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アメリカのスケッチ (2005)

*2005年09月24日、mixiにアップした文章の再掲です。

Stranger In A Strange Land
1. Stranger In A Strange Land / Leon Russell '70
2. Dust Bowl Ballads / Woody Guthrie '40
3. 泰安洋行 / 細野晴臣 '76
4. Sun Song / SUN RA and his Arkestra '57
5. Trout Mask Replica / Captain Beefheart '69
6. Fess: Anthology / Professor Longhair '93(50-80)
7. In the Right Place / Dr.John '73
8. Naturally / J.J.Cale '72
9. Apollo: Atmospheres & Soundtracks / Brian Eno '83
10. Time Out of Mind / Bob Dylan '97
11. Free Beer & Chicken / John Lee Hooker '74
12. Bangladesh Concert / VA '71

 オクラホマの赤い土と、灰いろの土地の一部に、最後の雨は静かに訪れて、傷あとだらけの大地を切りくずすこともなかった。
――スタインベック『怒りのぶどう』(大橋健三郎訳)

If you'll gather 'round me, children, A story I will tell
Of Pretty Boy Floyd, an outlaw, Oklahoma knew him well
――ウディ・ガスリー「プリティ・ボーイ・フロイド」

Gather round me, people got a song to sing
'Bout the sweet magnolia time
――レオン・ラッセル「デキシー・ララバイ」

I been in the right place
But it must have been the wrong time
――DR.ジョン「イン・ザ・ライト・プレイス」

69年 ブライアン・ジョーンズ(27)、自宅プールで謎の水死。多量の飲酒の上の薬物摂取が禍したものと思われる。
70年 ジミ・ヘンドリクス(27)、睡眠薬の多量摂取が引きがねとなって、そのまま永眠。
   ジャニス・ジョプリン(27)、薬物(ヘロイン)の多量摂取で急死。発見されたときは、ガウンを羽織って片手に4ドル50セントを握っていた。
71年 ジム・モリソン(27)、自宅バス・ルームの浴槽で死んでいるのを妻パメラによって発見される。原因は心不全。

 さしあたり、享年の符号は無視する。この年表のはじめに《66年 ボブ・ディラン(25)、ウッドストックの自宅近くでバイク事故を起こし重傷を負う》という記述を付け加えることから、わたしの物語は始動する。前年よりザ・バンドの前身ホークスを連れてツアーに出ていたディランは、7枚目のオリジナル・アルバム『ブロンド・オン・ブロンド』をリリースした後交通事故に遭ったことによって、およそ一年半表立った活動から身を遠ざけることになる。翌年はサンフランシスコで開催されたヒューマン・ビー・インを皮切りに、いわゆるサマー・オブ・ラヴが到来し、ヒッピー・ムーヴメントの絶頂として記憶される年である。ここでは手ばやく洗い直す他ないが、一年を挟んで69年からヒッピーにおけるポップ・イコンが次々と無残な死を迎えていることを復習すれば、「ライク・ア・ローリング・ストーン」を地で行ったかのような(?)ディランの生き残りは戦略的な撤退と見えなくもない。ウッドストックで療養中、ディランは後に「ザ・ベースメント・テープ」というアルバムになるセッションをザ・バンドと重ねるだろう。ところで、60年代後半から70年代にかけるアメリカのポップ・シーンの潮流であった「ルーツ・サウンド」を支えたといわれるザ・バンドが、ロニー・ホーキンスという一人の南部人のバック・バンドとしてキャリアをはじめており、残り全員(四人)がカナダ人という奇妙な構成であったことを注記する必要があるかもしれない。あえて特定の日付を引き合いに出すならば、68年5月以降、カウンター・カルチャー及びヒッピーは頽廃をともなった存続を余儀なくされ、彼らは聖地をサンフランシスコ、カリフォルニアから別の場所へ移す。そして70年代、「ルーツ」として別の場所、つまり南部が「発見」される。後述するように、この「発見」の担い手はアメリカ国民に限らなかったという意味で異例のものであっただろう。

