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SHIBUYA PIXEL ART 2023 HAKKO

2023年9月24日、MIYASHITA PARKに直結するホテル「sequence」の四階ラウンジで行われたクロージング・パーティをもって、「シブヤピクセルアート 2023」の十日間に及ぶ全体会期が終了した。2017年に始まり、七回(期)目を迎えた、渋谷界隈を舞台にオンラインを越えたピクセルアートの祭典(と言ってよいだろう)、「シブヤピクセルアート」。本年は『HAKKO』——開催主旨によれば、「発光」と「発酵」のダブルミーニング——をテーマに、古民家でのグループ展を含む九会場での開催となった(これらに、後述するが、スマートフォン充電器のシェアリングサービス「ChargeSPOT」のサイネージ設置店舗が加わる)。筆者も9月17日のオープニング・イベント「音電Opening Night!」に出演させてもらったことをきっかけに、ピクセルアートやドット絵のみならず、ロービットアート再考を促されることになった。「音電」やクロージング・パーティの双方とも大がかりなもので、とても印象深い夜になったのだが、以下の文章では、展示に絞って、各会場を巡った上での感想を記すことにする(残念ながら、EXCALIBURの「#FFFFFFFF TSUKUMO」に関しては、会場「or」での鑑賞が叶わなかった)。


渋谷から原宿へ

このような周遊型の展示では、場所と作品がいかに関係を切り結んでいるかという期待と、実際の鑑賞体験のなかでの印象の更新が、時間をかけて歩いて回る動機になる。先回りして述べておくと、各会場で既視感を得てしまうような、同種の体験が繰り返されることはなかった。作品が場所に対して、全く埋没的になっていることもなかった。

JooJaebum—Solo Exhibithion “Photosynthesis”

今回、唯一個展と称されていたJoo Jaebum「Photosynthesis(光合成)」の会場はホテル「all day place shibuya」。視線を遮蔽する外壁が四方を取り囲む、地上の自動ドアからフロントに向かうタイプの宿泊施設ではない。一階はテラスもある開放型のカフェだ。ガラス採光という建築の特徴もテーマ決要因の一つになったと思われる。通りに面した一階の「POP-UPスペース」と二階のレセプションが展示スペースになっていた。階段直下のタイルとタイルの間の砂利敷きから湧き出るように、一つ一つの「目」の大きなキルトマットが広がり、その野原(作品名は《Somewhere in the forest》)にボクセル風の花が茎を伸ばして咲いている。その様子を個展ロゴの貼られたガラス壁の方に回り込み眺めると、上部階段からホースが水やりのために(?)「野原」の方へ垂れ下がっている。色彩が1ピクセル以上の面積を持つ場合、継ぎ目なしに塗り潰されるように、布が切り取られている。マットも平らではなく、柄を形成する花や水が凸面になっている。壁と床の正方形タイルと目地がピクセルを埋めるようにピクセル状の植栽が広がっており、「浸食」の印象も受ける。

Joe Jaebum《Somewhere in the forest》(2023)
内観(左)と外観(右)。

エレベーターで二階に上がり、レセプションに出る。壁面を飾る作品も1ドットの目の粗さによって視線を引き付けるが、一階展示のようなギャップなく場に溶け込んでおり、控えめである。奇抜な印象はない。
作家によると、「光合成」というテーマの決定要因は、「all day place shibuya」のファサードや、内部タイルや什器の色が緑で、植物が光合成しているかのようだからだという。現地に観葉植物はあるものの、森林 the Forest のなかに位置しているわけではなく、タイルも(什器は確認できなかった)ピクセルアートの造花も、人工物としてのリアリズムを採っていたから、展示からアイロニーを感じるのは「深読み」だろうか。というのも、作家は光合成のための「光」さえ作品化していたし、上記の展示主旨から外れているかに見える《Pixel Bomb》という名の小型爆弾も並べてあったからだ。西洋古典絵画をモティーフにした作品も数多い作家は、「真似る」ことの意義に敏感だと私は思う、

左:前述の「野原」の一部を切り取り拡大したようなモザイクキルト。一階展示の体験が視認性に貢献している。
右:観葉植物の置かれた角を飾る《The flow of light》(2023)と《The wall of ivy》(2023)。光の位置をどこに設定するかに、苦心の跡が伺える。

tsumichara—BANANA X

tsumicharaの《BANANA X》は唯一の屋外展示で、一枚の絵画の鑑賞体験とは異質なものを与えてくれた。四枚のカンヴァスからなる作品はさらに59の区画に分けられ、各区画がNFTに紐付いている。NFTホルダーからの提案を受けて各地を巡回することを目指す「プロジェクト」だという。NFTホルダーは自宅に所有可能で持ち運び可能な現物への所有権が実はなく、法人へ株式投資するようなものだから、ホルダー同士の組織(総会?)が代わりに必要なのだと言えるだろう。作品ステータスの分裂。
とするなら、展示場所は突如街に出現するグラフィティのように、意表を突くものであったほうが良いはずだ。作品の巡回と鑑賞者の回遊の接点として、桜ヶ丘再開発エリアが選ばれた。実のところ、展示会場は、上下左右入り組んだ現在の渋谷のなかでもやや分かりづらいところにあり、人の出入りの少ないエレベーターと階段を使ってビルの屋上に向かわなければならなかった。偶然私は同じ目的地を目指す男性と居合わせ、「この行き方で間違ってないだろうか」と不安を感じつつ、「バナナ」を一緒に発見したが、そうしたつかの間のサスペンスを含む体験をできたことは、運が良かったのかもしれない。
作品が吹きさらしになっていたことにとても驚いたが、展示期間が終わると現物は跡形もなく消え去り、デジタルスペースにひとまず退く二面性を備えた作品のある種の儚さに似合っていたかもしれない。

tsumichara《BANANA X》(2022)
左:屋上へ通ずる扉を開けるとカンヴァスに遭遇する。黒が映える。
右:近くの階段からの眺望。会場に行く途中、再開発のため警備員が立哨する区画、整備された道を通る。

