 きみは知っているか、冷たい貧窮のなかでわれわれを捉えるあの熱病を、知らぬ国へのあの郷愁(ノスタルジア)を、好奇心からくるあの苦悶を? きみに似た国があるのだ、そこではすべてが美しく、豊かで、静かで、誠実で、そこに幻想は〈西欧〉の中国を築き上げ飾り立てていて、そこでは生活が呼吸するだに甘美であり、そこでは幸福が沈黙に結び合わされている。それこそまさに、行って暮らすべきところ、それこそまさに、行って死ぬべきところだ!

 真の〈桃源郷〉、本当にそうなのだ、そこではすべてが豊かで、清潔で、光沢(つや)を放っている、立派な良心のように、台所の金属用具類の堂々たるひと揃いのように、燦然たる金銀細工のように、色とりどりの装身具類のように! さながら、孜々として働いて全世界に貢献した男の家におけるがごとく、世界の財宝がそこに集りあふれるのだ。〈芸術〉が〈自然〉に優るのと同じように、他の国々に優る特異な国、そこでは〈自然〉が夢によって作り変えられ、矯正され、美しくされ、鋳直されている。

 夢だ! いつもいつも夢だ! そして魂が野心的であり繊細であればあるほど、夢によってますます魂は可能から遠ざけられる。ひとりひとりの人間は己のうちに天然の阿片のもち前の量、たえず分泌されて補充されてゆく量をもっているのだが、誕生から死にいたるまで、明確な享楽によって、決然として成功した行動によって、満たされた時間というものを、われわれはいったい何時間かぞえることができるだろうか? 私の精神の描いたこの画面(タブロー)、きみに似たこの画面の中に、われわれはいつの日か果して暮らすことがあるだろうか、入ってゆくことが果してあるだろうか?」――「旅への誘い」 

 エキゾチシズムはその中心を錯覚、誤認として持つ。空気のような気分、その反対でしかないものから、幻想を蒸留或いは高濃度化させ、ポジティヴな対象、土地(「素晴らしい国」「〈桃源郷〉」)を形成してしまう、あたかも錬金術のような人間の技術(「〈芸術〉」)の結果なのである。空想の楼閣たるその土地の境界は明確ではないが(それこそ蜃気楼のように)、人工的に住みよくされた閉塞的、密室的な空間である(「(…)男の家におけるがごとく、世界の財宝がそこに集りあふれる」)ことがわかっている。だが、その内側は底知れないのだ。なぜ実際には一度も訪れたことのない国が郷愁を生じさせるのか、二人(「古くからの恋人」「きみ」を連れ立って)で移住すべきであるのかというと、おそらく幻想を見る主体と語られる対象の究極の一致、融合の希求をそれが意味しているからである。だが、この一致、素晴らしい国への帰還の約束の履行、死への到着(「幸福が沈黙に結び合わされて」)は、不可能な「夢」だという嘆きに取って代わられる。各々が一生に見ることのできる幻想の総量は決まっている。それこそ、私たちが「自然」の阿片を、無限に手に入れることができないように(ウィリアム・バロウズなら「気をつけないとあんたたちは売人に跪く運命にある」とでも返すだろう)。
 詩の抜粋が、南方或いは東方に対する時代の憧憬を反映しているのは確かだとしても(実のところ、ゲーテの「ミニヨンの歌」を下敷きとする)、植民地主義的な「旅への誘い」の宣伝ではなく、「われらの〈北国〉」における倒錯した夢想に出発していることは、いま一度、強調せねばならない。ある意味では密室的と言えなくもないこの世から隔絶された、この世のなかの安全な場所を、ヴィクトル・セガレンなら〈想像のもの〉と名づけるだろう。
 タブロー、と詩人は言う。この造形的イメージに反して、私たちは夢の備給によって成り立つ〈桃源郷〉、人工天国を、音楽をモデル・ケースに設定しなおそう。