 南部といっても広範だが、ここでは便宜上、二つの地名、オクラホマ州タルサとルイジアナ州ニューオリンズを出すにとどめる。両者は当時の南部回帰という趨勢において(テネシー州ナッシュヴィル等とともに)とりわけ求心性を働いた場だといってよい。つけ加えて、当時これらの土地のミュージシャンにとってロサンゼルスが無名時代から音楽の都市として機能していたという事実に触れておく。
 ルーツ志向の「泥臭い」と形容されることの多い一種の音楽が「スワンプ」という異名=ジャンルに70年代以降定着する。「スワンプ」の火付け役となったのが、元はスタジオ・ミュージシャンだったオクラホマ出身のレオン・ラッセル【1】のデビュー・アルバムと、その発売元となった彼がデニー・コーデルと立ち上げたレーベル、シェルター・レコードである。ラッセルはロートンの生まれだが、「レイド・バック」を手法にまで高めたミュージシャンとして、レーベルの拠点タルサに生まれ彼の年長の友人にあたるJ.J.ケイル【2】の名が続いて記憶されるべきである。60年代にソロ・シングルを出すものの失敗に終わり、ラッセルの援助を得て制作されたシェルターからのデビュー・アルバムが成功を収めてから本格的に第二のキャリアをあゆみはじめ、以降コンスタントに作品を発表し続けている。良くも悪くも二枚目から抜本的な変化が見られないように、『ナチュラリー』はケイルのサウンド・スタイルを確立した金字塔的なアルバムだといってよい。全体を覆う靄のかかったようなテクスチュアは(複数の)弦の厚みと揺れを構築するため、むしろ必要なものであって、たとえば一曲目などリズム・ボックスのハイ・ハットがか細いハスキーなヴォーカルの後ろでヒス・ノイズのように鳴らされる演出が施されている。それが現在は「ロー・ファイ」に聞こえるという錯覚を起こす。ケイルの音楽はいわば抑制されたサイケデリック・ミュージックの趣があって、曲調は穏やかであるがそのレイド・バック感の与える陶酔は乾いたシニシズムさえ感じさせる。60年代にケイルのサイケデリックがどんなものであったか、幸いにもファン・サイトで聴くことができる(*1)。エリック・クラプトンがカヴァーしアルバムにも再録されている「アフター・ミッドナイト」のアレンジを、シングルでリリースされた最初の録音と比較してみると、アレンジの方向性がアルバムで明瞭なことがわかるだろう(*2)。テンポがただ「遅い」という意味にとらわれない、ケイル独自の「レイド・バック」に注目するのも一考だろうか(*3)。
 ラッセルのデビュー・アルバムのリリースされた70年はまた、マーヴィン・ゲイ「ホワッツ・ゴーイング・オン」がアメリカ本土に甘い嘆きを報告するように未だヴェトナム戦争の最中にあった。アルバムの最後をディランの「マスターズ・オブ・ウォー(戦争の親玉)」がアメリカ国家のメロディに乗せた歌で締めくくっていることからも、時代を知ることができるだろうか。ともあれ、翌年のアルバムでもラッセルはディランの曲をカヴァーし、「ラヴ・マイナス・ゼロ/ノー・リミット」他お蔵入りになったものを本人にプレゼントをして贈り、これを期にセッションを含めた二人の交際が始まることになる(*4)。さて、注目すべきはデビュー・アルバムがロンドンで録音されているという事実だろう。エリック・クラプトン、ジョージ・ハリソン、リンゴ・スター、クラウス・ヴーアマン、スティーヴ・ウィンウッド等々、演奏者に多く現地のミュージシャンが参加していることも見逃せまい。彼の仮設しようとした「シェルター」(或いはスワンプ)が、ただのアメリカ南部音楽の再認ではなく、当初は大陸横断的なものであったこと、そこに南部回帰のユニークな点の一つが見られよう。ハリソンにって提起された71年のバングラデシュ難民救済コンサート【12】にも、ラッセルはクラプトンとともに参加し、またその「つて」で(ディランが追悼コンサートを除けば)このとき公に姿を現すことになった。ブリティッシュ・スワンプと呼ばれるフォロワーがいる(らしい)ように、ラッセルの人脈から発した一時期の南部の求心性を語るものだろう。