ドットレカ展

ピクセルアートは多様なフィールドから人が集う活気にみちた交差点だ。アマ・プロ問わず、またゲームという大きな参照や拠点(インディゲーム関係者も多い)を越えて、多くの人が出入りするメディアになっている。必ずしも巧拙だけで評価されず、また皆が皆、「アート」「芸術」を志向しているわけでもないとも思われる。固有のスタイルを持つ各作家にアクセスしやすく、経験年数を問わず切磋琢磨できる環境が参入者にとって大きな魅力になっているのだろう。タグ化され流通することが一般化したピクセルアートは、フォークアートと呼ぶこともできるし、もはや立派なヴァナキュラーな文化にまで成長している(さしあたり「文化」という語を用いる)。
9月24日、「SACS」で一日限定で開かれたドットレカ展は、足を踏み入れると和やかかつ活気ある空気にみちており、各所で交流が見られた理想的な「サロン」だった。私も短い滞在の間、数人の方と自己紹介を交わすことができた。あるひつじによる構想から三年半、近藤永理が実現に二年をかけたという展示は、各貢献者の熱気が凄まじかったことは、今一度強調しておきたい。

ドットレカには枠が存在するので、写真メディアを意識した作品も多かった。

ドットレカとは、一般的なトレーディングカード状の大きさ(横型)でのドット絵表現で、参加者は前景・中景・後景からなる三枚のレイヤーからなるドット絵と、三枚のカードを用意する。こうして、レイヤーの交換を通じて、遠近の解釈の違いを感じながら、「作風」を玩味することができるという寸法。ドットレカ作者一人一人のプロフィールが大きく掲示してあったのが特徴的だ。コンペティションに限らない、形式を定めた上での、絵の挑戦はもっとあってもよいと感じた。何よりこうしたサロンは長く続くべきだろう。

スタンドによって平面が奥行をつくる。もっと作品スケールを大きくした、ピープショーのような装置化も考えらえる。

Shinji Murakami—Back to the Classics

MIYASHITA PARK「sequence」の入口、窓際に設置されたLEDの絵文字 emoticon が光る。架台を含めると、ガラス窓の高さいっぱいの巨大さだが、実にさり気ない。中のカフェ/ラウンジ(クロージング・パーティと同会場)に入ると、あたかも元からそこにあったかのように、小型でシックな外観のAtari 2600(以下、VCS)が置かれており、家族連れやカップルがブラウン管TVに映し出されたホームブリューを気ままに遊んでいる。その解像度は160x192。256x240のファミコン以下だ。カフェにはゲーム画面のパネルも掲示されており、そこに掲示されたQRコードを端末で読み込むと、エミュレータ(JAVATARI)で同作品を遊ぶこともできる。任天堂のファミリーコンピュータ(以下、ファミコン)と比較すると、1977年で合衆国で発売されたVCSは現地の人間ほとんどにとって圧倒的にマイナーであるどころか見知らぬ家具に映っていたはずだが、Shinji Murakamiの「Back to the Classics」では、そのヴィンテージ性と宮下パーク屋上と分離されて出来あがるカフェ内の雑踏が妙にマッチしていた。

左:会場入口で来場者を出迎えるShinji Murakami《:)》(2023)。一定間隔で絵文字の表情が変化する。
右:同《Emoticons》(2023)。LED彫刻のちょうど真裏に設置されたゲームスペース。少し音痴な(VCSの特徴の一つ)「エリーゼのために」がバックグラウンドで鳴り、ラスタースクロールを二個の絵文字が角に反射しながら動く。各絵文字はコントローラーで動かすことができ、これもぶつかるとSEとともに顔が変わる。

《Pizza Boy》《Mars Lander》《Emoticons》といったゲームは、他のVCSタイトルと同様シンプルな作りで、エンディングを見ることが目標にならない、といった性質は指摘しておいてよいだろう。目覚ましいグラフィック表現やゲーム性に頼らない、小規模なゲーム。ファミコンの著名タイトルをあえて手本に取らない「ふつうさ」がAtariゲームの雰囲気を効果的に輸入するために、重要だったのだろうか、と思う。

左:Shinij Murakami《Mars Lander》(2022)
右:同《Pizza Boy》(2022)
スペースの奥、二種のゲームは隣り合ってプレイアブルな状態で展示。その途中にはゲーム画面を切り取ったパネルがQRコード付きで壁に掛けられている。

ななみ雪—ラブライブ!スーパースター!! × Shibuya Pixel Art 2023、ななみ雪の小部屋

ななみ雪は今回、最もイラストレーターとしての作家性がフィーチャーされていた一人だ。「渋谷キャスト スペース」では、アニメ作品『ラブライブ!スーパースター!!』とのコラボレーション展が、「FUJIFILM WONDER PHOTO SHOP」では、「ななみ雪の小部屋」と称するPOP-UPブースが設けられていた。ピクセルアートのサブジャンルとしてのドット絵は、特にTwitter(現:X)のようなSNSでの発表と交流が主となってから、風景の一角から全面に女性が佇む構図がシンボリックになっていた。ある時はポーズをとり、ある時はさり気なく。ななみ雪のイラストの多くも、画面外にカメラが意識されたフレーミングと構成で、しばしば自撮り風、スナップショット風である。ピクセルアートと写真メディアは無縁どころか、強い関連性を持っている。その意味で、富士フィルムの写真店でのコラボレーションは非常に納得のゆくもので、すぐ傍に「チェキ」が販売されていたのが素晴らしい(これはイベント運営ではなく、店側スタッフによる配置だと想像するが)。また、こうした、一風景と女性という構図が、アイドルアニメ作品のグッズ展開と親和的だ。実際、「デートをしている風」のプロマイドが、作家が好んでいると思われるSynthwave系アートの色調を脱して時間帯を真昼に移しながら巧みに描かれており、「渋谷キャスト スペース」にはアニメ作品のファンらしき人も多数見られ、ピクセルアートがメディアミックスのなかでいかに受け入れられているかが伺えた。

左:スペースに入って通路側の壁に並ぶななみ雪の代表作。
右:ぐるりと体を回転させると、奥のプロジェクタースクリーンを中央に、左右に分けてずらりとコラボレーションによるイラストレーションが垂れ下がる空間が広がる。オリジナル作との明暗が対比的だ。