 音楽と関係することにはどこかエキゾチックなところがある。音楽を楽しむことに対して私たちは軽薄にならざるを得ず、つまり適度な無責任による解放を感じていて、同時にそのために余計に熱をあげるように思われる。
 世界中の音楽をその気になれば聴取可能だということ、所有可能な潜在的な対象として持つことが、地理的もしくは空間的な意味でのエキゾチシズムの条件である。いわゆる「シーン」という語が指し示すように、音楽なかでも大衆音楽は、個別のコンポーザーやプレイヤーを括弧に入れて、特定の場所(アフリカ、沖縄、ハワイ、ニューオリンズ、バビロン、リヴァプール、ケルン、ときに「宇宙」とさえ)と密接な関係を結ぶことがあるとされ、ジャーナリストによってこの新たな震源地は発見され、名指される。もちろん「コロンブスのインド」と同じようなもので、後になり判明することの方が多く、最初の定義に誤解や偏見が混じっていないとは限らない。だが、この媒介者、勇気ある輸入代行者の持ち帰ったものによって、多くの人々が「それ」を求め、欲するようになるということは確かである。この媒介者はさながらツーリスト的存在として増殖する。
 エキゾチシズムの第二の局面は、現在の音楽以前、過去に量的に膨大な音楽が存在してきた、という眩暈のするような単純な事実から発する。テクノロジーの進化とともに、過去の音源の発掘及び補修は、権利上、終わりのない行為となったし、誰もこの状況を覆せない。ここで「シーン」に対応する語は「モード」である。ここでエキゾチシズムに駆られた媒介者は、一人の過激な歴史家となって音楽の調査、鑑定、選別を行う。「吉田美奈子はエキゾチックである」、「戸川純はエキゾチックである」、「笠置シヅ子はエキゾチックである」、等々。唐突だがこの歴史的エキゾチシズムを美術の分野で自覚的に遂行した人物として、岡本太郎を呼び起こそう。 

 エキゾチックなものはきまって熱帯のイメージによって促されている。駱駝、砂浜、椰子。それは音楽においても例外ではなく、五〇~六〇年代のアメリカの一つの流行、マーティン・デニーやレス・バクスターあたりを草分けとするトロピカルでムーディなポップ・ソングは、エキゾチック・サウンドもしくはエキゾチカと呼ばれており、実際に彼らの作る細工は見事さのあまり「エキゾチックな音楽」のステレオタイプとなってしまったほどだ。彼らの目的はラテンとハワイアンをジャズと映画音楽の理論によって統合することにあったと言えるかもしれず、理性による一つの実験であった事実を確認しておきたい。

 一方で、遡ること二〇年代からエキゾチックな音楽が、ジャズの分野でデューク・エリントンという人によって試みられてきた。菊地成孔は、ブエノスアイレスで録音された『南米のエリザベス・テーラー』発売時にまさに「エキゾチック」を主題にしたインタヴューを受けており、そこで(二〇世紀の)音楽におけるエキゾチックなものを(「ワールド・ミュージック」と対立させながら)、マーティン・デニーとデューク・エリントンの二つの潮流に分け、日本における総合者を細野晴臣に位置づけている。私たちもここでは彼の史観に従っている。このインタヴューで氏は、「エキゾチックは空想じゃないと」、と言う。それは自身の音楽の方法に繋がっている。エキゾチック志向は「人工天国」創設の試みである(tripical music?)。
 エキゾチシズムは、〈想像的なもの〉であることを本領とする。二〇世紀初めのフランスの文学者、短い生涯を幾度の旅に追われたヴィクトル・セガレンはそのことを重々承知しながら(セガレンはいささか執拗なほどに、熱帯的(トロピカル)なものを否定的な徴候として彼の定義するエキゾチシズムから訣別させる)、〈想像的なもの〉としてのエキゾチシズムが〈現実的なもの〉と出会うことにより変形を被る過程を、概念的に更新しようとした。ここでの〈現実的なもの〉は、唯物的に受け止めねばならない。

「エグゾティスムの法則と様式は――多様なるものの美学のそれと同じように――何よりも先ず具体的で荒々しい対立、すなわち気候や民族の対立から引き出されるのである。同様に旅路の短調な仕組みから、この二つの世界の間での対立は誰の目にも明らかなものとなることだろう。考えていることと現に遭遇すること、思い描くことと実際に行うこと、望むものと手に入れるものとの間の対立、隠喩によって征服される山頂と足を使って苦労して到達した高地との間の対立、長い十二音節詩句(アレクサンドラン)のなかを流れる河と、海に注ぎ、混ざり合ってしまう川との間の、思考の軽やかな舞踏と――旅路のつらい足踏みとの間の対立は」――「覊旅」