 ラッセルと同様、スタジオ・ミュージシャンとして下積みを送っていたドクター・ジョン【7】だが、72年、ソロ・デビューを飾って三枚目のアルバム、かの有名な『ガンボ』においてニューオリンズ・ミュージック再発見を宣誓する。これが70年代初頭のアメリカ南部への注視を別の文脈で用意した。『ガンボ』の翌年、プロデューサーにアラン・トゥーサン、バックにミーターズを従えてリリースされた『イン・ザ・ライト・プレイス』は磨き上げられたニューオリンズ・ファンクとレイド・バック感の融合が素晴らしいアルバム。当時ドクター・ジョンはジャンキーだったようだが、ケイルのような恒常的なダルさとは違う晴朗さをアルバムでは披瀝している。それは後者のムクムクとした弦を中心とした音響の平板さと比べ、このアルバムは立体的な音の空間配置をしている点にもよるだろう。
 プロフェッサー・ロングヘアー【6】、通称フェスはドクター・ジョンの師にあたり、49年で録音デビューするも不遇の時代を長く送っていたが(それはニューオリンズの音楽シーンが衰退期にも対応する)、ドクター・ジョンやネヴィル・ブラザーズの用意したニューオリンズ復興を通じて、白人のブルーズ・ファンによって見出されることになった「伝説的な」ピアニストである。15年間の活動を休止していた間は、トランプ賭博士で生計を立てていたという(*5)。賭博と音楽というと、唐突だがこんな言葉を引きたくなる……。

《ルターは「酒、女、歌、これを好まぬ者は一生馬鹿で終る」といった。わが国ではこれを、「飲む、打つ、買う」と動詞にする。いずれも男が耽溺するものである。ただし歌つまり音楽と、「打つ」つまり賭博のところが、日本とドイツで違っている。しかし、賭博を理解している人に尋ねてみると、じつは歌と賭博は似たような性質があるとわかる。つまり、賭博とは、早い話が「めまい」なのだそうである。当たってもはずれても、「めまい」がするという。「めまい」というのは耳で感じる感覚である。聴覚と平衡覚は、それこそ脊髄動物の発生した時代から共に歩んできた感覚であり、両者は発生上同じ原基から生じ、脳内で類似の経路を通る。おそらく報酬系への影響が類似しているのであろう。》(*6)

 80年に没した彼の残した業績を二枚組みで通観する 『アンソロジー』は、当然録音の状態も様々ではあるが、どのバンドにあってもフェスが全体を指揮していることは明らか(ドキュメント映像から採られたトゥッツ・ワシントンとアラン・トゥーサンとの連弾も収められいる)。ヴァージョンの違う曲もいくらか選曲されており、いかなる環境にフェスがどのように介入していったか、余すところないアイデアとそれを裏打ちするテクニックが伺われる。R&Bともブルーズともファンクとも形容しがたい、百花繚乱のブギウギを演奏したフェスは、JBとならぶワン・マン・ミュージックに数えられるのではないかと思う。
 ところで、わが国で『ガンボ』の衝撃を受け、ニューオリンズ音楽への接近も図った人物に細野晴臣がいる【3】。ソロ三作目『泰安洋行』には、まさしくフェスのスタイルを倣った「東京Shyness boy」が収められている(*7)。マーティン・デニーに霊感を受け、カリプソ、スカ他、また沖縄音楽へのアプローチしている点(当時、沖縄へ訪れたことはなかったという)からもこのアルバムは興味深く、単なるエキゾチシズムを超えたものを南部の「発見」と共振させることもできるのではないかとも思うが、個人的に大変優れた言語感覚の持ち主だと信じている細野晴臣氏の、その名も「Boogie Woogie の秘密」と題された論考をここでは引いてみよう。