Zennyan—The Land of the RGB

今回、(ビットマップ)テキストを最もヴィジュアルに活かしていたのは、間違いなくZennyanである。「adidas Originals Flagship Store Harajuku」の一階から地下一階向かう階段横と踊り場の壁面、やや窮屈なスペースに何らかのゲーム画面らしき――少数のパレットの明るい発色と低解像度は8-bitゲーム機を基準にしているようだが、特定機種があるようではない――、A~Jまでのアルファベットが振られた、パネルが掛けられている。その中央にはひと際大きな地図が配置されており、その上部に作品タイトル「The land of RGB」というドットで刻まれた文字が読める。地表が雪のように真っ白なのは、RGB由来か、と直ぐにくすっとくる。白い大地から、私はマイク・シングルトンが1984年に発売したZX Spectrum用ゲーム、「The Lords of Midnight」(2010年代前半、iOSやWindowsといた現代プラットフォームに移植されている)を思いだした――このゲームも地図とテクスト付きのイベント場面からなり、移動にともなうたとえばスクロースで表現される道のりはゲーム内で省略されている。

左:《The Land of RGB》の全体地図。各所に割り振られたアルファベットは地図左右のパネル名と対応する。
右:人が二人すれ違えるほどの階段から見た展示スペース。

地図にはイベントの発生する場所にアルファベットが記されており、パネルと対応しているとわかる(パネルの壁面上の位置は、地図内の座標と、方向的に必ずしも合致していない)。地図の下には「この世界には、5つの星が隠されている。」とあり、パネルを往復しながら星を探すことがゲームの目的だということも、また即座に理解できる。トップヴューで描かれた地図はオーソドックスな2DRPG風だが、各パネルの画面構成は時に3DRPG風、時にオールドスクールなグラフィックADVの一枚絵風で、もっと多様である。特徴的なのは、いくつかの人物との出会いがイベントに設定されているのだが、主人公=プレイヤーはドット絵内に表象されていないことだ。ゲームを進めていくには、スクリーンショット的でもあれば、完成途上のモックアップ的でもある画面内のテキスト(鑑賞者に向かって「あなた」と語りかける)を丹念に読む必要がある。テキストの色や配置の仕方はパネルによってさまざまで、仮想ビデオゲーム上のUIが統一されているわけではない。このテキスト表象の散逸と過剰性が《The land of RGB》の鑑賞経験を特別のものにしている。

パネルのなかでのテキストボックスの配置は一様ではないし、どこから読むべきかも指示されていないが、適切な短さと遊び心で鑑賞者に読むことを誘う。自キャラクターが表象されていないこと文字への喚起を誘う点に注意されたい。

目の前の一つの場面を手短に説明し、プレイヤーにリアクションを求める(時に強制する)テキストとフレイバー的イメージ、ならびにインデックスを通したゲームプレイはゲームブックを想起させるが、展示形式は予想と異なり、ゲームプレイの順番を厳密に規定することはない。実際に目に入ってくるパネルは不連続で、シーンとシーンの間が省略されていることによって、鑑賞者ごとの補完作業が必要になる。作家はこの過程をイマジナティヴなものと捉えているようだ。エンディングも一応は設けられているものの、このゲームはパネルの並置という形式によって、どこか永遠に未完成な様子を与える。

ワイヤーフレームで表現された疑似3D(左)やグラフィックADVの一場面の構成(右)。決められたUIが存在しないがゆえの画像表現。実際にこうした多彩な画面が切り替わるゲームはあるようでない。

BAN8KU—30日間旅するkoneko

スマートフォン充填レンタルサービス「ChargeSPOT」のサイネージを利用して、一ヶ月一日毎に、渋谷・原宿界隈に約百の店舗で、BAN8KUデザインのキャラクター、konekoの違った姿に会えるというイベントは、単なるコラボレーション以上にユニークなものだ。「ChargeSPOT」の白・水・黄のイメージカラーは、作家が以前から展開するキャラクター、konekoを構成する限られたカラーと類似していて、それがコラボレーション決定要因の一つだったのかもしれない。
たまごっちのように疑似生物を持ち歩くのではなく、携帯アプリで育てるのもでなく、私たちが手にする機器の外部の空間に低解像度、数色の猫が「宿っている」。作家の公式サイトによると、konekoはあらゆるメディアを飛び回ることがコンセプトにあるそうだ――80 days around the world(80日間世界一周)ならぬ 30 days around shibuya(30日間渋谷周遊)というわけだ。「(旅先に)宿っている」あるいは猫なので「居着(憑)く」という感覚は、百というそれなりの規模が重要だと思う。また、バッテリーシェアリングサービス自体、一種の宿屋のようなものだろう。
今回、宿泊施設が複数の会場に選ばれたことは興味深い(「all day place shibuya」「sequence MIYASHITA PARK」)。メイン会場であった古民家「UNKNOWN HARAJUKU」にも、宿の要素がある。さて、こうした共通点は「シブヤピクセルアート」の美術館構想にどの程度まで関連してゆくのだろうか。

HAKKO X

繰り返せば、本年のテーマは「発光」と「発酵」である。開催主旨を読む限り、前者、「発光」はとりわけピクセルの存在論が問われている。ピクセルは一義的に定義できず、展示という実空間のために用意しなければいけないというわけだ。展示で配布されていたキャプション代わりのカードには、「~(作家名)にとってピクセルとは?」という問いが設けられており、各解答が各作家のピクセルに対する認識理解に役立つ。以下、各作品への感想に先立って、それらカードから作家自身の言葉をまくらのように引用する。
「発酵」についてはやや曖昧というかより定義が揺れている。ピクセルがピクセルアートとして実現する際のメディアの変容、創作と受容双方の変容を問題としていると受け取ることができる。
また、「様々なメディアや表現と結びつき変化・発酵してきた「ピクセルアート」を、ドット絵やレトロゲームの文脈から切り離し、現代を代表する視覚表現としてその多様さや奥深さに迫る」との展示に関する説明から、ピクセルアートの自律性やオーセンティシティを問うているといえる。しかし、そこに各作家の合意があるわけではない。以下、テーマの遂行を一面では前提にしつつ、各作家の取り組みを見ることにしたい。

キュレーターによる「HAKKO X」の導入。

Shinji Murakami

私の表現を伝えるための言語ツールのようなものです。(…)私のピクセルは「ニンテンドー」から「アタリ」にアップデートされたばかりですが、時期[次期の誤字か――引用者註]バージョンがいつやってくるのか今から楽しみです。

Shinji Murakamiにとってピクセルとは?