 一見して二元論的、あまりに文学的な問題を装ってはいるが、ボードレールとは異種の、むしろランボーの場合見えにくくなってしまった非弁証法的な感覚の総合の問題に彼は踏み入る。音楽においても、〈想像的なもの〉と〈現実的なもの〉との遭遇はつねに起こっているし、その間で問う可能性は残されているのではないだろうか。デニーはこの圏域から自由であったのだろうか。むしろ「旅の誘い」に消えてしまったかのようだ。もともとニューヨーカーだった彼は、隠棲の地としてホノルルを選び、二〇〇五年当地で死去する。
 七〇年代、ハワイ録音の『ハワイ・チャンプルー』で沖縄音楽の媒介者となった久保田麻琴は、エキゾチカとは別の文脈で日本におけるエキゾチック・サウンドの高揚を準備した一人だが、それ以降、さらにもっと範囲を広げたエキゾチックなものの渉猟に乗り出す。インド、トルコ、タイ、ヴェトナム。航海の次に航海が待っている。久保田麻琴は岡倉天心とは別の意味で、アジア主義にめざめていったと思われるのだが、孤高を感じるのは気のせいか、そうでないのか。

 セガレンは繊細と執拗さをもって光をあてようとした、あまりに近すぎ、それゆえ注意を忘れると視界と経験とから消失してしまうもの、身体のなかで日々屈折と変化を遂げるものに。これが、エキゾチシズムの第三の局面として、また最初から、存在していた事象ではないだろうか。〈多様なるもの〉と呼ばれてきたそれは、世界に遍在する異なるもの全般を指す。未知の〈現実的なもの〉との遭遇によって〈エグゾティスム〉と〈多様なるもの〉はそれ自体の豊穣さ、複雑混迷な驚きと悦びを鍛え直されるが、いまや両者が既知に回収されようとする「衰退」の傾向、〈想像的なもの〉の再帰性に対して、彼は危機を覚える。第三の局面は、異なるものに始まるミクロな触発、初発の耀きそのものなのだ。
 ところで、音楽文化とアルコール、「薬物」は明白な親和性があるということを勘案した上で、薬物摂取による身体変容は〈多様なるもの〉の発見に役立ったのではないだろうか(貶めるために指摘するのではないが、セガレンも一生に渡って阿片の服用を続けている)。それゆえ、芸術家たちは、過去のある時期、薬物摂取の記録を勤しんでつけたのではないだろうか。現在は目新しいものが何もなく、あたかもシュルレアリスムにとっての「夢」「無意識」のような、退屈(の紛わし)に扱われる存在になってしまったにせよ、身体を実験台に空想の過剰性をかつて人々は必死になって理解しようとした。ビートニクのエキゾチシズム研究に関心を寄せるマイルス・デイヴィスの姿を想像する。彼の自叙伝の多くが薬物摂取についてかなりの量を割いて書かれていることの正直さには何か驚かせるものがある(『THE ENDLESS TALKING』における細野晴臣のマリファナ経験にもあたること)。
 セガレンにとって〈多様なるもの〉は個人のなかで発見される、むしろ忘却に抗して取り戻されなければならないある種の新陳代謝である。だが、音楽は集団とともに蜂起する。再度エキゾチシズムを個人の認識と集団の運動という観点から見直すこと。

「《人間主体は、「自我」の想像上の誤認のなかでしか、すなわち、自我がみずからを「認知する」場合のイデオロギー構造体のなかでしか「中心」を持たないような構造によって脱中心化され、構成されている》と、アルチュセールは言っているそうだ。つまり、マイルスが「中心」であるとしたらそれは「誤認」としてだ、ということ。なぜ? 「中心」を求め続けた六〇年代までの黒人社会が、そこにおいて否定されているのか? オン・ザ・コーナーというアルバム自体、「誤認」としてしか「中心」を持たず、〈似ている〉ものの連続した線をA面に引き、断続線をB面に引く、そうしてそれら絡み合った複雑な線が、〈似ている〉ことによって必然的に生じさせる「誤認」としての〈ずれ〉を体感する「時間」、それがオン・ザ・コーナーであり、少なくとも当時は否定的にしか見出されえなかった「黒人」、つまり〈アフロ・アメリカン〉の主体だとしたら?」――青山真治「ブラックサテン」

 音楽のエキゾチシズムはグルーヴの間からマイノリティを現出させる。

一〇枚のアルバム

1-熱狂的な支持者によって革新的ともてはやされる「新しい人」のなかに見出される俗っぽい趣味が、「別の」趣味を創造しようとする後続する者に困惑と安心を与え、抑圧を緩和する方向に働く。このような「新しい人」を裸の王様に見立てては神話解体を装う新たな神話の作成者に名を連ねないようにしよう。多くの神話に彩られ、自ら神話の贋作を語りもしたマイルス・デイヴィスは、なお私たちに音楽を通じて啓示を垂れてくれるかのように思われる。指導者マイルスを引いた群衆の音楽。目立ちたがりのこの男が匿名的になろうとするとき、第三の意味でのエキゾチックが開かれる。