《ブギウギの中には隠された創造性がある。現代の人間はほとんど忘れている異と異のせめぎあうビートのことだ。4ビートと8ビートがぶつかり合う境界は、絶妙なバランスで或るポイントの宙づりリズムが生まれる。それは強いて言うと一拍子である。ビートがひとつひとつ自立していて、アフター・ビートと言われるような主従関係が排除されている。そのステップの連続が宙吊りなのだという感覚を言葉で伝えることは不可能だ。自分の中に異質を取り込み、あるいは育み、それらを楽しむことだと言うほかはない。》(*8)

 これら「一拍子」「宙づりのリズム」「ステップの連続が宙吊りなのだという感覚」という言葉は、フェスのピアノのスタイルを簡潔にいい表わしているというほかない(*9)。コードの響きに解消されることのない鍵盤ひとつひとつの肌理の細かさ、左手と右手が異なるリズムを叩きながら永遠に寄り添っていくスリル(*10)。いま一度、ブギウギをキーにジョン・リー・フッカー【11】の『フリー・ビアー・アンド・チキン』やキャプテン・ビーフハート【5】の『トロウト・マスク・レプリカ』(ちなみに前者のプロデューサーはエド・ミシェル、後者はフランク・ザッパ)を聴いてみるのもいいかもしれない(或いは土星からの使者サン・ラー【4】の『サン・ソング』?)。74年のセッション『フリー・ビアー・アンド・チキン』はジョン・リー・フッカーがファンク寄りの演奏をしたやや色物とも看做されかねないアルバム。彼はミシシッピ生まれだが、ラッセルがアルバム・プロデュースを手がけたジョー・コッカーが参加している点(そうした所以で、前述のラッセルのデビュー・アルバムにコッカーの名が見られる)が、当時の南部のスケッチにいくらか役立つだろうか(*11)。さて、ここで唐突ではあるがこの作品によりヒッピーの申し子になってしまったリチャード・ブローティガンの『アメリカ鱒釣り』(67年)から、本文と該当部に付されている訳註を読むことで再び寄り道をしよう。いうまでもなく、鱒=Troutの連想で……。

《 さくらんぼ摘みのボスは、中年の女性で、正真正銘のオクラホマっ子だった。だぶだぶの上っぱりを着て、名前はレベル・ハイスミスといい、オクラホマでは〈プリティ・ボーイ〉フロイドと知り合いだったという。「ある日の午後、〈プリティ・ボーイ〉フロイドが車でやってきてね。わたし、玄関へ駆け出しちゃったわよ」》

《オクラホマっ子――okie はオクラホマ出身者というもとの意味と同時に、現在では「流れ者」「貧乏人」「季節労働者」などを指して使われるようになった。スタインベックの『怒りの葡萄』の人々は、okies の原型である。
〈プリティ・ボーイ〉フロイド――三〇年代のギャング。》(*12)

 いきなりで恐縮だが、わたしは『アメリカの鱒釣り』からまるで楽しみの恩恵を受けることができず、今のところ神経衰弱しか起こさない。本作はヒッピーのバイブルという扱いを受けることもあるが、同じ時期彼らのバイブルの役割を果たしたとされる四十年前に書かれたドイツ人による著作を引き合いにだすことで、彼らの美点(?)であり欠点でもある「脆さ」を知ることができるかもしれない。その著作とは、ヘルマン・ヘッセ『荒野のおおかみ』(27年)である。『荒野のおおかみ』は簡単にいってしまえば主人公ハリー・ハラー(=HH=ヘルマン・ヘッセ、ととりあえず連想できよう)の疎外からの回復の物語である。物質主義への埋没が可能にする礼節を保った生活と同時にそこに属し得ない激しい情動(その側面が「荒野のおおかみ」と名指されることが多い)という、あたかも検察官と容疑者を一身に担うようなハリー・ハラーの内省、或いは終わりなき弁明……と書きだして自分でも退屈しか覚えないのだが、ヘッセは同時にそうした退屈すらも見越して仮借ないシニシズムを書きつけ、「なおかつ」長くなるのだから厄介である。わたしは、この本には今日までのポップ・ミュージックに関わるジャーナリズム(とは、しかし何か?)の喜びそうな題材が詰まっていると思う。ヘッセの筆致は聡明で、ヒッピーに好意的に読まれたのかどうか俄かに信じがたいほどだ。現在『荒野のおおかみ』を読むと、ヒッピーが今も、沢山生きていると思えてくるから居心地悪い。「荒野のおおかみ」こそアウトロー(法外者)の典型であり、またそれに嬉々として飛びつきそうな都市の二重生活者の典型でもあろう。よって、このヘルマン・ヘッセの書いた気味の悪い予言は、サタイアとして読むのが健康的ではないか。
 とすれば、ヘッセの冗漫さから縁を断っている『アメリカの鱒釣り』は、あえてジャンルを挙げるならアメリカの寓話であろう。人一倍快楽主義的で、かつ死への魅惑と恐怖を抱えたハラーのようなうっとうしさはこの本には見られない。ヨーロッパのハラーが「仮の宿」を転々としつつ(こうしたところもヒッピーの共感を得たのだろうか)、狭い囲いに弾かれる駒のような窮屈な漂白をしながらセンチメンタルに「終の栖」を追い求めていたとすれば、アメリカはその出自からして「仮の宿」と「終の栖」が等号で結ばれるような場だからだろうか。訳者の藤本氏の卓抜なあとがきにはこのようにある。