ピクセルアートと一口に言っても、解像度や発色をどの程度まで絞るかは任意である。表現形態の選択、創造も大事だ。オールドスクールのホームコンピュータやビデオゲーム機の仕様に基準を求める場合とそうでない場合がある。Shinji Murakamiの場合前者であるが、その表現形態は狭義のドット絵表現ではなく、実機動作可能なゲーム作品である。そして言語ツールの明快さためにロービットの単純さが選ばれており、それらは今日の実機仕様に依存しないデコラティヴなドット絵と対照的で、明るく乾いた印象を与える。しかし、「ニンテンドー」でも「シンクレア」でも「コモドール」でもなく、Atari VCSがプラットフォームに選択されているのは、彼がニューヨークを活動拠点とする点を差し引いても、謎めいている。8-bitビデオゲームにおいて数々のクローンが見られたように、彼のデザインするホームブリューが、必ずしもオリジナル志向でないことも興味深い。たとえば、「sequence」で展示されていた《Mars Lander》は慣性と燃料の制御が肝要な宇宙船着陸ゲームで、その源はさしあたり膨大なクローンを生みだした1973年の「Moonander」に求められる(さらに、グラフィカルな「Moonlander」の祖先として、テキスト形式の着陸ゲームである1969年の「Lunar Lander」が存在する)。「Flappy Bird」のVCS移植版を元にした《Tweety Bird / X》は、自機を右前方向に進ませてゆく目的はあるものの、エンドレス、ゴールレスと言ってよく、その操作の難しさもあって、ツイッター・バードおよびXマークの墜落=ゲームオーバーが幾度ともなく繰り返される。その諷刺の意味を深く突っ込むのは野暮だろう。

Shinji Murakami《Tweety Bird》(2023)
プレイする度に、プレイアブル・キャラクターが鳥とXとで入れ替わる。

Shinji Murakamiはもう一種、16x16ピクセルのLEDマトリクス作品も出展している。そこにおいて観察されるのは、BGに対する、パターンの(疑似)スクロールや切替を通したスプライト(前景でのアニメーション)の優位である。むしろ、後景は、暗闇と一体化していたと言うべきだろうか。こぐみによる『HAKKO』を題材にしたキーヴィジュアルを除けば、後者は今回、唯一、暗闇での実際の「発光」をともなった展示だった。

古民家の玄関部分に展示されたLEDマトリクス。その先には明るい屋内が広がる。

MASARU OZAKI

光の球が落ちる、ぶつかって跳ね返る、じっと見ていると毎回同じ動きをしていないことがわかるだろう。

OZAKIにとってピクセルとは?

MASARU OZAKIもまた、LEDでのアニメーションを用いていた作家である。テトリスブロックのような形態(I型、S型、Z型)のディスプレイのなかを、一定の間隔で上方から球が跳ねながら転がり落ちてゆく。ただ均一速度、同方向にスライドするのではなく、重力があり、慣性のはたらく空間がシミュレーショトされている。それらは「LED Sculpture」あるいは「Motion Sculpture」と呼ばれる。キャプションによると、床の間での鑑賞が想定された彫刻群は、改修された古民家の白地の壁の前に設置されていたが、動きのある庭(外)に面していてもまた異なった見え方がするかもしれない。球は無音で跳ね返りながらディスプレイ外に消え、また上方から出現する。その微妙に調整された時間間隔によって、鑑賞者はしばし彫刻の前で立ち止まる。

左写真:Masaru Ozaki《ONCE MORE 9》(2023)(奥左)、《Pitfall (Monochrome Dreams) Ed. 2/8》(2023)(奥右)
右写真:作品シリーズについての詳細な説明があったのはMASARU OZAKIのみ
奥右:Masaru Ozaki《Spirals of the Temporal》(2023)

増田敏也

質感の無い低解像度なデジタル画像をイメージしている私の作品にとって物質感の強い土味や釉薬によるテクスチャーなどはある意味ノイズになると考えて制作してきましたが、(…)

LOW pixel CG「質感ノイズ(self portrait)」

会場で鑑賞者が好奇心や驚きの声を発することが多かったように思われたのが、増田敏也の立体作品である。ボクセルを積み上げたような、とても足に合わなさそうなスニーカー。プラスティックなピカピカの表面ではなく、視線を吸収する立体が、土で出来ていることにまずギャップ(彼の言葉では「ノイズ」)を感じる。そのスニーカーが溶け出したように抉れており、それら面のメタリックな輝きとブロックとの粒度の違いが、「これは一体何で出来ているのか」「一つの同じ素材なのか」という混乱、疑問を生じさせる。質感の無いものと慣習的に知覚するデジタルなディティールに、質感を衝突させることができるのが、「ドット絵」にはない「ピクセルアート」の固有性の一つだと言える。

増田敏也《Low pixel CG「質感ノイズ(self portrait)」》(2021)

EXCALIBUR

現実と仮想をつなぐ扉

EXCALIBURにとってピクセルとは?