http://www.allmusic.com/album/on-the-corner-mw0000197892

2-ブエノスアイレス録音。エレクトリック・マイルスならぬエレクトリック・タンゴとでも呼べそうな本作は、憂愁に流れず高速度で鋭い不穏がパーカッシヴに奏でられる。バンドネオンの神経症的な震えを、アダルベルト・セバスコのベース、オラシオ・マルビチーノのギターがウォームアップすることで、逆に感傷に陥らず「クール」が保たれる。再リリースにともなって、新録音が三曲追加されているほか、ドラムのオーバー・ダビングが施されている。

http://www.verifyandbuy.com/detail.php?id=57505414

3-ツーリストの好奇心と民俗音楽研究者の生真面目を迂回し、人類学者の叡智に近づく挑発は真摯であり、一時の高揚に流されるものではない。「熱病の起原」と題されたセルフ・ライナーノーツを、エキゾチシズムの自己分析として読んでみること(「三」という単語が読まれる筈だ)。

https://web.archive.org/web/20070301205039/http://www.ewe.co.jp/archives/2006/10/la_pensee_sauvage_1.php
https://web.archive.org/web/20050406004831/http://www.net-flyer.tv/flyer/caltural_cipher/2005/4/

4-チャーリー・パルミエリの鍵盤を、さらにはヴィニー・ベルのエレクトリック・ギターを迎えて同時代のブラック・ミュージック、とりわけファンクと共振しようとした熱気が伝わってくるし、それがあざとく聞こえない。いつも以上に加速するだけでなく、ビッグ・バンド編成の映画音楽のアレンジを上手く消化しているように思う。公開されて間もない『ラスト・タンゴ・イン・パリ』から、表題曲のカバーを含む。

http://www.ticro.com/search/T10001618/11/detail/
https://soundsoftheuniverse.com/product/tito-puente-tito-puente-and-his-concert-orchestra

5-映画『黒いオルフェ』(マルセル・カミュ)のサウンドトラック。リオ・デ・ジャネイロで蘇る異色のオルフェとユーリディスの物語。アントニオ・カルロス・ジョビンとルイス・ボンファが楽曲を担当。このような仕組みを見ても、カミュが当時エキゾチシズムに促されて映画を作っていたことはまず疑いない。

http://www.allmusic.com/album/black-orpheus-1989-verve-bonus-track-mw0000207168

6-ハワイ録音。プロデュースは細野晴臣。久保田麻琴の名が紹介される際、収録曲「ハイサイ おじさん」をもって沖縄音楽の内地への媒介者としての側面が強調されるが、レコードの曲目の半分以上を占めるカバーのラインアップを見てもわかるように、同じくハワイに縁のあるマーティン・デニーの場合には払拭されているブルース、フォークがルーツであることを隠さない(興味のある向きは昨年岩波新書から刊行された久保田麻琴『世界の音を訪ねる』を参照されたい)。むしろこれはブルース・レコードではないか。国府輝幸のキーボードがすばらしい。尚、比較対象として名のあがることの多いライ・クーダー(ボヘミアンとバガボンドの違い?)だが、久保田は録音前にLAで会ったという。何という偶然だろう!

http://pc.music.jp/product/detailalbum.aspx?pid=2005-00000199(リンク切れ)
http://www.mc-club.ne.jp/interview/kubota_makoto/body_1.html

7-ジミー・ブラントン(ba)とベン・ウェブスター(sax)在籍時のエリントン楽団の残した音源を集成。エリントンにとってディズニーが好ましい対象であったかどうか明らかにしないが、子ども向けの少しコロニアルなところのある本やアニメーションの世界に耽溺してやまないような、ツーリストの感性が彼には息づいている。演奏旅行のため世界各地へ実際に足を踏みいれる遥か前、二〇年代から更新し続けたジャングル・サウンドはここで爛熟を究め、二〇世紀の大衆=室内楽の一つのピークが記録されている。これらのエキゾッチクな音楽は、後世の私たちがアメリカを遡ろうとするとき、部屋に舞いこんでくる絵葉書のような存在だ。

http://www.allmusic.com/album/never-no-lament-the-blanton-webster-band-mw0000023432