《「アメリカの夢の終末」を語る目的でもなく、破壊された自然に捧げるエレジーとしてでもなく、文学の意匠や生活様式の変革を万能薬として説く断片化された想像力の結果としてでもなく、きわめてトータルな、それゆえに勇気ある企てとして、この『アメリカの鱒釣り』は生まれてきたのではなかったか。
 この小説の表紙が、作者とベンジャミン・フランクリンの、“ワシントン”(原文は二重引用符内に傍点――引用者註)広場における写真であることを考えてみたい。
 ベンジャミン・フランクリン――アメリカのはじまり。アメリカの夢のはじまり。そして、銅像として半永久的に固定された男のまえに立つのは、アメリカの鱒釣りから帰ってきた男である。けれども、物語『アメリカの鱒釣り』は、これから始まるのである。ということは、表紙の男は、これからでかける、というふうにもいえる。》(*13)

 メルヘン化したアメリカを生きるユリシーズ。漂白のなかで何度も何度も「仮郷」に、始源に戻ること。90年代になってもドクター・ジョンがニューオリンズへ、世紀が明けてケイルがタルサへ戻ることを主題におくのは、そうした身ぶりにあたるのではないか。『荒野のおおかみ』が振り子(実際に本文に出てくる語である)のイメージだとすれば、『アメリカの鱒釣り』は迷宮めいた螺旋とでもいえよう。この際、どちらがよりよいか、という問題ではないが……。
 ところで、フランクリンよろしくアメリカの夢を(再び)はじめるための化石化した触媒がこの本には散りばめられているが、その一つに、プリティ・ボーイ・フロイドという民に就くアウトロー(日本でいうねずみ小僧のような、しかしこちらは藤田氏の註にギャングとあるように、ときに射殺も辞さなかったバンク・ロバー)がいる。ディランの師としても知られるオクラホマ州オキーマ出身のフォーク・シンガー、ウディ・ガスリー【2】は、彼を題材に歌を書いている。ブローティガンと同じく、フロイドを義賊として神聖化するのではなく、こちらも同じ目線で対している。ガスリーが40年にリリースした『ダスト・ボウル・バラッド』は30年代のオクラホマ農民が被った「グレート・ダスト・ストーム(砂塵嵐)」を扱っている。39年、スタインベックの『怒りのぶどう』が出版され、翌40年にジョン・フォードを監督によって映画化された同作に触発されてニューヨークで録音を吹き込んだ本作は、まさに時宜を得たものであっただろう。刑務所を仮出所した『怒りのぶどう』の主人公トム・ジョードの歌が歌われているように、虚構への親和性を持ちながら、現実のオクラホマを語り伝えることからも、殆どの歌に砂や塵のイメージが出てくるこのアルバムは極めてコンセプチュアルなサウンド・トラックというに相応しい。砂嵐や竜巻の災害の見舞われる土地に生まれ、また「この世にもうおれのいえはない」と歌われる「アイ・エイント・ガット・ノー・ホーム(住む家とてなく)」の曲が示すように実際に放浪を続けたガスリー自身のそれであると呼べるに違いあるまい。