増田の作品の特徴的な面白さの一つは、CG表現におけるピクセルを擬態していたところにあった。それに対し、EXCALIBURはディスプレイを擬態した絵画を思わせた。NEW GAME+シリーズに位置付けられる《形而上唯識図》では、光沢あるカラフルなドットが上方からの照明を受けるように並べられている。「ようこそ」「NEXT STAGE」「真実」という文字の装飾効果もあって、視線を差すほどではないもの、とにかく派手に映る。ドットの大きさは均一ではなく、スキャンラインのエフェクトがかかったように見える部分もある。コクピットが前景に描かれた対称性と正面性を保った構図によって、視線が中央の照準に誘導される。ディスプレイに対する理想的な視点は正面中央であり、さらに全体を見渡せる距離があることが望ましい。この受像機への鑑賞態度が、仏教画との類縁性を引き起こす。EXCALIBURの他の作品名が示すように、PLAYERはまたPRAYERでもあるということだろう。ディスプレイが大きく、またはディスプレイとの距離が近ければ没入度は増すように、《形而上唯識図》は鑑賞者をのみ込むように大きい。鑑賞者はちょうどコクピットの位置にいるのと同時に、作品を中央からトップビューで見下ろす、いわゆる神の視点にいるようにも感じる。一人称シューティングであるとともに「ポピュラス」のようなストラテジーでもある構図。

EXCALIBUR《形而上唯識図》(2023)
右:表面と四方のディティールの差異が、ピクセルの次元の境界、変換過程の存在を示すようである。

会場には本来の展示会場である「or」から移設されてきた《龍虎図》も展示されていた。《形而上唯識図》が黒地に黒く塗りつぶされた小さな凸状のパターンを重ねていたように、白地に絶妙に厚さが知覚できるほどの白のパターンによる配置が印象深い。龍虎はただカラフルに塗り分けられているだけでなく、一部がデジタルイメージの不可逆圧縮を受けたような色合いが変化している箇所があり、それらがデジタルな画であることを殊更強調する。それぞれの余白の位置はまた、図が一枚から二枚への分離を示唆している。

EXCALIBUR《龍虎図 #FFFFFFFF》(2023)
右:1ピクセルの大きさ、厚み、色は一様ではない。

重田佑介

ピクセルアートはディティール補完’(アンチエイリアス)を伴わないプリミティブなデジタル画像であり、クリアなディティールを保ったまま、あらゆる距離、大きさでの鑑賞を可能にします。

机上の合戦図屏風

六枚のディスプレイ(スマートフォン)からなる重田佑介の作品は没入という点で突出していた。視線を動かす至るところで表情を欠いた極小の人間が戦のなかで絶えず動いている。各々が何かの役割を遂行しながら、「歴史画」のなかをループしている(一瞥して、ループポイントを特定することは難しい)。その誰一人として、他のすべての動きを把握しているようには思えない「群れ」に属しており、ある種の無時間性を彷徨っているようにも見える。
「関ケ原山水図屏風」をモティーフにした大型インスタレーションを六個のスマートフォンに落とし込んだ本作は、ピクセルアート(に限らないが)鑑賞時の視点の単一性を揺るがす――たとえば、GIFアニメの多くは、誰もが同様に完結したループを見る経験を前提に制作されている。私たちは屏風を少し距離をとって眺めることで、ひとまず全体を視界に収めることはできるが、すぐさま細部のアニメーションに引き戻される。作品内にこれを見よ、という指示も視線の「あて」になるグリッドも存在しない。六枚のディスプレイは一つの連なった画面であり、恣意的に画面が分割されているからこそ、そのなかでどこを見るか、鑑賞者に能動的なフレーミングが要請される(ただ、屏風型であることから、見る角度によって液晶の色味が変化し、視認性の低下を招きやすかったことは、鑑賞体験のノイズになった)。この映像作品は完結性の完成度において比類ないが、細部のフローが途切れず、また夥しいため、鑑賞者に同時に未完結性の印象が強烈である=何度でも没入的に見てしまう。戦争RTSの指揮官のような気分にはなれず、微視の積み重ねが要請される。戦のドット絵アニメーションに関連して、ふと呉ソフトウェア工房が1996年に発売したPCゲーム、『デュエルサクセション』を思いだしたことを言い添えておく。

点のオール・オーバー・ザ・ワールドな大好きなキャラクター達を、書道った(カリグラフィった)点の「キャラグラフィー」シリーズ。英語で文字は "character" 英語でキャラクターも"character"(…)

m.i.c.k.e.y

の「キャラグラフィー」は、緻密さと精彩さを重田とは別のベクトルで実現している。モティーフを媒介されたイメージに置く手法はポップアート的で、またポップアート同様、一見したところの「分かりやすさ」を、細部が混乱させる。EXCALIBURの作品と隣り合い、会場でひと際大きな白地のカンヴァスに描かれる有名キャラクターの黒い正方形のドット(これでもディスプレイの擬態ではある)はムラなく、グリッドからのはみ出しなく几帳面にかつ平坦に塗られ、面であることの強調がアイロニカルな笑いを誘う。折り目正しいグラフィティ。作家が書道を参照しているように、これは見られる「字」だ。左下には署名が入り、非売品である(「キャラグラフィー」は原則として非売のようだ)。カンヴァスのサイズとモノクロームによる強い主張が、風通しのよさを与えていた――売らない、売れない物体の連なった表面の強い現前。

点《m.i.c.k.e.y》(2023)

沼田侑香

私たちの生活圏内でよく目にする商品を現実世界では起こりえないコンピューターバグなどのデジタル社会への介入を示唆させています。

Computer drawing“キャベツ太郎”

沼田侑香はよりはっきりとポップの戦略を提示している。モティーフとなったスナック菓子は、タイトルにおいて明示されているし、商品名も視認できる。「Computer drawing」と銘打ってはいるが、コンピュータ加工で横長引き延ばされたようなイメージを構成するドットはアイロンビーズである。点の作品と比較した場合、コンピュータ画面上でのソフトウェアを用いた変形過程がまず想定される。ドット絵の作画工程では引かないような捩れた線が特徴的だ。そして、ビットマップ・イメージをアイロンビーズへと変換してゆく際、手作業での変形も起こり得るだろう、と合間の手順を想像できる。増田作品の凝縮力と異なり、ピクセルとなるビーズはバラバラになる離散性が強調される。イメージ加工の段階的手順が可能にする可塑性、ただしそのなかでも「キャベツ太郎」という商品名とカエルのキャラクターは、変形を経ながらも形態がズタズタに視認できなくなるまで消去することができなかったことを強調しておきたい。メルトした「キャベツ太郎」という商品であることが重要なのだ。

沼田侑香《Computer drawing“キャベツ太郎”》(2022年)

Zerotaro

物質世界の原子のような、デジタルにおけるヴィジュアル表現の最小単位。ピクセルが集まり形を成す様子が彫刻的だと感じる。

Zerotaroにとってピクセルとは?