8-ライナーノーツによれば九七年現在、ハワイ在住のエド・ミシェルがプロデュースに就いたアルゼンチン出身のガトー(七二年ベルトルッチの『ラスト・タンゴ・イン・パリ』に音楽で参加)の凱旋作『チャプター・ワン』『チャプター・ツー』を合わせ未発表曲の追加、エディットを加えたコンピレーション。ガトーとは対極とも言える瞑想的な音を奏でるバンドネオン奏者ディノ・サルーシも一曲だが、参加している。全編にわたってけたたましいテナーが節操をかなぐりすてたようにテーマを繰り返す、さながら錯乱した「ホワッツ・ゴーイング・オン」。マーヴィンにジェームス・ジェマーソンがいたように、セバスコとノヴェリ、リカルド・ルーのエレクトリック・ギターがガトーを支える。ポリリズムが聴きどころ。

http://www.allmusic.com/album/latino-america-mw0000029284

9-五〇年代半ばから六〇年代初頭まで、「エキゾチカ」を確立した楽曲を集める。手入れの行き届いた庭園、公園に近い人工天国。現在の耳ではひょっとすると最初はサンプリングと錯覚しかねない、エキゾチカを特徴づける鳥類に代表される動物の鳴き声は、演奏者の口真似(ビデオを見るとよくわかる)。プエンテと対照的な抑制されたリズム。本質的にキッチュであることを方向づけられた音楽が本物のように聞こえるとしたら、悲劇的なところがないでもない。おそらくそれを意識していたデニーのような人物の衝動、造園する快楽への志向をさらに推し進めると、「歌への回帰」が現れてくるように思う。

http://www.allmusic.com/album/the-exotic-sounds-of-martin-denny-capitol-mw0000613183
http://www.youtube.com/watch?v=OJK2LwD_nEY

10-映画『ティファニーで朝食を』(ブレイク・エドワーズ)のサウンドトラック。ラテン・テイスト。

http://www.allmusic.com/album/breakfast-at-tiffanys-music-from-the-motion-picture-score-mw0000652692

アルバムを選びながら、隣にあった図書

a. ボードレール『ボードレール全詩集Ⅱ』(阿部良雄訳)ちくま文庫
-森に囲まれた厳冬の国ドイツが南国イタリアを憧憬する構図は、エキゾチシズムの一つのモデルである。一九世紀エキゾチックな場所は中国やエジプト或いはアルジェリアばかりでなかった。装飾、休息の対象としての室内、そして群衆の街路。ボードレールはめざとく、かつ巧妙に示す。

b. スティヴンソン『旅は驢馬をつれて』(吉田健一訳)岩波文庫
-パラオでスティヴンソンの本を大事に抱えながら斃れた中島敦という人もいる。吉田健一訳の本書はどこまでも軽やかで、厄介な驢馬が愛らしい。セガレン、ブニュエル、ティファーナ、図書のなかに驢馬を散見できる筈。

c. ロンドン『野性の呼び声』(深町眞理子訳)光文社古典新訳文庫
-南国の犬が極寒の地へ向かい、人間と狼の陣地の往還が、〈多様なるもの〉を醸成する。

d. セガレン『〈エグゾティスム〉に関する試論/覊旅』(木下誠訳)現代企画室
-本書の木下誠の翻訳と訳注が作家の優れた手引きになる。驚くべきことにセガレンはタヒチで没したゴーギャンの遺品の整理にあたっている。またドビュッシーの慫慂でオルフェのオペラを書くなど、大物との交流もあったが、本質的にマイノリティの作家だった。

e. コクトー『阿片』(堀口大學訳)角川文庫
-三ヶ月の静養のなかで書き継がれた覚書。

f. バロウズ『裸のランチ』(鮎川信夫訳)河出文庫
-ビートニクはアメリカにおけるアマチュア人類学者であったかもしれない。人類学的、民俗学的な陶酔、聖性といった主題を、アルコールや麻薬の使用に適用すること。

g. 岡本太郎『美の呪力』新潮文庫
-シュルレアリスムや人類学の高揚を実地に駆け抜けたあくまで冷徹な知性によるレポートとして。

h. 澁澤龍彦『高丘親王航海記』文春文庫
-病床で声もなく綴られた著者最期の本。

i. 管啓次郎『狼が連れだって走る月』筑摩書房
-特に「タルシーラの回廊とエグゾティシズムについて」「ホノルル書簡」を参照。著者は良い意味で岡本太郎の問題系を継続する。

j. 青山真治『ホテル・クロニクルズ』集英社
-自らが、「交差点」(オン・ザ・コーナー)となる表現と化すこと。「Radio Hawaii」はブライアン・ウィルソン論としても読める。『サッド ヴァケイション』に至るまでの過渡的な証明(ブリッジ)。

 さしあたり、狼と驢馬が、私たちの二つの方向性を決める。その中間では「健気な犬たち」(ボードレール)が自分たちの用事のために消える街路のキャラヴァン……!

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