《 Living in eastern Oklahoma and north Texas, traveling to southern California with people as busted out as the Joad family of The Grapes of Wratb, Woody Guthrie came to know dust as a constant companion. Maybe he'd even come to think of himself as being a little like dust, blown whereever the wind took him. He knew the Bible, which says that we are dust to dust, and he knew that poor people like the ones hie lived among were "common as dust".》(*14)

 また、塵(埃)のイメージは、スタインベックの作品と同じく、「人塵より出で塵に帰す」という聖書のヴィジョンと対応していたことを確認しておく必要がある。ここでラッセルのスワンプを想起するやある矛盾をなさないだろうか。乾燥と湿潤、日照りと洪水……矛盾というか音楽を聴く際の錯覚はミシシッピ川も流れる南部の気候がそれだけ多様だという事実によるが、どちらも聖書的なヴィジョンを妨げるに到らず、むしろここにおいて、アメリカはキリスト教と特異に結合する、という仮説(?)が導かれる。いざ、エデンの東へ。
 ともあれ、ガスリーのアルバムが大陸の乾燥を結晶化したとすれば、ラッセルは70年代初めゴスペル・タッチのスタイルによって湿潤を結晶化させた。決して同時に実現することのない気候の配合を、ダニエル・ラノワという南部音楽に近しい一人のカナダ人を共同プロデューサーに起用したディラン【10】の90年代最後のアルバム『タイム・アウト・オブ・マインド』で聴くことができるとすれば……? 砂埃の水溜まりを歩くような「ダート・ロード・ブルース」を例えば聴いてみること。89年既にディランはラノワとニューオリンズで『オー・マーシー』を録音している。マイアミで吹き込まれた本作の「トライン・トゥ・ゲット・トゥ・ヘヴン」にも「川を下ってニューオリンズまで」というラインがある。語義矛盾のようだが、80年代以降、南部への回帰を前進させた(そこには南部のミュージシャンも含まれる)、レイド・バックの意義を刷新した人物としてラノワは記憶されるのではないかと思う。またわれわれの注目してきた時期には、アポロ計画(68-72年)が進行し、月の砂漠の上での浮遊を映像で目の当たりにしたのだった。彼がキャリアの初期にロジャー・イーノとともに三人で共同でプロデュースした、アル・ライナートのアポロ計画の映像制作へ提供されたブライアン・イーノ【9】の『アポロ』には、アメリカ音楽と呼びたくなる瞬間が幾度かある。
 エリック・サティは家具の音楽の着想をコンサート・ホールで実験したが、イーノはその着想を寝台の上で拡げることができたところに才がある。後者における「アンビエント・ミュージック」萌芽の契機は、室内でレコードで聴く音楽を始点としている。そのとき彼が交通事故で体の自由がきかなかったことも幸いした。サティは家具の音楽が思いもよらず聴衆に「鑑賞」されることに腹立って「お喋りを続けるんだ!歩き回って!音楽を聴くんじゃない!」と叫ばずにはいられなかったが、寝台で孤独にすら飽きかけていたイーノは人の耳の散漫さ(注意の様々の度合い)に着目することができた。彼にとっては、音楽は環境の一つの要素だが、それを「家具」のようなものと看做して他の要素、例えば、映像と並列したにとどまらず、それをさらに推し進め、要素と要素が絶えずそこにない新たな関係性を結び続ける可能性に賭けた(*15)。ライナートからアポロ計画の映像に音楽をつけるよう依頼されたときイーノの感じた素朴な喜び(*16)。

"I hope this music will assist in that"!