ミッキーマウス、駄菓子に続いて、ヴァナキュラーなイメージを採用していたのがZerotaroの「LEDドット絵彫刻」(作家による呼称)だ。そのイメージとは日本札にほかならないが、目の粗さと会場の照明下では青みがかった発色は再現性よりも大胆な抽象の方に重きが置かれている。私たちが紙幣と認識するには、目を細めなければならず、イメージの「発見」までラグが発生する。その意味で、紙幣はいま、ここに二重の意味で「存在しない」。ディティールが潔く捨象されているがゆえに、脳内補完による恣意性を否が応でも意識させられるというわけだ。「紙幣は物質でありながらヴァーチャルな存在である」とまで作家は言う。

Zerotaro《Bill (Ed. 1/3)》(2023)
紙幣のイメージは時間とともに切り替わる。

中里

解像度のフィルターを通して再認識した世界から抽出した要素の断片。現在の自分にとって最も心地良い抽象化の手段。

中里にとってピクセルとは?

Zerotaroの紙幣は実物より大きくそして何百倍も厚く、やや大仰にも見える装置と化することで、モニュメントとしての存在感を放っていた。ちょうど左隣に展示しある中里の1m長のパノラマ画の描く高層ビル群、その麓に広がる低層ビル、家屋は、抑えられた色彩もあって、寡黙な空気をまとっている。一色の空。青みがかった街並みは静止のなかに充溢している。たとえば今回の出展者のなかではEXCALIBURが他の風景画において際立たせるような「名所性」は極めて希薄で(たとえば、ななみ雪のコラボ展も渋谷=シブヤに対するオーセンティシティを背景に持つ)、一見積み木的に見える構造物は、さながら群島のように密着して大きなブロックを構成しているかのようだ。高台から見下ろす斑(まだら)状の家屋。モニュメンタルなオーラの希薄な風景画は、しかし実際には「聖蹟」桜ヶ丘を描いているという事実が、少し可笑しくもある。そのタイトルであり地名は、額装されたドット絵解像度外の白いスペースに、鉛筆で書かれている。

中里《聖蹟桜ヶ丘》(2023)

2:1の非正方形ドットを採用した本作は、ある種のタッチでもありパターンでもある1ピクセルが、都市のディティールに統一感を与えると同時に、情報量の抽象と圧縮の仕方が、都市の新たなテクスチュアを発見させる。中里は方法として抽象を選択しながら、また自身の作品に対して「写実」という言葉も用いることがある。ビル群は巧みに描き分けられつつ、一部の建築がシンボリックな価値を持ちすぎることが避けられており、全体が質感と重みをもって屹立している。かつ場の固有性が失われていない。

近くで鑑賞すると建築群は立体感を失う。

バウエルジゼル愛華

ピクセルひとつひとつには独自の色と位置があり、それが全体の美しさや表現力を構成する、細胞のようなものだと思っています。

バウエルジゼル愛華にとってピクセルとは?

バウエルジゼル愛華の色濃くリッチなパレットで描かれたピクセルアートは、興味深いことに、落ち着いた色調の中里の風景と、制限されたパレットと経年もあってよりぼやけたブラウン管に映るVCSのゲーム画面の間に位置していた。「ピクセルひとつひとつには独自の色と位置」という作家の言葉の通り、全ピクセルが無駄なく、ズレなく配置されており、全面がドットを見ることの楽しみにによって敷き詰められている。忍は最前面にいるというわけではなく、奥行のない空間に、他の装飾群と中央に位置する忍は同様の密度で描き込まれており、かつそのことが遠近感にめまいを起こす。一応は右上の橋を背景と認識の基盤に持ってくることもできるが、全体を覆うドットの燦然たる輝きがその支えを打ち壊し、スケールと前後が不確かなイリュージョンに視線を引き戻す。

バウエルジゼル愛華《Shinobi》(2023)

香月恵介

私の解釈するピクセルは明滅する色彩である。明滅している画面は、画面における最小構成要素であるRGBのサブピクセルの組み替えによって人の視覚で知覚できないほど多様な色彩を作り出している。ピクセルは結果、面的な画に見えるのであって、原理的には光る点である。

香月恵介にとってピクセルとは?

ドット絵やGIFアニメという形式(?)でSNS上に流通するピクセルアートは複製可能性が前提となることもあり、フォトジェニックになる傾向がある。それらは網膜的にあまりに美しい。今回、クリティカルな肉眼での鑑賞体験を提供していたのは、香月恵介の絵画だろう。液晶でのRGBによる色彩認識を、パネル上のアクリル絵具にデコードしたイメージは、ぱっと見て薄暗い。文字通りの暗さだけでなく、絵画のはずなのに、電源が切れた後のディスプレイの暗さも表面に認知する。

左:香月恵介展示部。 Pixel Painting〈Colors〉seriesより。
右:香月恵介《3600 Colors No. 26》(2022)接写。

マチエールの粒立ち(支持体上のプレーンな絵具の隆起に草刈ミカの凹凸絵画を想起した)と全体における形態の現前が引っ張り合うように、「滑らかな」イメージをこちらに与えない絵画だ。遠近での印象の差異の大きさは、展示のなかで最も大きかった。光の手動的合成(ここでも「光合成」!)という試練を鑑賞者に課すこれら絵画は、光が視認操作の可能性を追求するように物質変換されることによって、1677万色を視認できると、液晶上の色彩を信じている、私たちの「信」の構造を浮き彫りにする。

左:香月恵介《3600 Colors No. 19》(2022)
右:同上、左上部接写。

ヘルミッペ

マス目が見えていることです。マス目に沿って絵を描くルールがあることで、遊びが楽しくなるので作品に取り入れています。

ヘルミッペにとってピクセルとは?

ピクセルをいかなる形態に定着あるいは発現させるかが、展示の大きな目的に設定されており、実際会場の作品のメディアは実にさまざまだったが、そのなかでピクセルに対して別の着眼点を提示し、新たなアプローチをとっていたのがヘルミッペだった。本作の主要素が、中央のデジタル作画によるドット絵で描かれたマンションであることは見ての通りだ。しかし、それは5x5の25枚のポラロイドフィルムに定着、分割されており、また各フィルムの映り方は滲みによって同様でない。

ヘルミッペ《マンション緑化》(2023)

「マス目」が多元的に、あらゆるところに存在する。フィルムとフィルムの隣接が構成する目地、木枠に掛けられた網の模様、ビットマップ画像を作成する上で必要だった(最終的に不可視化される)グリッド。「マス目」が一元的でないことによって、鑑賞者はピクセル(らしきもの)と別のピクセル(らしきもの)を同時に、対比的に見る。結果として、まさにミクストメディアらしく、均質な要素からなるイメージを超えている。作家にとってピクセルが必ずしも空間充填的でないというのは重要な点だろう。また、本作は、フィルムの継ぎ目の不揃いであったり、フィルムを支持体に固定する糸の張り方等、手作業の跡が「豊饒な」印象を与え、支持体に対するフェティシズムのようなものさえ喚起し、どこかロバート・ライマンの絵画をも想起させる。背面が不可視にもかかわらず、絵画的というより彫刻的である。付け加えて、「40年保つとされる」インスタントフィルム、木枠、網といった素材の選択が「発酵」というテーマに応えたものであることを言い添えておかねばならない。作家によれば、モティーフとなったのは、頻繁に修繕が繰る自宅近くのマンションだったという。

古くなった所を継ぐ用に治す様子が大事にされている木みたいで、植物を感じていました。
工事の時に建てられる塀?も街路樹に這う地衣類のようで、街の補修と植物の活動に共通点を感じます

9月25日のヘルミッペのTwitter(現:X)の投稿

長期的観点からの作家のモティーフから素材まで考えられた作品は、展示にあって異色である。結果として、それは作品が「フレッシュであること」「新奇であること」が、持続性を忘れやすいことを示唆している。

木枠に布が貼られていないので、糸(直線ではなくよれている)のグリッドが壁に影をつくり、また新たな「マス目」、うつろなピクセルをそこに見ることもできる。それらが図像の模様と照射し合う。

岡田舜

ドットを追うように筆を動かす動作の中で、“わけがわからなくなる”瞬間がある。その混乱の中でなぜか、昔布団の中で感じた、画面の中のピクセルと直接触れ合うような錯覚を感じる事がある。

岡田舜にとってピクセルとは?

一文に「中」という字が三度。岡田舜のピクセルの操作は、全体を見渡した上で一つずつ置いてゆくようなものではない。上下、左右の油絵具のストロークが明確に残されている。引っ掻かれたカンヴァスは、傷の入ることで逆説的に透明なドット絵のイメージであることを拒み、手と画面が密着した、痕跡塗れのオーセンティックな「絵画」たらんことを欲している。ファミコンの「バグった」画面をモティーフとした、一連のシリーズに位置付けられるであろう本作品は(ファミコンとカンヴァスの画面比の差異が気になるところだ)、暗闇のなか、岸壁(?)越しに海あるいは池を望む風景画と言えなくもないが、地の黒い広がりと下部の無意味さを強調する緑のパターンによって第一に来る対象を喪失してしまっている。沼田のビーズ作品と比較した際、デジタル・イメージの変換過程によってこうも出力の印象が変わるのかと鑑賞者は驚くだろう。

岡田舜《tu ? [S;! ? ~:T6! ? ~: ? o? ??? ua ? ? ? { ?? a ? R~20 ?? } N]"g~] ? m~g ? d ??? U》(2023)

奥田栄希

俳句のようなもの。限られた文字数で物語を得るように、削ぎ落して削ぎ落して、残るイメージの源泉。

奥田栄希にとってピクセルとは?

奥田栄希は《BINARY MONSTERS》というファミコン作品を展示するために、実機とカートリッジ、そしてブラウン管TVを用いていた。作家が提示するのは、シークェンシャルなゲーム体験ではなく、8x8のスプライトのモンスターのキャラクター一覧である。ブラウン管には、合計で1024体存在するというモンスターの一部が等間隔に並び、さながらデバッグ画面のようだ。コントローラのボタンを押すことによって、色味が変化する。ファミコンの横には、「GAMEOVER」の文字とともにキャラクターが描かれたカンヴァスも掲示される。また、鑑賞者はそれらドット絵のミクロなモンスターを画像生成AIを使って精彩なイラストレーションに変換したファイルも眺めることができる。ここでは、作品は未完のままであり、私たちは省略された本編について、キャラクターを元に自由に思い描くことが許されている。よくよく考えてみれば、雑誌や攻略本の類で触れる機会のないゲームについて想像を膨らませることは、かつてあり触れた経験であり、所持しないタイトルのプレイ動画で「内容」を即座に知ることができる現在の土壌は、何かを失ってしまったとも言える。余白だらけの《BINARY MONSTERS》は、ゲームプレイの総合性について今一度考えさせてくれるだろう。

奥田栄希《BINARY MONSTERS》(2023)

m7kenji

僕にとってピクセルは想像力や経験、記憶の引き出しを開けるような伝達記号です。(…)シンプルな図形やスプライトの組み合わせにより作られるビジュアルは実際の形や色よりはるかに深い意味を持つように感じられそこに魅力を感じています。

m7kenjiにとってピクセルとは?

余白といえば、会場窓側にプレイアブルで展示されていたm7kenjiのゲーム作品《Ringo》もそうである。携帯電話(いわゆるガラケー)、スマートフォン(iPad)、モバイルゲーム機の三種のプラットフォームで、同種のゲームを遊ぶことができた。移植によって操作性は異なるが、根本的なゲーム体験は不変である。黒地の一画面のなかの一人のキャラクターを操作して、リンゴを獲得するというもの。不気味と言えば不気味で、本来のフィールドを外れてバグった空間を彷徨い続けるホラー、と解釈することも十分に可能だ。リンゴを獲得するとまた次のステージへ進む。ステージ進行によって画面内のスプライト(触れても特にペナルティはない)が移動し、また時折断片的なテキストメッセージやジングルが流れるが、これらはおそらく完全にランダムである。つまり、プレイヤーはエンドレスにリンゴを獲得して動き回り、最終的なゴールはこれといって提示されていない。操作によって能動的にインタラクションを起こすことができるのがリンゴだけなので、プレイすればするほど、操作キャラクターよりもリンゴの方がなまなましい実体として認識するようになるし、その過程でそれ自体は何も言わない、強く意味付けされない記号の受け取り方の変化を感じていくことになる。
《Ringo》は、グラフィックやテキスト、音とのランダムな出会いを通じた、強い一貫性のあるプレイ体験を提供する。未完であり、時間や死といった、何にも急かされることはない。代わる代わるプレイヤーが自機を操作し、リンゴ獲得によるSCOREだけが累積する。それは単純な数値表現だが、画面構成含むゲーム内容もあり、他の鑑賞者の存在が幽霊のようなものとして鑑賞に影響を与えていた。私もまた、エンドレスなゲーム体験のなかの「任意の一人」なのだ。

m7kenji《Ringo》(2008-2023)