*1
http://www.jjcale.net/samples.php
試聴だけでなくダウンロードも可。要求されるユーザー・ネームとパスワードは表示されたページの下方を見ること。
*2 
http://www.jjcale.net/snd/singles/Liberty%2055931/after%20midnight%20(liberty).mp3
http://www.jjcale.com/discography/samples/aftermidnight.mp3
*3
http://www.jjcale.com/biography.html
*4
現在は”Leon Russell And The Shelter People”のボーナス・トラックに収録。
*5
ピート・ウェルディング、トビ-・バイロン編、小川隆・大場正明・他共訳『ブルースに焦がれて』(1993、大栄出版)
*6
養老孟司『カミとヒトの解剖学』(2001、ちくま学芸文庫)
*7
テレビ東京系「~空色グラフィティ~ 君に会いたくて」という番組のテーマ曲でも流れているので、知らず聞いている向きもいるかもしれない。
*8
http://www.daisyworld.co.jp/quiet/voice10.html
*9
「一拍子」については、最近復刊された北中正和を聞き手に迎えた『細野晴臣インタビュ―THE ENDLESS TALKING―』(2005、平凡社ライブラリー)でも言及が見られる。
*10
「再発見」後のフェスが、ウィリー・ティーとジャム・セッション(連弾)に興じたときの美しいエピソード。
《一度も、演奏が乱れたり、邪魔しあったりはいしなかった。フェスは低音部を選び、トリッキーだがきっちり演奏された、素晴らしく乗りのいいリズム・パターン――アフロ・キューバン、ウォーキング・ベース、ドライブのきいたブギウギ――を叩きだした。ティーはモダンなコード展開や、繊細な装飾音や、鋭いカウンターリズムのやりとりを刺繍のように、フェスが築いた土台という生地の上に織りこんでいった。その狭い部屋にはお互いへの尊敬と愛情、すさまじい精神集中、それに少なからぬ魔法がみなぎっていた。連弾が終わると、フェスが<ストーミー・ウェザー>Stormy Weatherをソロで弾いてくれないかと頼んだ。ピアノの音色が室内に響きわたる。ティーが鍵盤から両手を離してからも、倍音の格子細工の幻がいつまでも流れでていた。
 その晩遅く、ポロン、ポロンというほんのかすかな音が、私を深い眠りから目覚めさせた。(…)フェスだった。階段を下りた地下室で、ただひとりアップライト・ピアノに向かっていたのだ。耳慣れない、実に奇妙な音楽を奏でていた。右手のメロディとそれを支える低音域が、懸命にからみあおうとし、融合したいというせつないまでの気持ちが手にとるようにわかった。だがその音楽の優しさの上に、断続的に耳を刺激する不協和音と、予測のつかないタイミングで爆発する焦燥感がおおいかぶさった。(…)フェスは<ストーミー・ウェザー>を弾こうとしていたのだ。ところが、彼は生粋のブルースマンだったので、この曲の転調とくねくねしたメロディを、主音、下属音、属音というブルースの和声を特徴づけている三つのコードの順列組みあわせに、無理やりあてはめようとしていたのである。もちろん、普通に考えれば、絶対にうまくいくはずはなかった。しかし、彼の努力はあまりにも崇高であり、きしるような音のぶつかりあいが表情豊かに新鮮に響いたので、名演奏家があっさりと弾きこなす完璧に調整されたお手本などよりはるかに素晴らしかった。》
『ブルースに焦がれて』
*11
このアルバム、プロデューサーにエド・ミシェルとある他にはクレジットが無きに等しい。アマゾンのカスタマー・レヴューにはサム・リヴァースやマイケル・ホワイトが参加、とあるが、本当。クレジットの詳細は下記のサイトを参照。
http://web.telia.com/~u19104970/jlhpage3.html#michel
http://www.edmicheljazzproducer.com/john_lee_hooker.htm
*12
リチャード・ブローティガン、藤本和子訳『アメリカの鱒釣り』(2005、新潮文庫)
ちなみに、曽我部恵一氏がどこかで同じ著者の『愛のゆくえ』に賛辞を送っていたはずである。
*13
『アメリカの鱒釣り』
*14
”Dust Bowls Ballads”(BUDDHA盤)のDave Marshによるライナー・ノーツ。
*15
「光の色や雨の音が環境の一部であるように」
http://music.hyperreal.org/artists/brian_eno/discreet-txt.html
*16
サイト下方、『アポロ』に付されたイーノ自身のノート参照。
http://www.leninimports.com/brian_eno.html

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