『HAKKO』の跡で

ピクセルアートはしばしばあまりに「速い」。
キュレーターの坂口元邦氏は「HAKKO X」展に寄せたパネルのなかで、テーマを定義するために屋外光に取り組んだクロード・モネ、ベンデイドットを転用したロイ・リキテンスタインといった美術家や、あるいはクリプトパンクスのブロックチェーンアートの例を引きながら、「いずれも作家の作品は、像が鑑賞者の脳内で完成し、脳裏に焼き付けられるという共通点を持っている」と述べている。写真現像の隠喩が用いられていることが目を引くが、この文章のなかでの「脳内での完成」と「脳裏への焼き付き」の先後関係の不確かさは、むしろ両者が「即」で結ばれる限りない近しさを示唆している――私の見るところ、ピクセルアートもまた、瞬間的に全体が知覚される鑑賞経験をしばしば制作の条件としているかのようである。いかに速く、ロスレスに脳内に、あるいは網膜に完成したイメージを定着させるか。特に、デジタルなドット絵表現の場合はそうである。
一方、リアルの展示空間では、むしろ鑑賞体験に厚みをつけるために、作家たちは試行錯誤する。再びパネルのなかの言葉を用いれば、「「ピクセル」を画材に取り込む」手順が必須になる。「取り込む」は「スキャン」と解釈することもできるが、その手段に限らない。むしろ作家はピクセルという認知的要素を外部から持ってきて、場合によっては発明し、一個の作品を構成しなければならない。おそらく、そのとき、ピクセルはアクセスしやすい身近な表象や手段から、外国語のようなものに「なる」。

この際、制作上の戦略がいくつか存在するようだ。
数は重要である。奥田栄希の《BINARY MONSTERS》は8x8の極小のモンスターがファミリコンピュータ上のビデオゲームの一般的スケールを超えて、1024体存在する。展示において抜粋されていた過剰な数のキャラクターは、別の場所に結集した(NEWoMan新宿、未見)。
重田佑介の屏風アニメーションのような作品はどうだろう。細部を寸分漏らさず記憶することは、限られた鑑賞時間のなかでは不可能に近い。だが、鑑賞時間が足りなかったと言えばそうではなく、作家は全体が一挙に伝わる強固なイメージを提示している。
香月恵介のピクセル絵画の場合、「脳裏への焼き付き」は複雑な過程をとる。絵画との距離、見る角度によって、像の一義性が激しく揺らぐからだ。像の視点によるギャップは埋まらないまま、一個のイメージ完成は遠のく。「発光」の漸近的な遅さ、に立ち会っているようだった。
ヘルミッペの作品は、経年のなかでの作品の持続と鑑賞に焦点を当てている。もしかしたら、修復がこの先に必要になっていくかもしれないが、そうした過程、目には気づかないほどの「遅さ」のなかでの鑑賞体験こそ、作品の制作と消費の短いサイクルに抗するものになるだろう。

公式サイトでは、「HAKKO X」に関して「様々なメディアや表現と結びつき変化・発酵してきた「ピクセルアート」を、ドット絵やレトロゲームの文脈から切り離し」という文言も見られるが、実際にはアプローチを変えながらビデオゲームの歴史に迫っていた作品が多かったことが記憶される。それらゲームはしばしば、パッケージ化された作品の「完成」とは遠かった。
Shinji Murakamiやm7kenjiのビデオゲームは一プレイが極端に短くて構わず、前者の場合、進捗につれて難易度が向上するが、エンディングへの到着は問題にならない。ステージが次に進んでも根本的ゲーム性に変化はないので、限られた鑑賞時間のなかでは両作品とも明確な「ループ構造」が炙りだされる。ループによる体験の焦点化は、ビデオゲームだけではない。重田佑介の屏風図に見られるように、アニメーションの問題と接続し得る。
Zennyanの展示はマス目もサイコロも存在しない双六のようなものだったが、画像の精細度や疑似インターフェースはやはりビデオゲーム(こう言ってよければ「レトロゲーム」)との類縁性を保っている。一プレイはShinij Murakamiやm7kenjiのものよりは長い。なぜかと言えば、そこでは目的とエンディングが設定されているからだが、リニアなゲーム体験とは遠いものが目指されており、開発中のビデオゲームを遊んでいるように錯覚する。
ゲーム作品のループ構造や未完性は展示の仮設性が要請するものだったが、こうした特徴はインディゲーム開発とは別種の線を引くのだろうか、そこに交錯するのだろうか(前二作品はインディゲームの文脈も持つ)。

先述したように、とりわけ「HAKKO X」においては、キュレーターによるピクセルアートのオーセンティシティへの意識が濃厚だが、実際に展示を見ると、この新しいメディアは、写真やビデオゲーム、絵画、さらには掛け軸といった領域、メディアと密接に関連していることがわかる。岡田舜の絵画がビデオゲーム画面に着想を得つつも特定のタイトルのブランド性を脱出しようとしている一方、Zerotaroの「日本紙幣」、点の「ミッキーマウス」、沼田侑香「キャベツ太郎」にようにモティーフのオーセンティシティが決定的な作品もある。これだけもピクセルアートは純粋な様式に落ち着かないことは明らかだろう。

展示の総括を目的とした文章ではないので、ひとまず、ここで終わる。

SHIBUYA PIXEL ART 2023 HAKKO 09.15(fri) - 09.24(sun)(シブヤピクセルアート2023)


2023/10/08 脱稿、一部加筆訂正
10/15 誤字修正・一部訂正

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